雑誌表紙を飾った元モデルが、千葉県に「日本一ゾウが多い動物園」をつくった理由。
バナナやニンジンをあげたり、長い鼻にぶら下がったり、背中に乗ったり……。他の動物園では体験できないようなゾウとの触れ合いをどこよりも先に取り入れた動物園があります。
市原ぞうの国。現在、日本国内で最も多い10頭のゾウが暮らしているのが、この私営動物園です。
ゾウはとても繊細で、妊娠・出産が難しいことで知られ、日本ではこれまで出産が24例、そのうちうまく育ったのは12頭しかいません。この稀少な事例の中で、市原ぞうの国では8例の出産があり、5頭が現在も元気に過ごしています。
一頭のゾウに対して一人のゾウ使いをつける手厚い体制を敷き、日本で初めて、親ゾウによる赤ちゃんの子育て(自然哺育)に成功するなどゾウの飼育に関して日本トップクラスの実績を持つこの動物園は、意外な理由で設立されました。1988年、市原ぞうの国の前身「山小川ファーム動物クラブ」を立ち上げ、現在も市原ぞうの国の園長を務める坂本小百合さんは、ほほ笑みました。
「もともと、広告やテレビ番組、映画などに動物を貸し出す動物プロダクションを経営していました。そのうち9割の動物は仕事がほとんどないんです。毎日ヒマにしているその動物たちが幸せに生きるにはどうしたら良いんだろうって考えて始めたのが、動物園でした」
開店休業状態の動物の居場所をつくるために開かれた動物園が、なぜ国内最多のゾウが暮らし、全国から多くのお客さんを集める場所になったのでしょう?
動物プロダクション経営者と結婚
小百合さんは1949年、神奈川県横浜市で生まれました。アメリカ軍基地ではたらいていた母、曾祖母、祖母の4人暮らしで、高校卒業後はモデルとしてブレイク。雑誌の表紙を飾り、多数の広告にも起用される引く手あまたの存在になります。
当時は動物ブームで、動物プロダクションから連れてこられたさまざまな動物と一緒に撮影する機会がありました。
子どものころから実家で犬やネコを飼っていたこともあり、特に抵抗なくその仕事に臨んでいた小百合さんが気になったのは、撮影の現場で動物たちがぞんざいに扱われていたこと。ある撮影の日、動物プロダクションへの不信感が決定的に高まります。
「軽井沢で、ある動物プロダクションで借りたネコとの撮影がありました。撮影が終わった後、スタッフが『どうしようか』と話し合っているから何かと思ったら、『このネコは病気だから、軽井沢で捨ててきてほしい』と動物プロダクションから頼まれたというんです。結局、スタイリストさんが飼うと言って連れて帰ったんですけど、本当にイヤな気分になりました」
小百合さんは1970年、20歳の時に同業の男性と結婚し、二人の子どもを授かったものの、1973年に離婚。シングルマザーになり、再びモデルとして活動を始めます。
大きな転機が訪れたのは、1980年。仕事で知り合った動物プロダクション「湘南動物プロダクション」の経営者、坂本篤煕(あつひろ)さんと出会い、わずか3カ月で結婚を決めたのです。
篤煕さんの自宅兼飼育場を訪ねた時、動物たちのケアが疎かになっているのを見て、「なんとかしなくちゃいけない」と感じた小百合さんはモデルの仕事を離れ、仕事でも篤煕さんのパートナーになりました。ここから、人生のジェットコースターが加速します。
篤煕さんと結婚した時期、「湘南動物プロダクション」は大変な苦難に見舞われていました。夫が結婚の前後で2度も詐欺に遭い、「ほとんど一文無しの状態」に。
そこで、小百合さんの母が土地を持っていた千葉県の茂原に移転を計画するも、地元で反対運動にあい断念。にっちもさっちもいかなくなり、小百合さんが所有していた横浜市の自宅を売却、千葉県東金市に土地を買って、動物たちとともに移住しました。
それからもしばらく低空飛行が続きますが、牛の「吉田君」がフジテレビの番組『オレたちひょうきん族』に出演したのを機に、一躍人気者に。その後、チンパンジーのロッキー、犬(イングリッシュ・ポインター)のハリーなどがテレビやCMなどで引っ張りだこになり、一気に経営が上向きました。
