100歳で亡くなった曾祖母。泣きながら話す曾祖母に沖縄戦について深く聞くことができなかった…戦後80年
沖縄大学では2025年3月、「いのちの未来の平和学」というテーマで集中講義が行われた。 学生たちは講義やフィールドワークを通して沖縄戦の記憶にふれ、「平和をつないでいく」ために何が重要かを考えた。
沖縄戦から80年の地平
いまから80年前の1945年。私たちが暮らすこの島で激しい地上戦が繰り広げられ、軍人や民間人あわせて20万人あまりの尊い命が犠牲となった。
凄惨な記憶をどうつないでいくのか。沖縄大学では、「いのちの未来の平和学」と題して、沖縄戦について学ぶ集中講義が行われた。
初日の講義では民俗学や文化論を平和教育につなげている須藤義人教授が教壇に立ち、日本軍は戦況が悪化すると「敵に捕まるぐらいなら死を選べ」と住民にも手りゅう弾を持たせていた事実があったと語った。 沖縄大学人文学部 須藤義人教授 「何かあった時には敵に投げろ、もう一つは自決に使えというようなことを指示されたと言われています。みんな一人ひとりが大事な命だった。そういう人たちの亡くなった姿を包み込むように探すということが大切だと思います。ここが次の世代に平和の意味をつないでいくポイントになるのではないかと考えています」
特に熱心にメモを取っていた学生がいた。3年生の照屋妃(てるや きさき)さん。
那覇市の9割焼失
講義を受講するきっかけは今年100歳で亡くなった曾祖母の存在だ。
沖縄大学3年 照屋妃さん 「小学生の時に(戦争体験を)1回聞いたことがあったんですけど、曾祖母が泣きながら話していたので『もういいよ』って言ってそれ以上聞けませんでした。今思えば貴重な話だったのでもっと聞いておけばよかったと思います。講義を通して当時の人々の思いを自分の目で見て感じたいと思いました」
商業施設が立ち並ぶ那覇新都心。ここもかつては多くの血が流れた激戦地の一つだ。
日本軍とアメリカ軍は複数の小高い丘で激しい陣地の奪い合いを繰り広げ、学徒や住民などを含む数千人もの犠牲者を出した。地表は射撃の応酬によって焼け焦げ、戦闘の激しさを物語っている。
講義2日目、学生たちはフィールドワークで日本軍が防御陣地を築いた丘、通称ハーフムーンヒルを訪れた。 遺骨収集ボランティア・ガマフヤー 具志堅隆松代表 「この弾痕は反対側まで貫通しています。そして破壊面積も大きいですよね。おそらく13ミリ機関砲だと思います。ここから出てきた遺骨が172体、その中の3人は遺族のもとに帰ることができました」 この場所では、激しい攻撃による弾痕が今も岩肌に残る。戦後の調査では、多くの遺骨が見つかっており、いまもなお土の中に遺されたままの遺骨がある可能性が指摘されている。
少年が見た空襲
かつての激戦地に立った学生たちは、現在の風景からは想像もつかない壮絶な戦いに思いを巡らせた。 沖縄大学3年 松田悠佑さん 「いまおもろまちと言えば沖縄の都心部なので、戦争なんて全く考えられませんでした。こんな場所が激戦地だったのだなって本当にびっくりしました」
沖縄大学3年 照屋妃さん: 普段使っているショッピングモールとかの近くにも、激戦区だったり、まだ見つかっていない資料が残っている場所があるんだなと気づきました
沖縄戦末期、戦線は本島南部へと移り多くの住民が逃げ場を失った。その終着点の一つがひめゆりの塔に近い、糸満市の荒崎海岸だ。
追い詰められた住民はこの場所でアメリカ軍の銃弾や集団自決によって命を落とした。その中には解散命令を受けたばかりの「ひめゆり学徒隊」の姿もあった。
照屋さんも友人とともに険しい岩場を歩き、遺骨を収集した。
沖縄大学3年 照屋妃さん 「裸足でこんな岩場を歩いたり走ったりしていたと思うと、自分だったら途中で断念してしまいそうです。小学校や中学校でも、平和学習の課外授業をもっと増やしていくべきだと思いました」
戦争について学ぶことは、平和な未来をどうつくるかを考えることでもある。 集中講義の最終日、学生たちは「平和を守るためにできること」をテーマに話し合った。
幼いころ、泣きながら話す曾祖母に沖縄戦について深く聞くことができなかった照屋さん。 集中講義を経て、いま自分に何ができるのか率直な言葉を紡いだ。 沖縄大学3年 照屋妃さん: 戦争を体験していない私たちがちゃんと伝えられるのかという不安もあります。それでも伝えていかなければならないと思いましたし、さまざまな立場に立って相手の気持ちや当時の状況を想像できる人がもっと増えていってほしいと思います
1945年にこの島で起きたことを学生たちが学び、考えた4日間。 「記憶をつなぐことで未来の平和を守っていきたい」という強い決意が、確かに芽生えた。