世界のホームラン王・王貞治の生誕の地「八広」を行けば、変貌著しい東京が見えてくる
◆荒川土手の原っぱで深呼吸
墨田区の押上駅と葛飾区の青砥駅を結ぶ京成押上線がある。「押上」「京成曳舟」「八広」「四ツ木」「京成立石」「青砥」の6駅で、走行距離5.7㌔という東京の私鉄では短い路線だ。青砥駅からは京成本線を利用して成田空港への移動に便利で、押上駅からは都営地下鉄浅草線や京浜急行電鉄、都営メトロ半蔵門線等と繋がっているので都心部へのアクセスは悪くない。ただ、成田方面や、神奈川方面まで足をのばすときなどは、つい急行や特急電車を使ってしまうので、「八広(やひろ)駅」は長く東京に住む人にとっても知名度の低い駅だった。
陽ざしも優しくなった4月の初旬、知られざる八広駅に初めて途中下車してみた。
もともとは、荒川放水路の土手の上にあったことから、大正12年(1923)に開業されてから長い間「荒川駅」という駅名で親しまれてきた。時を経て、1932年に「荒川区」が誕生したことや、荒川橋梁の架け替え、駅の高架化を機に、地元の地名にあった「八広」を駅名としたのが平成6年(1994)というから、そう昔のことではなかったのだ。因みに「八広」は、1965年の住居表示により、8地区の合併により「八」の字を採り「末広がり」の縁起を担いで命名されたという。
ひらひらと桜の花吹雪が舞う住宅街を抜けて荒川土手に進むと、西には「スカイツリー」が堂々と聳えている。河川敷の木の下ではサックスの練習をする人、サイクリングをする人、ランニングをする人、サッカーボールのドリブルを練習する人など、それぞれが思い思いに快適な過ごし方をしているではないか。映画『男はつらいよ』の車寅次郎が柴又に帰郷してきた風景を想起させる。気候の良くなったこれからは、ますます人出も多くなるだろう。休みの日には子供たちの元気な声も聞こえてきそうだ。昭和の時代、「原っぱ」は子どもたちの大事な遊び場だったが、河川敷でキャッチボールをする親子連れなどをみていると、長閑で忘れていた子供の頃を思い出す。
荒川を跨ぐ橋梁を一気に走るスカイライナー、八広を出発したシルバーの京成電車がゆっくりと行き、都営浅草線の赤い車両も駆け抜けていく昼下がりであった。
旧京成押上線荒川橋梁は、大正12年11月に完成した。その後、昭和62年から改良工事に入り、新橋を架設して、旧橋梁を撤去した。長さは約460m。
◆「洋食50BAN」のマスターは王さんの従兄弟
八広駅に途中下車してみたいと思ったのは、世界のホームラン王・王貞治さんゆかりの地こそ、墨田区八広であることを知ったからである。八広駅から「八広はなみずき通り」に出てをまっすぐ東へ進むと3分くらいで到着したのが「洋食50 BAN」。そこはまさに王さんの生誕の地で、ご両親の王仕福さん、登美さんが始めた中華料理店「中華五十番」のあった場所。王さんが5、6歳の時、一家は現在のスカイツリーの近く「業平」に移転していったが、八広の店は王さんの母、登美さんの弟夫妻が「中華五十番」を引き継ぐことになった。現在は王さんの従兄弟にあたる、川口俊幸さんがマスターとなり、昭和44年から洋食のお店「洋食50 BAN」に業態をかえたという。「この場所のことは、貞治さんは憶えていないと言っていましたよ」とはいえ、昭和22年にこの地に生まれ育った川口さんは、7歳上の王さんと「八広」の今昔物語を思い出してもらいながら、ご自身のことや王さん一家のことも語っていただいた。
昭和の時代は、荒川駅前(八広駅)は70店ほどのお店が軒を連ねる商店街だったという。主婦たちが買い物かご片手に、豆腐屋、魚屋、味噌屋、乾物屋などの商店街に連れ立つような下町風景だったが、30年前くらいから、コンビニやスーパーができると、個人商店の小さなお店が一斉に店仕舞いして、街の雰囲気が変わっていったという。
