【静岡の高校サッカー戦後史Vol.74】浜名高サッカー部が誕生した日。体育教師・美和利幸の赴任から輝かしい歴史は始まった
【浜名①】10人の同好会が第一歩
※2011年3月〜11月に「静岡の高校サッカー 戦後の球跡」のタイトルで静岡新聞に掲載した連載を再掲しています。年齢等も掲載当時のままです。静岡サッカー応援アプリ「シズサカ」でまとめてご覧いただけます。
“初出場初優勝”。これほど鮮烈なデビューはない。それも産声を上げて間もないとなれば、鮮烈度は一段と増す。
1970年(昭和45年)度の全国総体で、初めて晴れ舞台を踏む浜名が栄冠を手にした。活動を開始してまだ6年目。全国的知名度はゼロに等しいというのに、いきなり頂点に立ったとあって、“彗星のイレブン”と呼ばれた。
中部主導の時代に…
64年春、浜松・飯田中から浜名高に、25歳の体育教師、美和利幸(浜松市南区在住)が赴任した。この美和が彗星のイレブンの牽引者だった。といっても、赴任と同時に率いたわけではない。
60年代といえば、県高校サッカー界はいま以上に中部主導の色彩が濃く、西部勢は東部各校とともに存在感は薄かった。64年度の全国選手権県予選をみると、参加校39のうち西部は8校に過ぎず、浜名は不参加校の一つだった。
浜松西高―静大出身の美和は、高校時代からサッカーに打ち込んだ。前任校の飯田中ではもちろんサッカー部を指導、飯田中が東部中と統合したのを機に高校に転出した。だが、浜名にサッカー部が存在しないため、1年間はバスケットボール部顧問を務めた。
1965年度、同好会からスタート
我慢も1年が限界だった。赴任2年目の65年度、美和の言葉を借りれば「部員をかき集め」、同好会を発足させた。当時は藤枝東全盛時代。そんな藤枝東と「対等に戦えるチームをつくりたい」。こう申し出て、あ然とする学校側の反応も意に介せず、第一歩を踏み出した。
美和の呼び掛けに応じたのは、初代主将の山下正義(県サッカー協会西部支部4種少年委員会長)ら3年生8人、2年生2人の10人。サッカー経験者は1人だけだった。試合は一般生徒の助っ人で、何とか乗り切った。
雑草地の整備の後、猛練習
1期生の活動は“ホームグラウンド”づくりから始まった。肩身が狭い後発の身。元からあるグラウンドは使えないため、雑草地の整備に汗を流す日々が続いた。
雑草を抜き、石ころを拾う合間にも、美和の熱血指導が待っていた。基本技を繰り返し、徹底的に走り込んで、8月の国体県予選に臨んだ。初戦の相手は静岡東。敗れたものの、スコアは0−1だった。陸上部から転身した山下は「素人軍団だったが、みんな運動能力が高かったのでは」と振り返る。
翌66年度、同好会は部に昇格、「浜名高サッカー部」が本格始動する。(敬称略)