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アニメ『全修。』で注目のクリエイター・辻野芳輝に会う【アイテイマス 第2回】

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『昭和50年男』が休刊して、時間が空いて(アイテ)しまった同誌編集長・金丸が、気になる相手(アイテ)に会うという連載企画、それが「アイテイマス」。第2回のお相手は、冬アニメ『全修。』で設定、キャラクター原案を担当した辻野芳輝。『天外魔境』シリーズなどテレビゲームの仕事でも知られる辻野の足跡について聞いた。

「絵なんかでメシが食えるか!」と叱責を受けたアニメ大好き少年

辻野芳輝/つじのよしてる テレコム・アニメーションフィルムでアニメーターとして活躍した後、レッドカンパニーに移籍。『天外魔境』シリーズでは、辻野寅次郎の名義でキャラクターデザインを担当した

——クリエイター・辻野芳輝の名前から連想する作品はなんだろう? 1990年代にテレビゲームに熱中した世代なら『天外魔境』シリーズが真っ先に挙がってくるに違いない。アニメーション好きなら2025年1月〜3月に放送されたテレビアニメ『全修。』が順当なところで、映画『ルパン三世 風魔一族の陰謀』という人は相当なアニメ通である。筆者にとっては“『天外魔境』の絵師”であり、『昭和50年男』2025年1月号ではズバリ『天外魔境』の制作エピソードについてインタビューをしている。その取材で辻野のアニメーターライフの一端を知ったことをきっかけに、今回のお相手をお願い申し上げた。まずは絵描きになるまでについて話を聞いてみることにしよう。

小さい頃から絵が好きでよく描いていたんですけど、小学校3年生とか4年生ぐらいになってくると、自分たちの世代って親から「絵を描いてる人はダメな人」的に見られたんですよ。うちは燃料品店だったので、長男だから家業を継げと結構言われて。「絵なんかでメシが食えるか!」とか怒られていました。

小学校の頃は…マンガを多く描いていました。でも、うちはマンガの本をそんなに買ってもらえなくて、近所に本屋もなかったんだよねえ。だからマンガが読めるのは理髪店ぐらい。あとは、テレビで放送されているアニメの絵を一生懸命描いてましたね。

——辻野が小学生だった1970年代はテレビアニメの黎明期。毎日のように新作が放送されていた。

いちばん幼い頃に観ていた記憶は『鉄腕アトム』。『リボンの騎士』とか虫プロのアニメが多かった。SFものが人気で『エイトマン』、『スーパージェッター』など子供向けに爆発的に増えていった時代でした。初めてカラーで観たのは『黄金バット』かな? ジャンルを問わずに観ていましたね。

——少年時代からマンガやアニメを真似て描くことに勤しんでいたことが、アニメーターに直結している、というほど単純なことではなかった。実は、絵を描くことに素直に向き合うことができなかったと言う。

親に「そんなんで飯食えるか」とか言われたことに、売り言葉に買い言葉じゃないけど「わかってるわ!」とか言い返してけんかしていたので、あまり絵の方面には行かなかった。学校の授業の図画工作や美術では、みんなより早く描けるんですよ。でも、美術部にも入っていないからちゃんとした絵の勉強はしてないんで。

親と中学の担任先生は「すんなり大学に行って家の跡を継いでほしい」と考えて、私立大学の附属高校に入れられました。その高校がとんでもないところで、人権無視な校則で生徒を縛る。生徒もとんでもないのがいっぱいいてねぇ。ヤクザとつるんでいるようなヤツとか…、そいつの手下にならないとひどい目に遭うとか地獄のよう。精神的におかしくなると思っているところにマンガやアニメを好きな人がクラスにいて、『宇宙戦艦ヤマト』とかの同人誌を見せてくれてました。高校生でこんなことしてる人がいることを知り「好きなように生きてやる!」と思って、親の言うことも聞かず、アニメやマンガにどっぷりになっていきました。

その友達と2次創作的な『宇宙戦艦ヤマト』のサブストーリー的なものをリレーマンガで描いたりアニメーションを8mmで作ったりして。次第に映画に強く興味がわいて、実写や特撮をやりたくて、大阪芸術大学の映像系学部に進学しました。

アニメーターの腕を自己流で磨いてテレコムへ

——ついに自分の好きなものへと突き進み始めた辻野は大阪芸術大学へ進学。そこは庵野秀明(アニメーター、アニメ監督)や島本和彦(マンガ家)など、映像表現を学びたいと志のある若者が集まっていた。

僕は庵野さんや島本さんたちの1つ上の代ですね。庵野さんを構内でたまに見かけましたが、下の学年の間では結構目立っていました。すごく自由な学校で変な人がいっぱいいたんで、楽しくてしょうがなかったですね。

