世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」からおすすめ遺跡3つ
2021年、世界文化遺産に登録された「北海道・北東北の縄文遺跡群」。北海道・青森県・秋田県・岩手県の17の縄文遺跡で構成されています。 今回は17の全ての遺跡を巡った筆者が、訪れるだけで縄文の世界観に浸れる「おすすめ3遺跡」をご紹介します。
世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」とは
17の縄文遺跡群は、日本列島各地で営まれた縄文文化圏の1つです。
この地域は山地や丘陵、広大な平地など様々な地形から成り、森にはクルミやクリなどの堅果類が豊富に実り、海は暖流と寒流が交わる豊かな漁場でした。
縄文人たちは安定的に食料を確保するために、それらの資源を管理しながら自然と共生する生活をしていました。
またそこではストーンサークルや祭祀道具など、精神文化に関わる多くのものを生み出しました。その生活は気候の温暖化や寒冷化、それに伴う海水面の変動といった環境変化にも適応しながら、1万年以上にわたって続きました。
そうした縄文時代の始まりから終焉までの1万年が、この17の縄文遺跡で構成されています。
縄文ムラの生活が体感できる 青森県「三内丸山遺跡」
初めて縄文遺跡へ行く方におすすめなのが、青森県青森市にある「三内丸山遺跡」です。広大な敷地に縄文時代のムラが丸ごと再現され、その圧倒的なスケール感に驚かされます。
遺構(住居などの施設の跡)の規模や種類、遺物(石器や土器など)の数は類を見ないほど豊富で、当時の特徴的な大規模集落の営みや造形物を見ることができます。
遺跡に併設した「縄文時遊館」は、重要文化財500点を含む出土品の展示をはじめ、シアターや体験工房、レストラン、ショップが備わり、訪れる人それぞれに楽しめる施設となっています。
「三内丸山遺跡」のあらまし
この遺跡は今から約5900年前から1700年もの間、人々が営んだ日本屈指の大規模集落跡です。他の集落とは差別化された「地域の拠点的」なムラとして、周辺からも多くの人が行き来し、葬送や祭祀などが行われていました。
ムラには道路が作られ、発見された3本のうちの1本の道路は最大幅約20m、最長420mもある大道でした。その脇には墓が連なって作られました。
さらにムラには多くの竪穴建物、食料貯蔵施設、集会施設、祭祀施設などが計画的に配置され、それらは長期間にわたって継続して営まれていました。
竪穴建物には長さ30mを超える大型のものもあり、雪の降る時期に人々が集う場所であったと考えられています。
また石器、土器などが大量に出土し、特に土偶は2000点以上と日本一の出土量を誇ります。現在も発掘調査が続いており、毎年新しい発見が見られます。
謎の巨大構造物「大型掘立柱建物」
三内丸山遺跡の代名詞でもある、復元された「大型掘立柱建物(おおがたほったてばしらたてもの)」は、高さ約15m、6本柱の建造物です。
建物の用途はその高さから、神殿や物見やぐら、観測所などと考えられていますが、実際は何であったか分かっていません。
残されていた当時の柱穴は直径約2m、深さ約2m、6本の柱穴の間隔は4.2mと規則的で、穴の中には直径約1mのクリの木柱の一部が残っていました。
構造物は計算されて造られたと考えられ、縄文時代にこのような建築の知識や技術があったことに驚かされます。
現代にも通じる工芸品「縄文ポシェット」
ヒノキの樹皮を薄いひも状にして袋形に編んだカゴです。現代の竹細工にも使われる網代あみで編まれ、カゴの中には半分になったクルミの殻が入っていました。
当時編み籠は堅果類の採集や保管、または灰汁抜きをするためのザルとして使われ、大小様々なサイズの編み籠が作られていました。現代にも通じる編み籠の技術は、既にこの頃には確立していたようです。
絶叫する!?「大型板状土偶」
ムンクの叫びを思いおこさせる表情が印象的な土偶です。長さ32.4cmの大きな土偶は体が板のように薄く、「板状土偶」または「十字型土偶」と呼ばれます。
三内丸山遺跡からは多数の板状土偶が発見されていますが、その中でも最大級の大きさです。
扁平な胴体から両腕が左右に伸び、足はありません。頭部の表現は髪を結ったものだと考えられています。胴体に巡らされた文様は糸を撚って押し付けた装飾で、同時期の土器に多様される文様と同じものです。
実は頭部と胴体は別の場所から発見されました。その距離は90mも離れており、わざと壊して埋められたのではないかと言われています。
土偶の造形や出土状況は、そこで呪術的なナニカが行われていたことを表しているようです。
縄文人の世界観に触れる 秋田県「大湯環状列石」
