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人気浮世絵師・歌川広重、喜多川歌麿、勝川春章はどんな人物だった?【江戸時代に隆盛した文芸・美術『太田記念美術館』編vol.2】

さんたつ

太田記念美術館_赤木美智さん2

江戸の町を舞台にした2025年の大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』。江戸で文芸や美術が花開いた18世紀半ば以降を中心に、当時の浮世絵や江戸庶民の暮らしはどのようなものだったのだろうか?前回に引き続き『太田記念美術館』の主幹学芸員・赤木美智さんに浮世絵についてうかがった。令和の世でも知られる浮世絵師・歌川広重、喜多川歌麿、勝川春章(かつかわしゅんしょう)はどんな人物だったのだろうか。

太田記念美術館

どんな人物が人気浮世絵師になる?

「浮世絵の祖といわれ、『見返り美人』で知られる菱川師宣(ひしかわもろのぶ)は、衣類の装飾に刺繍や金箔などを施す職人の子で、武者絵で成功を収めた歌川国芳(くによし)も染め物職人の子でした。蔦重が版元として活躍する頃は武家階級出身の浮世絵師である鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)もいます。一方で歌麿などは出自が不明ですし、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)は多くが謎で、蔦重を版元にわずか10カ月しか活動していません」

前回に続き、インタビューにお答えいただいた赤木さん。

このように出自は多種多様。職人から武士まで、ありとあらゆる階層の人物が浮世絵師として存在している。

『東海道五十三次』で知られる歌川広重もまた定火消(じょうびけし)という幕臣だった。彼のような歌川派をはじめ、人気のある浮世絵師の弟子になれば、いろいろと仕事がもらえた。例えば美人画の着物の柄や浮世絵の背景に配置された小さな絵は弟子が描くことも多くあったようだ。

「小さいサイズの浮世絵は、版元と師匠が話をして、『弟子の○○に任せたい』といったこともあったのではないでしょうか。版元にとっても師匠クラスよりもまだ名前が売れていない弟子の方が料金が抑えられますし、早くから目を付けておけば、『今後の仕事も任せられる』という考えもあったと思われます」

大首絵を広めた浮世絵師・勝川春章

「人気浮世絵師には、まず葛飾北斎の師匠として知られる勝川春章が挙げられます。役者絵に似顔絵を取り入れた絵師です」

大首絵/勝川春好「二代目市川門之助の曽我五郎」寛政元年(1789)太田記念美術館蔵。

「それまでの役者絵は絵だけを見ても誰だか分からないぐらい顔が一緒でした。春章は役者の顔のパーツや髪の生え際、ひげのそり跡、さらには仕草などの個性をも描いたことで人気になりました。ファンとしては買うならば似ているほうがいいですよね。ほかにも、上半身だけを描いた大首絵(おおくびえ)の手法を使ったことでより顔の表情が伝わったというのも大きいです」

似顔絵や大首絵の技法を取り入れた役者絵は、芝居のポスターやファンのための推しグッズのような役割。ちなみに、葛飾北斎も勝川春朗の名で役者絵を描いていたという。

そして似顔絵や大首絵は、喜多川歌麿をはじめとした浮世絵師たちに大きな影響を与えていく。

勝川春章「 五代目市川団十郎の坂田金時 三代目瀬川菊之丞のまいこ妻菊実ハ大和国かつらき山女郎くものせい」天明元年(1781)太田記念美術館蔵。

喜多川歌麿が美人画で大成するまで

つづいて美人画で有名な喜多川歌麿。彼は若い頃から蔦重といろいろと仕事をしていた。

「歌麿は幼い頃から妖怪画を数多く描いていた鳥山石燕(とりやませきえん)の弟子でした。蔦重は、若くて才能があってもお金がない人たちを自分の家に住まわせて養っていたこともあり、その中に歌麿もいたようです」

蔦重は少年時代に養子に出されたのだが、そこが喜多川氏だったことから、最近の研究では、歌麿と血縁関係があったのではないかといわれていると赤木さん。

「歌麿は、蔦重から洒落本や黄表紙といった戯作本の挿絵などの依頼を受けていました。蔦重もアイデアを出したと思うのですが、狂歌本が流行ったときは、無線摺(むせんずり)や空摺などを駆使して挿絵を描いています」

喜多川歌麿画『画本虫撰』天明8年(1788)頃 国文学研究資料館蔵。
喜多川歌麿画『潮干のつと』寛政元年(1789)頃 太田記念美術館蔵。

「天明年間(1781~1789)になると、身近なテーマを取り上げ、洒落や皮肉などを盛り込んだ狂歌が流行します。文化人がこぞって集まった狂歌会に蔦重も蔦唐丸(つたのからまる)という狂名(ペンネーム)で参加して、このブームに乗じて何冊も狂歌本を発行しました」

