壁だらけとなった今の世界にヘドウィグを問う~三上博史、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』20年ぶり挑戦の心境を語る
世界中に熱狂的なファンをもつ『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』。ベルリンの壁崩壊以前の東ベルリンに生まれ、自由な国へと出ていくために行なった性転換手術で手術ミスにより“アングリーインチ(怒りの1インチ)”を残され、愛する人に裏切られ、そんな主人公ヘドウィグが自身の半生と思いを熱く歌い上げるこのミュージカル。日本では2004年に三上博史が主演して好評を博し、翌年再演、その後も数々の役者たちが熱演を披露してきた。そして2025年、日本初演から20周年を記念して、三上博史がロックバンド“アングリーインチ”と共にライブ・バージョンでの上演に挑む。作品と役柄への思いを聞いた。
ーー久しぶりにこの作品に挑戦されますが、三上さんをそこまでひきつける作品及び楽曲の魅力についてお聞かせください。
僕は寺山(修司)から「お前は俺の演劇に出なくていいから」と言われ、向いていないと思ってずっと避けてきたんです。40歳で役者稼業を引退しようと思っていたのが、PARCO劇場で寺山修司没後20年記念の『青ひげ公の城』に出演して、こんな自由に泳げる場所があるんだと気持ち的に演劇に傾倒していって。そのころアメリカで『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を観る機会があって、音楽がすごく印象に残り、自分のバンドとこのちょっとグラムっぽい音楽をやったらすごくいいだろうなと思いました。そして日本公演の話が来た。自分でもすごく自由に泳ぐようにやれたし、客席側の熱がどんどん盛り上がっていっている手応えもあって。2年目もやりました。今回、20年経って、待ってくれている人をがっかりさせたくないけれども、当時履いていたような10センチのピンヒールでやるのは難しいですし。20周年のお祭りだから曲をご披露するだけでもいいんじゃないかなということで、今回は演奏だけなんですが、そう考えると、20年前、そもそも楽曲をやりたかったんだよなという。バンドのメンバーも一人を除いてみんな揃うことになって。同じことをやってもこの20年間のみんなの人生が出てくるので、深みが増してきっとおもしろいことになるだろうなと思います。
ーーライブ・バージョンということは、歌うだけで、ヘドウィグにはならない?
音楽活動では、どうしたらみんながげんなりするだろうとか、けっこうそういうサディスティックなところがあって。25歳で初めて全国ツアーをやったときも、映画『私をスキーに連れてって』の直後で、お客様は、観たい、会いたい、というノリで、僕の音楽なんてどうでもいいのが手に取るようにわかったんですね。それで、顔を白く塗って素顔を隠して、衣装はタイツにおちんちんのパッドをつけてみたいなことをして。最初うわーって上がっていた手がどんどん下がっていく中、何もしゃべらずに最後までやっていたら、途中で僕自身が病んできた。このままじゃ最後まで行けない、じゃあどういう贖罪をすればいいんだろうと。みんなの気持ちはわかるけど、それに応えられない自分にギルティを感じているんだと思った。それで、本編でしゃべるのはいやだったので、ステージが終わって、舞台の袖で、はあはあ言いながら、「本日の三上博史公演はこれで終了となります。足元にお気をつけてお帰りください」みたいなアナウンスを毎日、贖罪の気持ちでやることにして、それで少し気分も戻って最後までできたんです。
今回、初めて来る人ももちろんいるけれども、僕のヘドウィグをすごく求めている人もいて、何が観たいのか手に取るようにわかっちゃうんです。20周年で、三上博史がヘドウィグを歌うシンプルな形だけじゃ皆さん許さないだろうと。だから扮装はします。それも進化してます。初演のころは、ヘドウィグが世界的に認知されて、サイバーパンクやヘビーメタル、それぞれの国でそれぞれのヘドウィグがいた。僕は東京のヘドウィグをクリエイトしたかったし、世界的にも独自のヘドウィグだったと思うんです。演奏についても、本家は80年代のちょっとブリティッシュな、ペランペランなサウンドをあえて狙っていたんだと思うんですけれども、僕らは重厚な感じで、グラム・ロックなんだけどもっとコアな感じでやっていた。今回は一周回って、何か隣のちょっと毒があるキュートなお姉さんみたいな存在が発する音、突き放してるんだけどものすごく暖かいセーフティネットがある、そういう感じを音楽だけでも何か残したいなと。ヘドウィグは怒ったりわめいたり嫉妬したりするけれども、ラストに向かっては皆さんに届ける作品なんですね。脚本を読んでも、愛したトミーに拒絶されてからはほとんど芝居はない。そこは音楽だけで表現できる世界なんです。さきほど贖罪の話をしましたけれども、アーティストはみんな贖罪の気持ちってあると思う。今回のライブの最後には、そういう人たちも励ましたいなと。「Midnight Radio」に「♪パティ&ティナ&ヨーコ、アレサ&ノナ&ニコ」って歌詞がありますけど、みんなアーティストで、その人たちに対してこめられた思いがある。簡単なリスペクトなんていう言葉じゃなくて、何かちょっと、一丸となりましょうみたいな思いがあると思うから、そのあたり、今の世の中に何か届く部分があるかもしれない。