環状列石はストーンサークルとも呼ばれる石の構造物です。ストーンサークルと聞くとイギリスの「ストーンヘンジ」を思い浮かべると思いますが、日本でも今から4000年前頃に、北海道や東北を中心に多くのストーンサークルが作られました。
その代表的な遺跡が秋田県鹿角市の「大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)」です。広々とした台地に日本最大級の「万座(まんざ)環状列石」と「野中堂(のなかどう)環状列石」の2つのストーンサークルが並び、当時の情景を醸し出しています。
また併設の「大湯ストーンサークル館」では、「ドバンくん」の愛称で呼ばれる門外不出の土版が人気を博しています。
「大湯環状列石」のあらまし
ストーンサークルは石を環状に配置したもので、共同墓地として作られ、これを中心として葬送や祭祀などが行われました。
今から約4000年前、日本列島は気候の寒冷化で人口が減少し、それまで大きな集落に暮らしていた縄文人は小さなムラに分散して暮らすようになりました。
その一方で、ムラから離れた場所に石を並べた墓地を作りました。その墓地を共同で維持・管理する小さなムラの集まりは、1つの地域社会となったのです。
最大径52mの「万座環状列石」と、最大径44mの「野中堂環状列石」は、それぞれ大小の石を様々な形に組み合わせた「組石」が2重の環状に配置されています。
それらの石は直線距離で約4㎞離れた川から運ばれたもので、その数は「万座環状列石」で約6500個、「野中堂環状列石」で約2000個にも及びます。
またそれぞれの列石の中心から見て北西側には、日時計のように組まれた組石「日時計状組石」が配置されています。夏至の日には、2つの環状列石の中心と「日時計状組石」が一直線にならぶ位置に太陽が沈むと言います。季節や時間を知るためのものであった可能性があるようです。
可愛すぎる!特殊な「土版」
ストーンサークルからは多くのものが出土しました。可愛いと評判の土版「どばんくん」もその1つです。
土版は祈りの道具と考えられるもので、粘土で作られた平たい板に幾何学的な文様が施されたり、顔のようなものが表現されたりすることがあります。
この土版は穴を開けることにより顔を表現しているようですが、よく見るとその穴は1から6までを表しているように見えます。
口が1、両目が2、向かって左胸が3、同じく右胸が4、中心が5、そして裏側の上部左に3、右に3、合わせて6。このことから縄文時代には1から6までの数の概念があったのではないかという見方もされています。
丘の上の復元された貝塚 北海道「北黄金貝塚」
美しい海を望む丘に、白い大きな貝塚があります。本来は見ることのできない縄文時代の貝塚が、一目でわかるように復元されたものです。
元は牧場であったと言う広い丘には、貝塚の他、竪穴建物や水場が復元され、北海道特有の縄文文化を感じることができます。
但し雪の降る冬季は閉鎖され、4月から11月まで限定の公開となっています。
「北黄金貝塚」のあらまし
北海道の南西部、伊達市の「北黄金貝塚」は、今から約7000年前から4500年前につくられた貝塚を伴う集落遺跡です。
日本の「貝塚」の多くは縄文時代に作られたもので、主に縄文人が食べた貝の殻が積み重なったものです。その貝殻の持つ炭酸カルシウム成分が酸性の土壌を中和することで、本来は土に分解されてしまう有機物(動物の骨など)が残っていることがあります。
この丘には5つの貝塚があり、そこから食料とした魚や海獣の骨、使い終わった土器や石器、祭祀道具、また墓や人骨も発見されました。
その発掘された当時の貝塚は埋め戻され、その代わりに2つの貝塚が復元されました。1つは丘の奥に作られた15m×15mの丸い貝塚。もう1つは海に近い丘の先端に作られた80m×20mの細長い貝塚です。
貝塚が作られた場所は、気候変動によって海岸線の位置が変化したことを示しています。それらの貝塚は不要なものを捨てる場であり、人を葬り、祭祀を行う場でもありました。
一説には、縄文人は貝殻の「白」を特別な色として認識していたとも言われています。縄文人にとって貝塚は単なるゴミ捨て場ではなく、神聖な場所であったと考えられるようです。
時代を跨ぐ造形「スプーン状の祭祀道具」
貝塚から出土したシカの角でできた祭祀用のスプーンには、独特の突起やスリットなどの装飾がありました。その造形は近隣の続縄文時代(本州の弥生時代)の遺跡でも見られ、4000年もの間変わらずに作られていたことが分かりました。
ここでの精神文化が時代を跨いでも変化せず、造形として長い間受け継がれていたと言えるようです。
おわりに
今回ご紹介した遺跡は、縄文の世界観がまるごと体感できる場所です。縄文人の作った造形物やそこに見え隠れする英知や美意識に触れることで、縄文時代がぐっと身近に感じられるのではないでしょうか。
各遺跡の基本情報・アクセスはHPでご確認ください。
【公式】世界遺産 北海道・北東北の縄文遺跡群