そしていくつかの狂歌本の挿絵を描いていたのが、まだ若かった喜多川歌麿だった。

「歌麿は繊細で緻密な絵を書いており、『画本虫撰(えほんむしえらび)』では、無線摺という、輪郭線を用いずに色版のみで形を表現する技法を用いたり、『潮干のつと』では貝の部分に空摺(からすり)といって版木に凹凸を付けて強く擂(す)って、紙自体に立体感を出す技法を駆使しています」

知識も資金もある旦那衆からお金を募って出版する入銀本という出版スタイルで、材料や技法に凝ることができたのだそうだ。この環境で、歌麿の技術も大いに発展していったことだろう。

喜多川歌麿「富本豊ひな」寛政5年(1793)頃 太田記念美術館蔵。

「歌麿といえば美人画ですが、彼が描き始めた頃は面長だったり目が細かったりと、すでに人気があった浮世絵師・北尾派や鳥居清長(とりいきよなが)の影響が見られますね」

その後、役者絵の技法としてすでに確立された大首絵を、美人画に取り入れたのが歌麿といわれている。

「蔦重と組んだ歌麿は、役者で用いられた大首絵の手法を、初めて美人画に持ち込みました。大首絵『婦人相学十躰(ふじんそうがくじってい)』や『婦女人相十品(ふじょにんそうじっぽん)』などが早い時期の作品です。そしてこの新しい試みが評判になり、歌麿は名声を得るようになりました」

髪の生え際や顔の細かい表情などを通じて、艶っぽさだけでなく内面の動きも描かれた浮世絵となり、人気となっていく。そして、美人画といえば歌麿と呼ばれるようになったのだ。

喜多川歌麿「婦女人相十品 文読む女」 寛政4~5年(1792~93)頃 太田記念美術館蔵。

江戸近郊の名所を描いた浮世絵師・歌川広重

「『東海道五十三次』で知られる歌川広重は先ほど申しあげた通り、元々は定火消という幕臣で、このときから歌川派の歌川豊広の元で絵を学び、浮世絵を描いていました。この頃は役者絵や美人画を描いていたのですが、家督を年下の叔父に譲るとさらに意欲的に作品を発表していきます」

歌川広重「東都名所 高輪之明月」天保2年(1831)頃 太田記念美術館蔵。

「広重が35歳頃、葛飾北斎が描いた『富嶽三十六景』が発行され、風景画が注目を集めるようになりました。すると広重は、江戸や江戸近郊の名所を描いた『東都名所』シリーズを手がけます。この浮世絵は高い評価を得て、そして、広重の代表作ともいえる『東海道五十三次』へとつながります」

作品には深い青が特徴的なベロ藍が使われている。ベロ藍と呼ばれる染料は、当初ヨーロッパから輸入されていて、非常に高価なものだった。しかし『東海道五十三次』が出版される頃には中国で生産されるようになり値段が下がったため、浮世絵に使用されるようになったそうだ。

「空や水、光の表現などにベロ藍を駆使した浮世絵は海外でも人気があります。『ヒロシゲブルー』と呼ばれることもありますね」

広重の作品は人気があり、何千、何万枚も摺られていた。さらに浮世絵は、時には絵画作品としてではなく、輸出品のクッション材としても使われており、各地に渡った広重の浮世絵は多くの芸術家の目にふれることとなった。ベロ藍を美しく使う広重作品が印象的で、「ヒロシゲブルー」と呼ばれるようになったのではないかと赤木さんは語る。

「19世紀後半、浮世絵や日本の芸術品がヨーロッパの芸術家に大きな影響を及ぼした『ジャポニズム』の動きのなかで、『ヒロシゲブルー』という呼び名が付けられたのではないかと思います。風俗を描いた独特な構図のほか、あまりヨーロッパの絵画で取り上げられなかった夜や雨などの景色も印象的だったようです。『名所江戸百景』の『大はしあたけの夕立』などはゴッホが浮世絵を模写したものが今も残っています。それほどモチーフや構図が衝撃的だったのでしょう」

まだまだ人気だった浮世絵師はいるが『太田記念美術館』に行って実際に作品を見て、お気に入りの作品を見つけたら、浮世絵師について調べてみるのもいい。次回はその『太田記念美術館』について改めて紹介する。

太田記念美術館
住所:東京都渋谷区神宮前1-10-10/営業時間:10:30~17:00/定休日:月(祝の場合は翌)・展示替え期間/アクセス:JR山手線原宿駅から徒歩5分 、地下鉄千代田線・副都心線明治神宮前駅から徒歩3分

取材・文=速志 淳 画像提供=太田記念美術館

アド・グリーン
編集プロダクション
1982年創業の編集プロダクション。旅行関係の雑誌・書籍、インタビューやルポルタージュを得意とし、会社案内や社内報の経験も多数。企画立案から、取材・執筆、デザイン、撮影までをワンストップで行えるのがウリ。

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