今回芝居がないということで、じゃあどうやろうかな、MCでヘドウィグは何を言うかなと思って。それで、20年経ってヘドウィグってどうなってるか、それをちょっとMCで言いたいからと、原作・オリジナル主演のジョン・キャメロン・ミッチェルにメールしたんです。そうしたら、中西部かどこかの田舎町で大学の客員教授か何かになって愛を教えてるんじゃないと返ってきて、すごくおもしろいから書いてって言ったら、時間ないからって(笑)、その話はなくなって。それで考えて。この作品は「Tear Me Down」という曲で始まるんです。「壊しなさい」。何を壊すのか。20数年前、ベルリンの壁があって、ヘドウィグは東ドイツで生まれて、西側に出るために性転換手術をした。その手術が失敗して、1インチのおちんちんが残っちゃう、それを抱えたままロック歌手になっていくという話で、男でも女でもないこの私を壊しなさいと始まる。今はどうなのかなと考えると、さらに壁だらけの世の中だなと。何だか、取り付く島もないくらいの分断。見渡す限り壁だらけで、意思の疎通もできない、そんな状況をヘド様は壊したいだろうなって。歌の中だけでも少しでも呼吸ができるような空間が今回、できればいいなと思うんです。
ーーヘドウィグとしての表現になるのでしょうか、三上博史としての表現になるのでしょうか。
まだ固まってないんですが、どうしたって僕の中には「Wig In A Box」とか「Sugar Daddy」の世界ってない。だからそこはヘド様で歌うしかないでしょうね。「Tear Me Down」は僕の中にもある。最後の方の曲に関しては、僕というか、役も全部取れちゃっているみたいなことだと思っていて。「The Origin Of Love」に関しては、プラトンの『饗宴』から来ているということをどうにか説明したいんですけど、ヘドウィグの扮装をした三上博史がプラトンがねって話しても難しいと思うし。でも、口当たりよく、私のカタワレ探しみたいになるのも本意ではない感じがしていて。
僕はこの話、初演のときからずっと言ってるんですが、気違い女の妄想だと解釈できると思っています。どこか中西部で生まれた女で、少しメンタルがやられていて、場末のライブハウスか何かに行ったときのギタリストか誰かがとても素敵で、私あの人とつきあってんのよ、私の曲からあの人四小節盗んだのよみたいな。そういう女っているじゃないですか。そんな見方をして演じていて。でも、だからこそ純粋なんです。病んでるから一点の疑いもない。僕が舞台のヘドウィグが好きなのは、全部妄想ですよとも言えちゃうところ。想像の余地があるところ。映画だと、子役もいて、お母さんも出てきて、ルーサーも出てきて、そういうのがリアルすぎちゃってあんまり好きじゃないんです。
ーー2004年に三上さんが日本初演を務められて、その後、作品はたびたび上演されてきましたが、作品が日本に根付いていったことについてどうお感じですか。
さっきいろいろな人のヘドウィグを観てみたかったって言いましたけど、実は一回も観てない(笑)。でも、こういう作品が日本でメインストリームになっていくのはすごくいいことだと思う。この作品がエンターテインメントとしてマジョリティになれるのって、おもしろい国だなと思いますよね。そのあたりは、さっき言った壁、線引きがあまりないというか。
ーー今この作品を求める人たちにどんなことを伝えたいですか。
言葉にして押しつけがましくなっちゃうのはすごくいやなんですけど、とにかく、大丈夫だから、みんなきれいに生きようよということかな。難しい言葉ですけど、僕がずっと思ってることで。何かもう残りの人生きれいに生きたいんですよ(笑)。これ以上汚れたくない、濁りたくなくて。勝ち負けでもない、何かそういうところに行きたい。理想論だけど、でも大丈夫だからというところを最終的に届けたいかな。それ以上傷だらけにならなくていいじゃんという。気づかないでけっこうにっちもさっちも行かなくなっちゃうパターンも多いから。
ーー三上さん自身、20年前よりも傷ついていたり?
そうかもしれない。昔はそんなこと思わなかったかもしれないです。もっとギラギラしてた。今はそんなこと全然ないです。もし同じ職業の人がいたら、全然反面教師でかまわない、ああいうダサいことは絶対したくないよっていうことになってもいいんです。そこでその人たちが違う道を見つけたりしてくれればいい。でも、本気でやってますよというのは見せないと。
今年1月に『三上博史 歌劇』をやったときに、寺山修司の膨大な世界をどうやってやるのかすごく悩んで、揺れていて。そういうのは稽古場で昇華されるべき問題なんだけれども、公演が始まってからもずっと揺れ動いてて、新聞はこう言ってたとか気になったりして。そういうときに観に来てくれた知り合いが、「私、舞台観ながら、この人信用できるなって思った」って感想をくれて、そのとき、ああ、やっててよかったなと思ったんです。……ごめんなさい、泣けてきた(涙)。自分はちゃんとやってるんだ、それがちゃんと伝わったんだと思って、ちょっと楽になった。でもそれって体力と気力がいるんで、今回、ちゃんと最後まで務められるか不安ではあります。
ヘアメイク:赤間賢次郎(KiKi inc.)
スタイリング:勝見宜人(Koa Hole inc.)
衣裳クレジット:
・ジャケット ¥88,000
・シャツ ¥44,000
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取材・文=藤本真由(舞台評論家) 撮影=岡崎雄昌