【ミリオンヒッツ1994】trf「BOY MEETS GIRL」ダンス&ボーカルユニットが切り拓いた世界
リレー連載【ミリオンヒッツ1994】vol.14
BOY MEETS GIRL / trf
作詞:TETSUYA KOMURO
作曲:TETSUYA KOMURO
編曲:TETSUYA KOMURO
▶ 発売:1994年6月21日
▶ 売上枚数:128.5万枚
ダンスミュージックをJ-POPのど真ん中に引きずり出すことに成功した小室哲哉
90年代のJ-POP興隆期においては “愛・夢・希望” といったコンセプトが込められた楽曲は少なくなかった。バブル崩壊から “失われた30年” と呼ばれた鬱屈した時代に突入したにもかかわらず、音楽業界は空前のCDセールスに支えられて活況を呈していた。音楽ファンは耳当たりのよい歌詞に心惹かれ、80年代の洋楽ブームの影響を受けた和製ポップスのサウンドを広く受け容れるようになる。
後に一時代を築くことになる音楽プロデューサー小室哲哉が、その初手として送り出したダンス&ボーカルユニットtrf(現:TRF)のヒット曲「BOY MEETS GIRL」は そんな時代背景を象徴する楽曲だったように思う。キャッチ―なタイトルと、リスナーたちのマインドに寄り添い、ほのかにロマンを感じさせるような歌詞… 。作曲家としての絶大な力量の前では忘れられがちだが “作詞家:小室哲哉" の実力がいかんなく発揮された作品ともいえるだろう。
1994年5月リリースの前作「survival dAnce 〜no no cry more〜」はtrfとプロデューサーである小室に初のミリオンセールスをもたらしたが、コカ・コーラとのCMタイアップが決まっていた「BOY MEETS GIRL」はそのわずか1か月後、異例の早さでリリースされた。そしてその余勢を駆ってヒットチャートを駆け上がり、2作連続のミリオンを達成することとなる。
この楽曲で特筆すべきは、まず “歌いやすい” ことではないだろうか。それに関して小室は、「ディスコで踊ったあとにカラオケに行っても、歌とダンスどちらでも盛り上がれるような曲を作りたかった」と語っている。すでにヒットしていた「EZ DO DANCE」や「survival dAnce 〜no no cry more〜」にしても、手を振りつつ飛び跳ねるタイトルコールのリフの印象が強すぎて、流れる歌詞の言葉のひとつひとつを思い起すのはなかなか難しい。
当時といえば、ディスコでかかる曲は洋楽ばかり。多くの人々にとってはダンスミュージックと言えば洋楽であったから、今思えばオーディエンスが日本語の詞に “乗れる” ようになるまでの “アイドリング” 期間が必要だったのかもしれない。「BOY MEETS GIRL」は、あえて極端な高音域や英語詞のフレーズを多用せず “歌える曲” にしたことで、マーケットの隅に潜んでいたダンスミュージックをJ-POPのど真ん中に引きずり出すことに成功したと言える。小室ファミリー躍進の始まりである。
ディスコDJから叩き上げのDJ KOOをリーダーに抜擢
trfはダンス&ボーカルユニットとして結成されたグループで、その名称は “TK Rave Factory” の頭文字に由来する。“Rave” とはクラブやディスコのような店舗ではなく、大規模なライブ会場や屋外で行われるダンスイベントで、当時のヨーロッパでは若者たちのライフスタイルやダンスカルチャーの発信源として注目を集めていた。彼らはエイベックスの全面的なバックアップの下、その先導役を担うことを期待されていたのである。
小室らは、まずは核となってサウンドメークするDJ、次にそれをパフォーマンスできるリードシンガーと、オーディエンスのリアクションを導くリードダンサーから成るユニットを結成することを画策する。新宿のディスコDJというフィールドから叩き上げのDJ KOOをリーダーに抜擢。ボーカリストにはオーディションから元ZOOのYU-KIをスカウトして曲作りを進めていった。
彼らのパフォーマンスにはDJの煽りMCやリードダンサーの見せ場が不可欠で、楽曲を組み立てる上では、前間奏の尺を確保しながら、盛り上がりを増幅するリフを取り入れるなど、あらゆる点でダンスチューンであることに配慮している。だが彼らもデビュー間もない頃は編成の斬新さゆえに、周囲から戸惑いをもって受け止められることが少なくなかった。
それらは主に “DJって何をしている人なの?” という疑問や、リードダンサーたちを単なる “バックで踊っている人” としか見ない認識の低さに起因していた。そして彼らを演者として起用する側にとってもそれは例外ではなく、現場での不本意な扱いに対する失望感は大きく、メンバー達から求心力を得るのは難しかった。彼らの “トリセツ” はまだどこにも存在していなかったのである。
TKファミリーを牽引した “trf” と彼らがJ-POPにもたらしたもの
スタート時は8名だったダンスチームはやがてSAM、CHIHARU、ETSUの3名となり、彼らをレギュラーに加えた5名は、現在もメンバーに名を連ねている。当初は出自も音楽の志向も異なり、それぞれ別のベクトルで活動していた彼らがようやくメンバーの自覚を持ち得たのも、やはりこのシングル「BOY MEETS GIRL」がリリースされる頃だったという。
2枚連続のミリオンヒットを飛ばしたtrfは、この年9月より初の全国ツアーを敢行する。それまでも各地のクラブを回るなど小規模の会場でのデモやPRを兼ねてイベントへ参加することはあったが、はるかに大規模の会場を埋め尽くした大観衆を前に、彼らはそれぞれ自身の名がコールされるのを聴く。そこで個々の存在感を再認識できたことは、メンバーとしての自覚を芽生えさせ、チームとしての結束を強固なものにした
それというのも小室がプロデューサーとしてしばしばスタジオの現場まで出向き、視聴者や観衆に対する出面をどうするかまで追求し、調整を積み重ねた成果でもあった。時にその指示はカメラ割からステージ上の演出にまで及んだという。
イントロや間奏などボーカルパート以外はリードダンサーたちがソロでパフォーマンスを披露する最大の見せ場だが、そこでもきっちりピンスポットが当たるように注文を付けるのも大切なロビー活動の一環だったといえるだろう。小室はこうしてtrfの活動を強力に後押ししながらトータルプロデュースの術を会得していく。これらは全て “trfの成功なくしてその後の成功はない” との一念がいかに切実なものだったかを物語っている。
ダンサーの活動領域は広がり、今やダンスパフォーマンスを披露するメンバーを軽視する風潮など皆無といっていいだろう。元より強い個性と意志をもって集った彼らのこと、自己管理、プロデュースが行き届いていたからこそ今日までグループが存在し続けているに違いない。trfに続くダンス&ボーカルユニットは数多あったに違いないが、彼らが切り拓いてきたことの恩恵を受けていないグループなどきっと存在しない。