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『14才で小指を詰めた芸妓』 高岡智照の波乱すぎる人生 ~売れっ子から尼僧へ

草の実堂

画像 : 高岡智照 public domain

昭和初期、奈良で出家し、その後京都・祇王寺の庵主となった尼僧がいた。

その尼僧の名は、高岡智照(たかおか ちしょう)。

彼女の人生は波乱に満ちており、12歳で父親によって売られ舞妓となり、14歳である男性のために小指を詰めるという騒ぎを起こすが、それが話題となり、その後超人気芸妓となった。

高岡智照の生涯とはいかなるものであったのか。

12歳で身売りされ、芸妓置屋兼茶屋の養女となる

画像 : 高岡智照 public domain

明治29年(1896年)4月、高岡智照(本名・たつ)は、大阪において鍛治職人・高岡末吉と料理屋の仲居・つるとの間に、私生児として生まれた。

たつの父親は道楽者であり、子供を養育する力に欠けていたため、彼女は奈良に住む伯母の元に引き取られることとなった。
たつの母親は、彼女が2歳の時に病死したという。

その後、たつは8歳で小学校に入学し、9~10歳の頃には伯母の茶店を手伝うようになり、伯母と平和に暮らしていた。

しかし、12歳の時にその生活は一変する。
たつは父親に連れられ、大阪で最も有名な大茶屋・富田屋の男衆である橋本常次郎のところへ連れて行かれた。
橋本は茶屋と芸妓置屋間の連絡をしたり、舞妓や芸妓に身請け話があると話をまとめたりしていた。

橋本はたつを見ると「こんな美しい娘を田舎に留めておくのはもったいない」と父親に告げ、その美貌を絶賛した。

これを受けた父親は、たつに対して「舞妓になれば良い暮らしができ、伯母さんの生活も楽にしてあげられる」などと話し、舞妓になるように説得した。

たつは困惑したが、父の元にいる腹違いの弟の将来のことも考え、舞妓になることを決心したのだった。

その後、たつは橋本に連れられ、茶屋・辻井楼で行儀作法を学び始めた。そして最終的に、250円の身代金で芸妓置屋兼茶屋・加賀家の養女となったのである。

画像 : 現代の置屋 public domain

加賀家は、名妓として知られる八千代の養家であり、他にも数多くの舞妓や芸妓を抱えていた。

たつは毎日、舞や鼓などの稽古に励んだ後、大茶屋・富田屋で舞妓見習いとしての生活を送ることとなった。

そして明治42年(1909年)11月、たつは「千代葉」という舞妓名で、正式にお披露目されたのである。

婚約した男のために指を切り落とす

お披露目からしばらく経つと、千代葉は名妓・八千代から「売り出し中の舞妓には、ひいきにしてくれるお客が必要だ」と告げられ、じきに北浜の株式取引所(大阪証券取引所)の理事長になるという客と会うことになった。

しかし、これは千代葉を『水揚げ』させるためで、八千代は千代葉にそのことを伝えずに勝手に決めたのだった。

この時、千代葉は13歳で、まだ初潮を迎えておらず、そんな彼女が体験した男女の交わりは過酷であった。
辛い思いをした彼女だったが、その後、東京から来た役者・市川松蔦(しょうちょう)に恋をした。

画像 : 二代目市川松蔦 public domain

松蔦と過ごした時間は短いものだったが、千代葉は幸せな時を過ごしたという。

しかし同じ頃、千代葉は色街で名の知れた鼈甲問屋の若旦那・音峰宗兵衛にも気に入られるようになった。

やがて音峰は頻繁に茶屋に通い詰め、千代葉を独占するようになった。この状況を見た橋本は、音峰に対して高額な客止め料を請求したが、音峰はこれを承諾した。

そして、間もなくして音峰と千代葉は、結婚の約束を交わすに至ったのである。

その後、2人は別府へ旅行に出かけた。しかし、音峰は宿泊先の部屋で千代葉の鏡袋に市川松蔦の写真が入っているのを見つけ、嫉妬に駆られ激怒した。

大阪に戻った後も音峰の怒りは収まらず、「お前とは縁を切る!」と千代葉に冷たく言い放った。

すると千代葉は真情を伝えるために、なんと左手の小指の先をカミソリで切り落とし、それを音峰に差し出したのである。

イメージ 草の実堂作成

大阪を離れ上京し、半玉・照葉となる

小指を切り落とした千代葉の話は、すぐに大阪の色街中に広がり、彼女は世間で「末恐ろしい悪女」のように噂された。

明治44年(1911)5月、大阪にいづらくなった千代葉は、東京新橋、新叶家の清香を頼り上京した。
清香は東京を代表する名妓であり、「西の八千代、東の清香」と称されたほどで、向島に『香浮園』という別荘を持っていた。

当時、相撲取りと並んで「芸妓の絵はがき」が人気で、千代葉も絵はがき用の写真撮影をした。

画像 : 千代葉の絵葉書 public domain

彼女の写真は「小指を切り落とした舞妓を見てみたい」という好奇の目もあったが、その美貌で人気を集めよく売れた。

一方で、千代葉は芸事を覚えるより学門をしたいという気持ちが強くなり、学のある半玉になろうと、毎日本を読んだり文字を覚える努力をした。

その後、6月中頃に橋本が上京し、千代葉は自身の籍が橋本に移されたことを知らされた。

それは加賀家の八千代が、「14歳で小指を切り落とすような、何をしでかすかわからない小娘を、自分の妹として抱えているのは嫌だ」と騒ぎ立てたため、橋本へ預けられることになったのだという。

