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翻訳しづらい「もののあはれ」とは何か?──安田登さんと読む「ウェイリー版・源氏物語」#4【NHK100分de名著】

NHK出版デジタルマガジン

翻訳しづらい「もののあはれ」とは何か?──安田登さんと読む「ウェイリー版・源氏物語」#4【NHK100分de名著】

「ウェイリー版・源氏物語」を、安田登さんがやさしく解説 #4

「ゲンジ」は、こんなに面白い!

光る君は「シャイニング・プリンス」、天皇は「エンペラー」──。
1920~30年代、イギリス人アーサー・ウェイリーが鮮やかに英訳した『源氏物語』。
NHK『100分de名著』で能楽師・安田登さんが紹介するのは、このウェイリー訳を現代の日本語に再翻訳した、いわば“逆輸入版”の『源氏物語』です。

驚くほど分かりやすい、画期的な翻訳とともに『源氏物語』を味わっていく本書の「第3回」は、物語に流れる「もののあはれ」について考えています。
言葉にすることが難しい「もののあはれ」とは何なのか。その解説の一部を公開します。

第3回『源氏物語』と「もののあはれ」より

「もののあはれ」とは何か

『源氏物語』の原文と、ウェイリー訳・らせん訳を比較しながら、それぞれのよさや特徴を見てきました。英訳しにくい言葉の一つとして挙げたのが、「あはれ」でした。この「あはれ」に「もの」を付けた言葉が「もののあはれ」です。

「もののあはれ」は『源氏物語』の重要なテーマです。そして、原文とウェイリー訳・らせん訳を合わせて読むことによって、私たちは『源氏物語』における「もののあはれ」を具体的に理解できる。私はそう考えています。

 第1回で紹介したように、「もののあはれ」を平安文学、特に『源氏物語』の基調を成すものと指摘したのは本居宣長です。『源氏物語』の注釈書である『源氏物語 玉の小櫛』(一七九九年)の中で、彼は次のように述べています。

 物語というものは、「もののあはれ」を知ることをその旨としている。だから、そのストーリーには儒教や仏教などの教えに背くこと、すなわち倫理的に問題のあるものも多い。「あはれ(情動)」がものに動かされるときは、「善悪」や「邪正」など考えない。むろん、道理に反することには感動してはいけないということはわかる。しかし、情動は心のままならぬもの。どうしても我慢できないときもあり、そういうときには「悪いこと」とわかっていても情動が動かされてしまうこともある。

(筆者現代語訳)

 そして本居宣長は、物語のどこに焦点を当てるかによって、その主人公に対する評価は変わると言います。

 たとえば『源氏物語』の中でも倫理的に特に問題なのは空蟬の君、朧月夜の君、それから藤壺の中宮との関係で、この女性たちとの関係は、これ以上ないほどの「不義悪行」である。そこに焦点を当てると光源氏はひどい男になる。

 しかし『源氏物語』は、その不義悪行に焦点を当てずに、そこにあらわれる「もののあはれ」の深さにスポットを当てている。すると、光源氏はよき人もよき人、これほどよき人はいないよき人の手本であり、そんな観点で、その「よきことの限り」を集めたのがこの『源氏物語』であって、その善悪は儒教や仏教の善悪とは違う。もし、倫理を云々したければ、その手の本を読めばいいではないか。

(同前)

 本居宣長によれば、「もののあはれ」の「もの」とは、抽象的なものです。具体的な何かが「あはれ」なのではなく、何となく「あはれ」に感じてしまう。

 民俗学者・折口信夫(おりくち・しのぶ)の定義はより具体的です。折口信夫は、「もの」は霊魂だと言っています。『源氏物語』で言えば、ウツセミやオボロヅキヨ、フジツボには本来は恋心を抱いてはいけない。しかしゲンジは恋をしてしまう。ところがこの恋心は、ゲンジ本人が抱いたのではなく、ゲンジの霊魂が抱いたのだ。だから仕方がないではないか。これが折口信夫の考え方です。