小百合さんは自らハンドルを握って、動物をテレビ局やロケ地に連れて行きました。めまぐるしい忙しさの中で3人の子どもにも恵まれ、合わせて5人の子育てに追われていました。
「一時期、撮影で使ったライオンの赤ちゃんが自宅にいたことがあるんです。哺乳瓶でミルクをあげていたんですけど、同じくミルクを飲んでいた娘の哺乳瓶と見分けがつかなくなったこともありました。ライオンと一緒にハイハイしていた娘が最初に話した言葉は、パパでもママでもなく、『ガオーッ』だったんですよ(笑)」
人間と動物が渾然一体となっていた小百合さん一家に、初めてのゾウがやってきったのは1983年。あるテレビ番組にゾウをレギュラー出演させることが決まり、和歌山県にあるアドベンチャーワールドから1,000万円で購入したのが8歳の雌ゾウ、ミッキーです。
小百合さんは、それまでもサーカスなどから借りたゾウと仕事をすることはあったものの、飼育するのは初めて。「ゾウは何が好きなんだろう」状態だったため、ミッキーと一緒にやってきた飼育員にイチから教わったそう。
バブル景気のなか、チンパンジーのロッキーは1日30万円、ラクダは1日70万円、ミッキーは1日100万円を稼ぐように。このころ、湘南動物プロダクションは業界シェアトップになりました。
ヒマな動物の居場所としてつくった動物園
勢いに乗る湘南動物プロダクションは、ミッキーが来た翌年、さらに2頭のゾウをタイで購入しました。2年後に公開される映画『仔象物語 地上に降りた天使』に出演する子どものゾウを手配する必要があったのです。最初にやってきたのがライティで、もう1頭のミニスターは予定よりも3年も遅れ、映画公開後の1987年に到着しました。そのため、映画はライティのみで撮影されました。
ライティを調教するために、タイから一緒に来日したのがゾウ使いのノイさん。小百合さんと前夫の間に生まれた長男で、動物好きに育っていた哲夢さんは、ミッキー、ライティと暮らしながらノイさんの仕事ぶりを見て、「ぼくもゾウ使いになりたい!」と言うようになります。
「やりたいことをやらせてあげたい」と思った小百合さんは、ライティが来た年、小学校5年生の哲夢さんをタイでの短期留学に送り出しました。
哲夢さんはさらに本格的に学ぶため、小学校卒業後再びタイに渡り、現地の日本人学校に通いながら、週末は「チェンダーオゾウ訓練センター」で学ぶ生活を1年半続けました。14歳で日本に戻ってきた時にはタイ語を話せるようになり、ゾウ使いとしてのスキルも身に着けていたようでした。
小百合さんは子どもたちの成長を見守りながら、動物たちのことも気にかけていました。経営に余裕が出てきてから思いを馳せるようになったのは、仕事もなく毎日ヒマにしている動物たち。この動物たちが「広々とした敷地で伸び伸びと幸せに過ごしてほしい」と考えた小百合さんは1989年春、千葉県市原市の山小川という場所に「山小川ファーム動物クラブ」をオープンします。
ゾウ舎に入ったのは、3頭。しかし、『仔象物語』に出演したライティはいませんでした。前年、寄生虫が原因で亡くなってしまったのです。入れ替わるようにしてやってきたのが、サーカスの借金の担保として金融業者が売りに出したリンダ。小百合さんはライティの名前の一部を取って、名前を「ランディ」に変えました。
ミッキー、ミニスター、ランディの3頭に加えて、開園してすぐ、新たに洋子というゾウも閉園された動物園からやってきました。仲間のゾウが亡くなった時から洋子は心に傷を抱えていたため、開園当初から人気を博したゾウのショーはミッキー、ミニスター、ランディで行われました。
動物園を賑わせたアイデア
「山小川ファーム動物クラブ」の滑り出しは、決して順調ではありませんでした。開園からすぐに迎えたゴールデンウイークの売り上げは、たったの100万円。小百合さんは夫から「ゾウを一頭貸したら1日300万円の時代に、なんでそんなことをするんだ」と言われたそう。
