わたしと戦争 火薬廠内 自転車で駆け 平塚市万田在住 吉川龍美さん
平塚市万田在住の吉川龍美(たつよし)さん(96)は16歳の時に平塚空襲を経験した。平塚の海軍火薬廠に勤めていたという龍美さんは「ひいひい痛がっている人も泣いている人もいた。朝になって被害の全貌を見て大変なことだと思った」と振り返る。
龍美さんは旭尋常高等小学校(現・旭小学校)を高等科まで進学。海軍火薬廠の「見習い工」として「機械の青写真や設計図の作り方を教わった」と龍美さん。2年間学んだ後、火薬廠の仕上げ部に配属され、図面をもとに製造物を点検したり、修理したりする業務を行ったという。
中将と共に防空壕へ
1945年7月16日夜から17日未明に焼夷弾が落とされた平塚空襲の夜、龍美さんは当直勤務だった。
伝令役を務めていた龍美さんは、爆撃機来襲のおそれを知らせる空襲警戒警報が発令されたことを受け、指示を仰ごうと受け持っていた第4工場から本部へ、火薬廠内を自転車で駆けた。
「その時鳴っていたのは爆撃機が間近に迫った時の空襲警報ではなく『警戒』警報だったのに、外に出るとすでに照明弾が落とされて、昼間のような明るさだった」。本部につくと、海軍中将など、上の位の将校と共に防空壕へ。「偉い人たち用のものだから壁も床も分厚いコンクリート製で広かった。安心そのもの。あぁ助かったと思った」。防空壕の中にいる際に「今、食料を持って横須賀海軍工廠から平塚に向かっている」という無線の報告を聞いたという。
空襲で焼けた海軍病院に次々とけが人が運ばれた。治療をするにも消毒用のアルコールがなく、龍美さんは「蒸留水を確保してくれ」と依頼されて自転車で奔走した。
空襲警報が解除されれば、龍美さんは持ち場へ。「勤め人ですから。玉音放送も、集合させられて途中まで聞いたけど、あちこちの修理に明け暮れてました」。終戦については平塚空襲の経験から「負けるかも」と心の隅にあったという。
当時、平塚市公所に住んでいた妻・キヨさん(94)も戦争を体験した世代。二人は「湘南平や高根には焼夷弾が落ちた」「近くの寺が焼けてしまった」と口々に言いながら、「でももうそれを知っている世代もほとんどいない」とつぶやく。龍美さんは「私欲にこだわると、今のような世界になってしまう。戦争はダメだと伝えるために、平和に感謝したい」と話していた。
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