かつての商店街に連なっていた「洋食50 BAN」も道路拡張によってセットバックしてしまい、以前は4、50人ほどが入る店で宴会もできるほどの広さだったが、今では1階は厨房とカウンター席、テーブル席が6つほどに縮小されて3階建てのビルになった。王さんのご両親から譲り受けた当時の「中華五十番」はとても繁盛し、川口さんも小さい頃からお店を手伝った。王さんの後を追うように野球に没頭したが、高校時代はラグビーに転向した。スポーツに打ち込むばかりで、お店を継ぐということは露ほども思っていなかったという。父が50代で亡くなり一時閉店したが、喫茶店を始めた母の手伝いをするうちに、はじめはカレーとサンドイッチの注文に応えていたが、常連客からチャーハンなどいろいろと頼まれるようになった。やがて川口さんは独自で料理を勉強しながら洋食のレパートリーを増やしていったという。チャーハン、ドライカレー、ポークライス、シーフードライス、かつ丼、海老丼、スペシャルカツサンド、海老サンドなどメニューも豊富だ。
▲ランチメニューは3種類。ボリュームのあるハンバーグとチキンカツのセットいただく。お味噌汁、食べきれないほどのライス付きで1000円(税込)。ランチは常連さんがひっきりなしに訪れ、回転もはやい。店内には王さんの三冠王受賞記念のサイン入りパネルが掲げられている。
「洋食50BAN」の分厚いカツサンドが人気で王さんも大好物だったとか。一時期東京ドームで「カツサンド」を販売していたこともあったが、「設備に投資して9年間続けたがあまり儲からなかった」とは川口さん。失敗談も面白可笑しく話してくれる川口さんの話を聞いていると、自然と笑みがこぼれてしまう。おいしい「洋食50BAN」の秘密は、揚げ物に使う「油」にあるという。オランダ産の最高級ラード・カメリアでじっくり揚げているそうだ。ランチにいただいた、ヒレカツもチキンカツも衣が薄めであっさり仕上がっていた。
王さんは墨田区方面に用事があると、「としちゃん、今から行くから」と今でもお店に立ち寄るそうだ。早稲田実業の高校生のころから、王さんは手の届かないスターになってしまったが、「洋食50BAN」を訪ねてくるときはリラックスして、「いつも7歳上のお兄ちゃんに戻っていた」と川口さんは嬉しそうに語る。
以前の「八広駅」西側に隣接するようにあった石鹸工場は、倍賞千恵子主演、山田洋次監督の『下町の太陽』のロケ地になっている。また小津安二郎監督の『東京物語』の冒頭のシーンに映り込んでいる駅舎は、当時の荒川駅だったという。東京の下町の工業地帯を代表するような光景だったのだろう。近くには日活向島撮影所があったが、後に久保田鉄工隅田川工場に変わり、現在ではマンションが建っている。かつては硝子工場なども多かったが、時の経過とともに工場がマンションに変わっていき、移り住んでくる住民も変わってきているようだ。
変貌著しい東京の下町の一角には、慶長の時代(1600年代)に分霊したと伝えられ、地元の人から「こんにゃく稲荷」として親しまれている三輪里稲荷神社があると教えられ、お参りをして王さん一家が移り住んだ業平方面に足を進めた。この日は何と2万歩も歩き、心地よい疲れで熟睡。健康にもよい下町さんぽであった。
▲三輪里稲荷神社は、 2月初旬の初午の日に湯殿山秘法のこんにゃくの護符を授けることから、「こんにゃく稲荷」とも呼ばれている。のどや風邪に効くとの謂れがある。自転車を降りて脱帽し拝礼する男性をみかける。きっと地元の氏神様として親しまれているのだろう。押上方面に歩きながら、おもしろいオブジェを見つけた。このあたりも道路の拡張工事が進んでいる地域である。
洋食50BAN
[住]東京都墨田区八広4-25-5
[問]03-3617-0428
[営] 11:30~14:00(L.O.13:30)(昼) 17:30~21:00(L.O. 20:30)
[休] 月曜、第2、第4日曜日
[問]03-3617-0428
(営業時間・定休日は変更となる場合があるので、来店前に店舗にご確認ください)