学校にはアニメを専門に教えられる人がいなくて、イラストレーターの方が少しCMアニメに関わっていた程度。当時、アニメを学ぶことができるのは東京の専門学校ぐらいしかなかったんじゃないでしょうか。実験アニメ的なものを見せてもらったり、四コママンガやパラパラマンガを描いたり…アニメに関してはそういうことはやりましたね。

——実写映画の制作に興味をもって進学した辻野が、就職先に選んだのはテレコム・アニメーションフィルム(以下、テレコム)だった。その進路を引き寄せたのは、やはり画力であった。

実写映像を作りながら、個人的にアニメーションも作って学校に提出していたので、同じ学年の友人は僕が絵を描けることを知ってました。実写に行きたかったけど募集がないところに、友人が『アニメージュ』にテレコムの求人広告が載っていることを教えてくれました。

——辻野が求人広告を見た1982年のテレコムの代表作に『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)と『じゃりン子チエ』(1981年)が挙げられる。実写映画は角川映画が席巻していた時代である。

日本の映画界自体、いまいち納得できないような映画ばっかりで、「まともに作っているのはテレコムぐらいじゃん」と生意気に思っていたんです。あと、「作家性を生かせるなら日活ロマンポルノしかない」みたいな。あそこは裸さえ出せば好き勝手に撮れる印象がありました。

——この時期、テレコムはアメリカのマンガ原作『リトル・ニモ』(※1)の映画化に向けて動いていた。そもそもテレコムは東京ムービー新社の社長である藤岡 豊がアメリカ進出と海外合作を目論み、『リトル・ニモ』を制作するために設立された会社であった。『リトル・ニモ』は、プロデューサーがゲイリー・カーツ(『スター・ウォーズ』シリーズのプロデューサー)、脚本はレイ・ブラッドベリ(SF作家)が務め、そこに高畑 勲や宮崎 駿、大塚康生、近藤喜文らが参加していた。『アニメージュ』に掲載された求人広告は『リトル・ニモ』の制作スタッフを募集するものだった。

日本のアニメ業界にはあまり興味はなかったのですが、テレコムがやるものに関してはすごく魅力を感じてたんで。ただ、商業アニメの知識がないことが不安だったのですが、友達に「養成期間が3ヶ月あって、そこで教えてもらえばなんとかなんじゃねえ?」とか「受かったらああいう絵も描けようになるよ」みたいに言われて、入社試験を受けたらなんとか合格しました。『リトル・ニモ』をやるに当たって、アニメ経験者ではない人を採りたいという意向があったらしくて。その時に採用された人数は8人だったかな。

——テレコムに入社して、辻野はようやく初めて本格的にアニメーションの作り方について教わるのである。

講師のアニメーターは年代によって違ってね。僕たち5期生は、本来は大塚さんが教えてくれるはずだったのに、『ニモ』のこととかいろいろあってほとんど海外に行っちゃっていて。それで篠原征子さんという大ベテランのアニメーターに、アニメのノウハウとや動画の基礎のようなものを教わりました。篠原さんは、『未来少年コナン』の制作時は大塚さんが描いたラナの顔を描き直し、『カリオストロの城』のクラリスを描いていた方。

聞くところによると、2期生は宮崎 駿さんにすごくいろんなことを教えてもらってるの! 当時の宮崎さんは世間的にはまだそうでもないけれど、『世界名作劇場』とかもやっていてアニメマニアの間では有名な存在。宮崎さんと高畑さんと僕たちとはすれ違いなんです。教材的なものを渡されて、そのおおもとは宮崎さんが描いたやつなのかな? それの中割りをやったりして。篠原さんはなかなか厳しい方で、「もう田舎へ帰れば」など言われましたね(笑)。

——テレコムに入社するまで画力を評価されていた辻野だったが、プロのアニメーターの技術となると勝手が違った。だからこそ、テレコムでは大きな収穫があった。

(篠原さんに)動画をやる分には厳しくやられたんで、線をきっちりやっていたのですけど、それが今のアニメとは全然違う方向性なんです。今は均一な一本の線でさっと描くのだけど、僕たちの時代にそれは“死んだ線”と言われ、描いちゃダメと言われていました。線を引く時の始まりと終わりの強弱や、ものによって硬いものは硬く柔らかいものは柔らかくというニュアンスとかを意識するように…と、微妙なところですよね。そういう諸先輩方に言われたことは、ずっと、心にあります。