しかし、小百合さんはそれまで仕事もなく狭い檻のなかでボーっとしていた動物たちを広い飼育場に解放し、その上100万円も稼いだことに手応えを得ていました。もっと大勢のお客さんに来てもらうためにどうしたら良いのかを考えた小百合さんは、ある日、閃きます。
「エサを売って、お客さんが動物にあげられるようにしよう!」
封筒を半分に切ったものにニンジンを入れて、園内で販売。近年、あちこちの動物園で見かける「園内で動物のエサを売る」ビジネスの先駆けが、「山小川ファーム動物クラブ」でした。お客さんは、ゾウをはじめ動物園の動物たちにエサをあげるという初めての体験にエキサイトし、面白いほど売れました。
「動物のエサやりを始めたのは、うちが日本で最初だったと思います。エサが入ったバケツを持ったお客さんが来ると、動物はバケツを見て、『良い人が来た』と思って近寄ってくるようになりました。
お客さんからすると、自分が名前を呼んだから動物が寄ってきてくれたと思っているんだけどね(笑)。動物もはたらかなくちゃいけないでしょ。それなら、楽しくはたらかなくちゃ」
また、当時日本では珍しかったゾウのショーにも小百合さんは着手します。ショーやエサやり体験がヒットし、2、3年も経つと、大勢のお客さんが訪れるようになります。
悲劇の別れ
さて、山小川ファーム動物クラブを運営する最中にも、動物プロダクションの経営に奔走していました。思い入れが深い仕事は、1992年に放送された終戦記念ドラマ『象のいない動物園』。太平洋戦争中に処分されることになった上野動物園のゾウを描いた品で、ランディが出演することになりました。
その際、ランディに付きっきりで演技指導を担当したのが、哲夢さん。息子の奮闘を見て、「一人前のゾウ使いになった」とうれしく思ったそう。
その哲夢さんを、悲劇が襲います。8月の終戦記念日に『象のいない動物園』が放送されてから3カ月後の11月10日。その日、社員旅行でグアムにいた小百合さんに、ホテルのスタッフから「息子さんが交通事故に遭った」と連絡が入りました。
日本のスタッフと連絡を取り合っても事故に遭ったということしか分からず、大急ぎで帰国。自宅に戻ると、小百合さんの母が静かに泣いていました。哲夢さんは仕事で使うネコを搬送している時にトラックと正面衝突し、すでに亡くなっていたのです。
「実感が湧かないですよ。突然のことで、なんて言ったら良いのかしら。信じられないっていうか」
後日、スタッフから「事故が起きたと思われる時間に、4頭のゾウが一斉に鳴いた」と聞いて、小百合さんは胸を打たれました。悲しみと混乱のなかで迎えた葬儀の日、出棺の際にも4頭のゾウは大きな鳴き声を上げ、棺に歩み寄って涙を流しました。
哲夢さんが亡くなってからしばらくの間、ゾウたちはショーをする広場に足を向けなくなりました。それぞれのゾウを担当するゾウ使いや小百合さんが「お客さんが待っているから行こうよ」といくら声をかけても、歩き出しません。
それでも毎日毎日、ゾウ舎に出向いて話しかけていたら、12月に入ったある日、まるで喪が明けたかのように、ゾウたちが広場に向かいました。この時期から、小百合さんとゾウの関係が変わり始めます。
「最初のころは、ゾウがなにを考えているか分かりませんでした。私にとっては、大食漢の力持ちっていう感じ。でも息子が亡くなってゾウたちと向き合うようになったら、ゾウたちの悲しみが私と一緒なんだって感じたんです。それからかな、ゾウと分かりあえるようになったのは」
歓喜をもたらしたゾウのテリー
哲夢さんが亡くなった翌年、小百合さん夫妻はアジアゾウの繁殖計画を立てました。当時、日本では1965年に宝塚動植物園で出産例があったものの、死産。「日本初」を目指すことで、悲しみから逃れようとしていたのかもしれません。
国内外から数頭のゾウを譲り受けたり、借り受けたりするうちにゾウが増えたこともあり、1996年、「市原ぞうの国」に改称。しかし、前述したようにゾウの繁殖は一筋縄ではいかず、思うような結果がでないまま時が過ぎました。
そして2000年、小百合さん夫妻は離婚。夫が動物プロダクションの事業を引き継ぎ、小百合さんのもとには市原ぞうの国が残りました。
