【京都歴史散策】豊臣秀吉の京都再開発で誕生した「寺町」の歴史ある寺社を巡る
豊臣秀吉の京都都市計画で生まれた寺町
寺町通(てらまちどおり)は、京都市の通りの一つ。現在は北は鞍馬口通りから、南は五条通りまで、全長約4.6kmの南北に走る道だ。
四条通りから三条通りの間は、すぐ西を並行して走る新京極商店街とともに寺町新京極商店街として、京都有数の繁華街を形成する。
寺町通りは、平安時代には平安京の最も東にある通りで、東京極大路と呼ばれる道幅32mの大路であったが、1467(応仁元)年に起こり、その後約11年におよんだ応仁の乱で荒廃した。
1587(天正15)年、九州平定を終えた関白・豊臣秀吉は、平安京大内裏跡に聚楽第を築城。さらに1589(天正17)年、小田原北条氏を降し、天下統一を成し遂げた秀吉は、翌年から応仁の乱で荒廃した京都の復興に着手した。
そして、寺町通から現在の新京極を含む一帯に、京都市内に散在していた寺院や神社が集まり寺町が形成された。
その時、この地に集められた寺院の数は80寺以上にのぼったといわれる。
これが由来で、かつての東京極大路は、「寺町通り」と呼ばれるようになったのだ。
この寺町の一角に、京都府などによって新京極が造られたのは明治初年のことである。新京極は、京都で最も古い繁華街だが、明治の東京遷都で沈滞した地元の活気を取り戻すために造られたという。
その際、寺院の敷地を接収して縮小させたことで、秀吉の造ったかつての寺町の景観は一変してしまった。
しかし、現在でも京都の中で、寺院や神社の密度が一番高いエリアになっている。寺町通り・新京極付近の寺社をめぐると、秀吉の行った京都改造計画の名残を幾つも発見できるだろう。
今回は、そんな寺町通りを四条通りから御池通りまで北上してみた。そこに今も現存する寺社を紹介しよう。
安産祈願に霊験あらたかな寺院「染殿院」
四条通りからすぐ、寺町通りと新京極商店街のほぼ中間にある小さな寺院。賑わいをみせる界隈からほんの少し入っただけで、別世界のような静寂に包まれている。
寺伝によると808(大同3)年、弘法大師空海の開創という。本尊は秘仏・木造地蔵菩薩立像で染殿地蔵と呼ばれる。
染殿の后とも呼ばれた文徳天皇の皇后・藤原明子(ふじわらのあきらけいこ)が、この地蔵尊に祈願して後の清和天皇を生んだといわれる。
これが由来で「染殿地蔵尊」と呼ばれ、安産祈願に霊験あらたかな寺院とされる。
公式サイト:http://www.somedonoin.com/
もとは歓喜光寺の鎮守社だった「錦天満宮」
錦市場がある錦小路通りの東端にある神社。学業と商売繁盛の御利益があるとして、地元の人々からは「錦の天神さん」と親しまれている。
1003(長保5)年、菅原道真の父・菅原是善(すがわらのこれよし)の旧邸・菅原院が、嵯峨天皇皇子・源融(みなもとのとおる)の旧邸・六条河原院の跡地に移築された際に建立された、歓喜光寺の鎮守社として、天満大自在天神(道真)を祀ったのが始まりという。
公式サイト:https://nishikitenmangu.or.jp/
癌封じ・病気平癒の御利益のある「蛸薬師」
「錦天満宮」から北へ2分歩くと「蛸薬師」がある。正式名は「浄瑠璃山 林秀院 永福寺」という。
蛸薬師堂は日本各地にあったタコにまつわる伝承信仰だが、新京極の蛸薬師は永福寺の本尊だ。
同寺の本尊は本来、伝教大師最澄作の薬師如来であったが、いつしかこの本尊が蛸薬師と呼ばれるようになった。
癌封じ・病気平癒の御利益で知られ、毎月8日には大般若会が行われている。大晦日の大根炊きでも有名。
秀吉の寺町整備時に二条室町から移転した。
公式サイト:https://takoyakushido.com/
初代住職は和泉式部とされる「誠心院」
「蛸薬師堂」から北へ徒歩1分。「誠心院」は、関白藤原道長の娘の上東門院・藤原彰子(ふじわらのしょうし)に仕えた和泉式部のために道長が一庵を与え、式部が初代住職を務めたのが始まりとされる。
式部は、恋多き女性としても知られた才色兼備の女流歌人で、女流日記文学の代表的作品『和泉式部日記』を残した。
同寺の本堂は小御堂といい、本尊の阿弥陀如来像の他、和泉式部・藤原道長の像を安置する。境内には、式部の墓と伝える宝篋印塔と式部の歌碑がある。式部にちなみ、知恵授け・恋授けに御利益があるとされる。
公式サイト:https://www.seishinin.or.jp/
女人往生の寺として知られる「誓願寺」
「誠心院」から北へ1分歩くと、浄土宗西山深草派の総本山「誓願寺」がある。
同寺の歴史は古く、始まりは667(天智天皇6)年に、天智天皇の勅願により奈良に創建されたという。
