フィアット600ムルチプラ:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#25
前回の連載で「600ムルチプラ」に触れたこともあり、ムルチプラについて記してみたくなった。どこかのヒストリックカー・イベントで正規輸入された1台を見かけ、シャッターを切った記憶があるが、話を書こうにも肝心の1枚が見つからないため、カタログを使うことにしよう。
フィアット600ムルチプラは全長3.5mほどの小型大衆車ながら、限られた寸法のなかで大きな車室を捻り出して多用途車とした秀作車で、現在でもファンが少なくない。
クルマの歴史の中ではさまざまなコンセプトが生まれていったが、MPV(Multi Purpose Vehicle)と呼ばれるジャンルの“成功例の先駆けのひとつ”が、1956年のブリュッセル・ショーで登場したムルチプラだろう。フィアット600のコンポーネンツを流用しながら、新しいフォルムと卓越した室内空間を備え、4座または5座の2列シート仕様のほかに6名乗の3列シート仕様も設定されていた。カタログにあるように、シートを折り畳めば広いラゲッジスペースが現れ、キャンパーにもなった。
フィアットの経営陣は、終戦になって社会が安定すれば必ずクルマ需要が大きく高まるはずだと考え、技術陣は戦中から構想を練っていた。将来に「フィアット600」となる小型大衆車の計画が正式に立ち上がったのは、1953年7月といわれる。社長以下役員が出席した会議が開催され、ヴィットリオ・ヴァレッタ社長が設計陣から提示された新型小型乗用車に試乗したうえで生産化を承認した。
600は戦前に発売されて大成功した「500トポリーノ」の後継モデルとして開発され、先代と比較してはるかに広い室内空間と快適性が織り込まれていた。この計画を指揮したダンテ・ジアコーサは、ミニマムなサイズの中に最大限の空間を確保するため、4気筒エンジンをリアエンドに配置することで、小さな外寸ながら最大限の車内空間を得ようとした。600の全長(3215mm)とWB(2000mm)は4人のための快適な室内空間に加えて、静粛性を得ることができた。すでにフォルクスワーゲンがリアエンジンで成功をおさめ、それが小型車の標準になりつつあった。
600の生産化が決まったとき、セダンだけでなくモノスペース・モデルを加えることが提案され、これがムルチプラとして市販されることになった。その名はイタリア語で“多様の”に因んだものだった。
車室空間を拡大するため、フロントシートを最先端に移動させて、同一のホイールベースのままながら3列シートを実現させることに成功。リアシートを倒すと、ほぼ2メートルの長さを持つフラットなカーゴスペースを得ることが可能であった。前述したように、このスペースはダブルベッドとして使いことも可能であり、カタログではキャンパーとして使う家族の様子を示している。
タクシー仕様では、助手席が荷物のためのスペースとなり、後席は固定式の2名分に加えて、折りたたみ式の2名分が設けられていた。
タクシー仕様車もランニングコストが安かったことから好調な販売を見せ、イタリアの都市では欠かせない存在となり、当時のイタリアの映画やTVドラマでその姿を見ることができる。
1960年代にはイタリアのタクシーのカラーリングは、ここに掲げたように黒と緑のツートンが一般的だったが、ムルティプラではタクシーだけでなく、オーナードライバーのクルマもこの塗色が少なくなかったという。
掲載した600ムルチプラのカタログには、1960年代半ばまでフィアットの日本総代理店であった日本自動車(株)のスタンプが押されていることに気付かれたことだろうか。その中核にあった方から託されたカタログコレクションの中の重要な1冊だ。ちなみに日本自動車(株)は、大倉財閥2代目総帥で日本における自動車趣味およびビジネスの草分けとして知られる、大倉喜七郎氏が設立した老舗の自動車輸入販売会社であった。
日本自動車が600ムルチプラの輸入を開始した時期についてわたしは知らないが、1963年1月に開催された東京オートショーに「600Dムルチプラ」(767cc)が出品され、6名乗仕様が100万円と書かれていた。600Dは1960年9月に登場した改良型であり、エンジンもオリジナルの633ccから767ccに拡大したモデルだ。
ちなみに同じ会場に並んだVWビートル1200が95万円、オースチン・ミニが98万円であった。117万円を支払えば、日本車なら同じ6名乗でもプリンス・グロリア・デラックス(1900cc)を入手することができた。まだマイカー時代が訪れる以前の日本では、奇妙なスタイリングの輸入車、ムルチプラがたくさん売れたとは思えない。庶民にとっては、マツダ・キャロル360スタンダード(37万円)の軽自動車さえ高嶺の華であった時代のことであった。この頃、ムルチプラを見初めて入手したのはどんな方だったのだろうかと、手元の600ムルチプラのカタログを捲りながら想いを馳せるわたしであった。