その翌年、市原ぞうの国に歓喜をもたらすゾウがやってきます。小百合さんがインドから輸入した雄のテリーです。輸入の書類に目を通した小百合さんは、思わず「えっ」と声をあげたそう。テリーが生まれたのは、1992年11月13日。それは、哲夢さんが亡くなった3日後で、葬儀が営まれた日でした。
取材中、小百合さんに「不思議な縁ですね」と伝えると、大きくうなずきました。
「そうですよね。単なる偶然とは思えません」
「予算表も計画書も作れない」園長が頼るもの
公益財団法人・東京動物園協会が運営するウェブサイト「東京ズーネット」には、「おとなのゾウは200~300キロもの草や木を食べ、水も1日に100リットル以上飲みます」と書かれています。
繁殖を経て、現在10頭のゾウを飼育する市原ぞうの国。1日に莫大な量のエサが消費されていることが分かるでしょう。さらに、一頭につき一人のゾウ使いをタイから迎えているため、10人分の人件費もかかります。さらにゾウを増やしていくことの負担について尋ねたところ、小百合さんはからりと笑いながら、「そんなに深く考えていないの」と言いました。
「あたし、予算表も計画書も作れないし、なにもできないんです。もう勘だけですね」
小百合さんの判断基準は、「お客さんが嬉しくて、動物も嬉しければ良い」。その発想で始めたエサやりは大切な収入源になり、ゾウの赤ちゃんが生まれた時にはその姿を一目見ようと、お客さんの長い行列ができました。
「私が経営をしていなければ、ここはもっと儲かりますよ」と冗談交じりに言いますが、動物とお客さんを第一に考える小百合さんの「勘」が、公営の大手動物園からも信頼される市原ぞうの国の今を形づくったのです。
こうしてたくさんのゾウと暮らしているうちに、小百合さんにとってゾウは特別な存在になりました。
「仕事に追われて疲れたり、悲しいことがあったりするとゾウのそばにいるんです。ゾウの鼻に掴まっていると、安心感があるんですよね。そうすると慰められて、疲れも吹き飛ぶ感じがします」
キリンにエサやりをできるサユリワールド
2011年、市原ぞうの国に隣接する土地に開かれた「サユリワールド」も、「自分の庭を造るつもり」で立ち上げました。
「庭にキリンがいたらきれいだろうなって思って(笑)。それと、いろいろな動物を飼育して、一緒に生活させたかったんです。動物と人間が仲良くできる場所をつくりたくて」
近年では動物を放し飼いしたスペースを売りにする施設も出てきています。しかし、小百合さんは「単に動物を放してもうまくいかない」と話します。
「人間やほかの動物がいても驚いたり、怯えたりしないパーフェクトな動物を1匹育てれば、仲間はそれに準じます。動物が動物にものを教える方が、ずっと楽なんですよ。だから私は、サユリワールドで放す前に手をかけて育てています」
周囲の目を気にせず、自分の「勘」を頼りに市原ぞうの国とサユリワールドを経営してきた小百合さん。ほかの動物園にない存在感に惹かれた人たちが集います。
たとえば、スタッフの藤代さんは、もともと北海道で酪農をしていました。しかし、60歳を過ぎて身体を壊したのを機に、一念発起。子どもに牧場を譲り、家族を北海道において、車で市原ぞうの国までやってきました。
「昔からゾウが好きでね。ゾウが日本で一番いるのがここでしょ。ゾウのそばで暮らしたいから、雇ってもらえないかなと思って飛び込みで来たんです」
藤代さんから直談判された小百合さんは、あっさりと受け入れました。その理由は?
「面白そうだから!」
もう一人は、20歳の若者。
「高校1年生の時からアルバイトに来ているんです。タイに何回か行って勉強して、今は朝早く来て、タイ人のゾウ使いがなにをしているのか、見ているだけの修行をしているの」と小百合さん。
1992年に哲夢さんが亡くなって以降、日本で活動している日本人のゾウ使いはいません。市原ぞうの国から、哲夢さんの後を継ぐゾウ使いが誕生するのでしょうか。小百合さんは、温かく見守っています。
(文/写真・川内イオ)