寺伝によれば、鎌倉初期に京都の一条小川に移転。その後、1591(天正19)年に秀吉の寺町整備に際して現在の三条寺町の地に移された。
清少納言・和泉式部・秀吉側室の松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺として名高い。
公式サイト:https://www.fukakusa.or.jp/
地獄に堕ちた亡者を救う地蔵を祀る「矢田寺」
「誓願寺」から北へ進み、三条通りを左に曲がるとすぐに寺町通りと交差する。その右側にあるのが「矢田寺」だ。
「誓願寺」からは、徒歩3分ほどで到着する。
平安時代の初め頃に、大和国矢田寺の別院として五条坊門に創建され、1579(天正7)年に現在の地に移転したという。そうなると同寺は、秀吉の寺町整備以前から同地にあったことになる。
本尊は高さ約2mの地蔵菩薩像で、矢田地蔵と呼ばれる。開山の満慶上人が冥土へ行き、そこで出会った生身の地蔵尊の姿を彫らせたものとされる。
俗に代受苦地蔵(だいじゅくじぞう)と呼ばれ、地獄に堕ちた亡者を救う地蔵として、古くから多くの人々の信仰を集めている。
また、矢田寺の梵鐘は、東山区の六道珍皇寺の迎え鐘に対し、送り鐘と呼ばれ、死者の霊を迷わず冥土へ送るために撞く鐘として信仰されてきた。
関連サイト:https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=205
境内に信長および家臣の墓がある「本能寺」
「矢田寺」から北へ徒歩2分で、本能寺の変で有名な「本能寺」に着く。
1582(天正10)年6月2日、同寺を宿所とした織田信長は、明智光秀の軍勢の襲撃を受けて、燃え盛る炎の中で自刃した。
しかし当時の「本能寺」は、現在地ではなく堀川四条の近くの京都市立堀川高等学校を含む一帯にあった。この本能寺の変で、同寺の伽藍は灰燼に帰したが、秀吉による寺町整備計画で現在地に移転・再建された。
境内には、本能寺の変で命を失った織田信長とその側近たちの供養塔などがある。
また、大賓殿宝物館には、数々の寺宝とともに、信長所蔵の茶道具類・書状、信長に危険を知らせたという唐銅香炉・三足の蛙」などの名品が展示されている。
公式サイト:https://www.kyoto-honnouji.jp/index.html
1000年にわたり人々の崇敬を集める「革堂」
「本能寺」から御池通りを越えて徒歩10分で、西国三十三所第19番札所「革堂 行願寺」に到着する。
同寺は、1004(寛弘元)年に、行円上人によって京都御苑西の一条北辺堂の跡地に創建された一千年の歴史をもつ寺院だ。
本尊は、本堂に安置する行円上人の作と伝えられる十一面千手観音像。子を孕んだ母鹿を射止めてしまったことを悔いた上人が、常にその皮をまとって鹿を憐れみ、人々から皮聖と呼ばれていたことから革堂と呼ばれるようになったという。
境内には、都七福神巡りの一つになっている寿老神堂をはじめ、愛染堂・鎮宅霊符神堂・加茂明神塔などが建つ。
創建から現在まで、地元の人々の篤い崇敬を集める寺院だ。
公式サイト:https://kaudau.jp/
疫病災厄から朝廷と府民を守護する「下御霊神社」
「革堂」から北へ2分・丸太町通りの手前に、御所の鎮守として御霊八所神(ごりょうはっしょしん)を祀る「下御霊神社」が鎮座する。
同社は、平安時代初期に反乱の首謀者として自害した伊予親王と、その母の藤原吉子の霊を鎮めるため創建された。
後に政争の犠牲になった崇道天皇(早良親王)・吉備真備・藤原広嗣・橘逸勢・文屋宮田麿、菅原道真ともされる火雷天神を祭神に加えて八所御霊とした。
御霊八所の神の他、霊元天皇・山崎闇斎を祀り、疫病災厄から朝廷と府民を守護する神社として崇敬される。
また境内に湧く御霊水は、京都御所の地下水を汲み上げ復活させた井戸水。美味しい御水との評判が高く、京都だけでなく遠方からも賞味しに来る人が絶えない名水だ。
公式サイト:https://shimogoryo.main.jp/
以上、染殿院から下御霊神社まで、直線距離にして約1.5km、移動だけなら20分ほどの距離だ。
しかし、紹介した寺社は見どころが多いので、時間をかけての拝観をおすすめする。
またこの区間は、風格を感じさせる老舗店舗・骨董店・雑貨店・カフェなど魅力的なお店が軒を連ねるので、こうした店舗も覗きつつ、のんびりゆったりと寺町寺社めぐりを楽しんでいただきたい。
※参考文献
京あゆみ研究会著『京都ぶらり歴史探訪ガイド 今昔ウォーキング』メイツユニバーサルコンテンツ刊 2022.2
文:撮影 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部