さらに、千代葉は自分が5年間の年期で、清香に3千円という大金の身の代金で引き取られたことを知って愕然とした。
また、この少し後に、唯一の生きがいだった腹違いの弟が「火遊びが原因で焼死した」という知らせが届く。

7月、彼女は「照葉」の名でお披露目すると、今まで以上に強く生きようと心に決めたのだった。

東京の客層は華族や財閥系の実業家が多く、その中でも、当時の桂太郎内閣の秘書官であり後に大蔵省理財局国庫課長となった長島隆二は、照葉にとって特別な存在となった。

画像 : 長島隆二 public domain

照葉は、温厚で紳士的な長島を「お兄さま」と呼び、深く慕うようになった。

写真だけを見ると、前述した市川松蔦と似ている。彼女は眼鏡をかけたすっきりした顔立ちの男性が好みだったのだろうか。

苦手な客「猫化爺」と枕を交わす

そんな照葉にも、やはり苦手な客はいた。

それは、風貌から芸妓仲間の間で「猫化爺」と呼ばれていた実業家である。

ある日、座敷で猫化爺がしつこく言い寄ってきたため、照葉はその手を掻きむしって逃げ出した。しかし、その行為が清香の知るところとなり、照葉は叱責を受けることとなった。

清香は「お客に嫌なことをされたから逃げるなんて、この世界では通用しないし許されない」と厳しく戒めたのである。

それから照葉は、お詫びとして猫化爺と枕を交わすこととなった。旦那(後援者)を持っていなかった照葉は、安定した収入がなかったため、どんなに嫌な座敷であっても耐えるしかなかったのだ。

人気芸妓から客の妾となる

やがて照葉は、長島隆二が旦那となり、生活が大きく変わった。
桂太郎、西園寺公望らのひいきも得るようになり、華やかな半玉としての地位を築き上げたのだ。

明治44年(1911)12月、照葉は15歳で芸妓となり、そのお披露目の費用もすべて長島が負担した。

しかし、長島が突然渡米することになり、彼女はその別れに深い悲しみを抱えた。

その後、彼女は江藤恒策という鉱山権利者の妾となるが、束縛される生活に苦しみ、最終的にはその生活から逃れることを選んだ。

結婚し渡米、そして女学生との同性愛

大正7年(1918年)、大阪に帰ってきた照葉は、橋本の家を置屋にして再び芸妓生活を始めた。

その後、照葉は相場師で映画会社の取締役でもある・小田末造と知り合い、彼と結婚してアメリカへ渡ることを決意した。

しかし渡米後、小田はアメリカ人女性に夢中になり、結婚生活はうまくいかなかった。

彼女は小田との関係に苦しみながらも、家政学校に通い、そこでヒルドガルドという女学生と親しくなり、同性愛の関係を築く。

しかし、その関係が発覚し、退学させられることとなったため、彼女は日本へ帰国した。

2度の自殺未遂、離婚と新しい生活

帰国後も小田との生活は苦難の連続であり、束縛や暴力に苦しみ、自殺未遂を2度経験する。

小田は仕事の都合で国家主義団体・黒龍会と関わることになると、彼女を黒龍会の萩原止雄(はぎわらとめお)という青年に見張らせるようになった。ところが、互いの境遇を知った2人は次第に惹かれ合うようになる。

そして大正14年(1925)、彼女は周囲からの協力を得て、とうとう小田と離婚した。そして萩原と新しい生活を始めたのだった。

紆余曲折を経て仏門の世界へ

画像 : 高岡智照 1948年(円内も智照) public domain

萩原と新しい暮らしを始めたものの生活は苦しかった。
彼女は女優としての道を模索したが成功せず、再び芸妓に戻ることとなる。

しかし、その後も困難は続き、萩原とも別れ、最終的に彼女は仏門への道を選んだ。

昭和9年(1934年)9月、38歳で奈良県の久米寺で出家し「智照」と改名した。昭和11年(1936年)には京都の祇王寺に入庵し、寺の復興に尽力した。

やがて祇王寺は、世の中の傷ついた女性たちの心の拠り所となり、多くの人々に愛される場となった。
高岡智照尼は、平成6年(1994年)、98歳でその生涯を閉じた。

終わりに

彼女の人生において、最も心に深い傷を負った出来事は、愛する弟の死であったという。

当時8歳だった弟は、原っぱで起きた火事の中から犬を助けようとして焼死したが、その時、父親は酔っ払っていて状況を理解していなかったという。後にそのことを知った彼女は「今後一切親子の縁を切らせてもらう」と父に手紙を送りつけている。

それでも彼女は父がガンでこの世を去るまで、恨む気持ちは持てなかったという。

高岡智照は、どのような困難な状況にあっても、常に強く美しく生き抜いた女性であった。

参考 :
高岡智照尼「花喰鳥」かまくら春秋社 1984
文 / 草の実堂編集部

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