 そして「あはれ」。これはさきほども述べたように、「あぁ」という感嘆が元になっています。感嘆、つまり、どうしようもなく心が動いてしまうこと。これが「あはれ」です。

「あはれ」とは、常に変化する心の動き

 これはたとえば、ムラサキが初めてゲンジの家に来たときの彼女の描写にも見られます。ムラサキは、知らないところに連れて来られて不安な様子を見せます。「見知らぬ場所が不安で、唇を震わせていますが、声を挙げて泣きはしません」。そしてゲンジと言葉を交わすと、さらに寂しさが募り、「ベッドの中で、いつまでも泣いています」。ところが次の日になると、「でも悲しみを忘れて笑い遊ぶ少女はますます可愛らしく、ゲンジも嬉しく見守りながら、思わず笑みがこぼれるのでした」とあります。

 昨日まで泣いていた子が、今日はニコニコと笑っている。これが「あはれ」の特徴です。たとえば、赤ちゃんがお腹を空かして泣いている。でもお母さんからおっぱいをもらうとすぐに笑う。これです。

 大人はこれができなくなります。大人はまず、自分はなぜ泣いているのか説明しようとします。するとその説明が抽象概念(言葉で定義する感情/ feeling)となって、自分の心を占めてしまう。すると、たとえ楽しいことがあっても笑えなくなり、どんどん、どんどん暗くなっていってしまいます。

 よくお葬式で、亡くなったおばあちゃんのことを思い出して泣いている子どもが、お坊さんのお経が始まった途端にそれがおかしくて笑い出すようなことってあるでしょ。大人はそれを𠮟りますが、しかし悲しいときには悲しい、おかしいときにはおかしい、それこそが「あはれ」なのです。

 ゲンジにはそれがあります。「あはれ」の特徴のひとつは、どんな状況でも美しいものを美しいと思うこと。たとえばゲンジは、失意の中で須磨に流されたときでも、須磨の風景や季節の美しさに感動しています。

 この性質は、現代的な善悪の価値観からすると「よくない」こととされています。たとえば「夕顔」の帖には次のような場面があります。

 ゲンジはユウガオのことが好きなのにロクジョウの家にも行きました。彼女の麗しさは「蔓花(ユウガオ:筆者注)のことなど、たちまちゲンジの頭から追い払って」しまうほどでした。翌朝、「ゲンジは幾度も起こされた挙句に、ようよう不機嫌で眠たげなまま、ロクジョウの部屋から出てきました」。

 ゲンジは、そんなロクジョウに未練たっぷりで部屋を出るのですが、そこにロクジョウの侍女がやってくる。するとゲンジは、すぐにその侍女をナンパするのです。ユウガオが好きなのに、ロクジョウのところに泊まり、そのロクジョウと別れた途端に侍女に声をかける。ゲンジはその侍女に軽くあしらわれます。

 そのとき、惚れ惚れするようなバギー・パンツ(指貫)姿のエレガントなお小姓が、花の中、露を零(こぼ)しながらやって来て、アサガオの花を摘みはじめました。絵に描きたくなる光景だ、とゲンジは思います。

 なんと、今度は男の子に見とれている。このようにゲンジの心はコロコロ変わっています。これが「あはれ」の特徴です。

NHK「100分de名著」テキストでは、
第1回 翻訳という魔法
第2回 「シャイニング・プリンス」としてのゲンジ
第3回 『源氏物語』と「もののあはれ」
第4回 世界文学としての『源氏物語』
もう一冊の名著 『紫式部日記』
という構成で、ウェイリー版・源氏物語を味わいます。

講師

安田 登(やすだ・のぼる)
能楽師
一九五六年千葉県生まれ。下掛宝生流ワキ方能楽師。ワキ方の重鎮、鏑木岑男師の謡に衝撃を受け二十七歳で入門、国内外を問わず活躍。おもな著書に『能650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)、『学びのきほん 役に立つ古典』『学びのきほん 使える儒教』『別冊NHK100分de名著 集中講義 平家物語』『別冊NHK100分de名著 集中講義 太平記』(NHK出版)など。
※刊行時の情報です

◆「NHK100分de名著 『ウェイリー版・源氏物語』2025年11月」より
◆テキストに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※本書における現代語訳の引用は『源氏物語 A・ウェイリー版 』(全4巻、毬矢まりえ・森山恵訳、左右社)に、原文は『源氏物語』(全9巻、柳井滋ほか校注、岩波文庫)に、英訳はThe Tale of Genji translated by Arthur Waley, Tuttle Publishingに拠ります。また、読みやすさを鑑み、引用の一部にルビの加除をしています。

◆TOP画像:『源氏物語絵巻』住吉具慶筆 東京国立博物館所蔵
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)を加工
※テキストへの掲載はございません。

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