ジェイン・オースティンゆかりの地――ハンプシャー州チョートン
オースティン『高慢と偏見』、ブロンテ『嵐が丘』、イシグロ『日の名残り』――。
イギリス小説の傑作10篇をじっくり精読する『名場面の英語で味わう イギリス小説の傑作』より、著者のおひとりである斎藤兆史氏(東京大学名誉教授)のコラムを特別公開。『高慢と偏見』の作者であるジェイン・オースティンゆかりの土地、ハンプシャー州チョートンを訪ねます(※本記事用に一部を編集しています)。
オースティンが晩年を過ごした土地
イングランド南部ハンプシャー州にチョートンという小さな村があります。ジェイン・オースティンが晩年(といっても、30代中頃から40歳過ぎまで)を過ごした村で、彼女が住んでいた家は、今では博物館(Jane Austen’s House Museum)として一般に公開されています。私も2010年にここを訪れました。展示されている家具や調度品は実際にオースティンが使っていたもの、あるいはその時代に使われていたものばかりであり、彼女が住んでいた当時の暮らしぶりを彷彿とさせてくれます。彼女がここに住んでいるときに、『高慢と偏見』をはじめ、その代表作のほとんどが出版されたことを思うと、感慨もひとしおです。
1階の居間の窓際に、オースティンがよく座っていたとされる椅子、そして小さなテーブルがあります。彼女はここで物語を書いていたというのですが、この博物館を訪れた誰しもがそのテーブルの小ささに驚くに違いありません。今ならさしずめコーヒー・テーブルと呼ばれるくらいのサイズで、それこそ二人分のコーヒーか紅茶のカップ、それにお菓子の皿でも置いたら、ほかに何も置く余地がなくなってしまいます。今はテーブルの上に羽根ペンの差さったインク瓶が置かれていますが、ほんのちょっと原稿が触れただけでもインク瓶が落ちて割れてしまいそうです。いったいこんなところでどうやって執筆を行ったのでしょうか。
さらに面白いのは、オースティンがここに住んでいたときには、家の玄関からこの居間に至るまでのどこかにキーキーときしむドアがあったらしく、そのドアがきしんで客人の到来を知らせると、彼女は慌てて原稿を隠したと言われています。文筆など女性のすることではないと思われていた(であろう)時代の話ですから、原稿を隠したくなる気持ちはわからないでもありませんが、引き出しもないむき出しのテーブルのどこに隠すというのでしょうか。原稿をがさがさかき集めているときに、またしてもインク瓶を落として割ってしまいそうです(そこがいやに気になります)。
執筆の裏側
そのあと、オースティンの兄エドワードの屋敷であったチョートン・ハウス(Chawton House)を訪れ、彼女の執筆の様子が少しだけわかったような気がしました。このマナー・ハウス(荘園領主の邸宅)は、現在、貴重な文献を所蔵するライブラリーを中心として、学会などを開催するための多目的学術施設として用いられていますが、その図書室に、サミュエル・リチャードソンの書簡体小説『サー・チャールズ・グランディソン』(Sir Charles Grandison 1753 - 54)のパロディとしてオースティンが1793年に書いた戯曲(未完)の手書き原稿の一部が保存されています。その紙と文字の小さいこと! メモ用紙を思わせる大きさの紙に、きれいな筆記体でびっしりと文章が書かれているのです。この戯曲自体は彼女がチョートンに引っ越す前に書いたものですが、小さな紙に小さな文字を書き連ねるのが彼女の執筆スタイルであったとすれば、なるほど、書いているところを人に見られたくない場合にはすぐに隠すことができます。インク瓶を落とすこともありません。
作家が実際に使っていた家具や文房具、あるいは手書き原稿をじかに目にすると、普段活字で読み慣れた作品が違って見えることがあります。もちろん、それで作品の解釈が変わるとか、作品の新しい意味が生まれるということではありませんが、作家の執筆の苦労がひしひしと伝わってきて、作品そのものがいとおしく思えてくるのです。読者の皆さんも、作家に関係する博物館や記念館を訪れるときには、ぜひ彼らの執筆の様子に思いを馳せていただきたいと思います。(斎藤兆史)
著者プロフィール
斎藤兆史 Saito Yoshifumi
東京大学名誉教授。東京大学文学部卒業、同大学院人文科学研究科修士課程修了。インディアナ大学英文科修士課程修了。ノッティンガム大学英文科博士課程修了(Ph.D.)。
著書に『英語達人列伝』(中央公論新社)、『英文法の論理』(NHK出版)、訳書にラドヤード・キプリング『少年キム』(筑摩書房)、共訳にチャールズ・ディケンズ『オリバー・ツイスト』(偕成社)などがある。
髙橋和子 Takahashi Kazuko
東京女子大学文理学部卒業。東京大学大学院総合文化研究科修士課程、同博士課程修了。博士(学術)。
著書に『日本の英語教育における文学教材の可能性』(ひつじ書房)などがある。