あと、入社面接の時にね、大塚さんに言われたのね。「もし落ちたとしても、ここに来てる人はみんな同じ能力があるから、アニメをやりたかったら連絡をくれれば、他のスタジオを紹介します。アニメをやらなくても絵はずっと描き続けていてください」。この言葉は心の支えになっています。

——アニメ作りのノウハウを習得する研修期間が終わると、いよいよ制作現場に足を踏み入れる。

その頃、東京ムービー新社が海外合作の方が儲かるというので、テレコムも合作をやっていまして。最初に関わったのは『リトルズ』(※2)という妖精が出てくるアニメなんです。日本では放送されていないと思いますよ。制作のパターンはいろいろで、1本丸々テレコムというのもあるし、演出とコンテは海外で作画だけとか、東京ムービー新社から「(作業が)間に合わないから」と動画だけ回ってきたり…。テレコムはパイロットフィルムとかスペシャル回とかをやらされて、なかなかしんどい思いをしました。

セリフは英語。海外は日本のアニメと違い先にセリフが録られるプレスコで、そのテープをもらって作画をしていました。口の形とかにすごく種類があって、その口の形を入れ込んで作らなきゃいけない。基本2コマ打ち(※3)でしたね。

※1…マンガ家のウィンザー・マッケイが新聞『ニューヨーク・ヘラルド』日曜版に1905年から連載した。少年・ニモが夢の中の空想の世界で冒険をし、ベッドから落ちて夢から覚めるを繰り返す短編。
※2…アメリカ、フランス、日本の合作。アメリカでは1983〜85年にテレビ放送された。
※3…1秒間24フレームのうち12枚以上の絵を用いる表現。

——念願の作画デビューを果たしたものの、辻野芳輝の名前が世に出るのはまだ少し待たないといけない。というのも、合作では日本人の名前がクレジット表示されるのは監督や作画監督、プロデューサーといった一部に限られていたからだ。それは国内のテレビアニメでも同様で、たとえば80年代は原画が2名しかクレジットがなかったりするのも珍しくない。

そうそう。実際に2人でやっている場合もあるんですけど、動画は結構な人数でやっていても4、5人しか名前が出ないとかね。僕が初めて名前が出たのが『お願いサミアどん』(85年/NHK)で、同じような時期に『名探偵ホームズ』(84年/テレビ朝日系)もやっていたから「名前を出してよ」と言ったら、「(スタジオの)座っている順番だからダメ」と言われて(笑)。

——こうして辻野はアニメーターのキャリアを着実に積み上げていくが、そもそもの採用の目的であった『リトル・ニモ』の制作はどうなったのだろう。

初期段階ではね、高畑さんが監督で、宮崎さんも監督候補だったんだけどちょっと内容的に合わないとかいろいろありまして。その頃、宮崎さんも『リトル・ニモ』のイメージボードをいっぱい描いていて、その時のイメージの一部が『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』とかの宮崎作品に生かされているんですけど。

会社ではたまに『リトル・ニモ』のイメージボードを描いたり、パイロットフィルムを作ったりしていました。パイロットフィルムは3種類あるんだけど、最初のものは月岡貞夫さんが演出をして僕たちが入る前の1期生の人たちが作りました。僕が参加したのは2本目(演出は近藤喜文)と3本目(演出は出崎 統)。1、2作目の尺は3分程度で、出崎さんの方はもっと長かったと思う(実際は20分超)。

——パイロットフィルムとは、映画や番組を制作する前にテストとして作られる映像のことだ。また、作品をスポンサーに売り込むことにも使われる。

東京ムービー新社は来社された方に『ニモ』のパイロットフィルムを観せて、「うちはこんな技術ありますよ」と会社の宣伝とかにも使っていたそうです。定かではないですが、大友克洋さんが(劇場版アニメ)『AKIRA』を作るのを東京ムービー新社に決めたのは、それを観たからという噂がありますから。

ゲイリー・カーツが下りて頓挫して、しばらく何もない状態がずっと続いて…。結局、劇場版(※4)が作られて上映されたのは、僕がテレコムを辞めてからですね。

※4…1989年7月に『NEMO/ニモ』が公開された。監督は波多正美とウィリアム・T・ハーツ。1991年に全米で公開されている。

『NEMO/ニモ』のアメリカ版ブルーレイディスク(筆者私物)

自分のやりたいことができる!ゲーム業界への挑戦

——その後の辻野は『ルパン三世 風魔一族の陰謀』に原画で参加をしているものの、相変わらず合作の制作が中心だった。『リトル・ニモ』が暗礁に乗り上げ、テレコムでの作品に光を見いだせずにいた。

ずっと合作ばっかりやってて、自分たちが作りたいようなアニメは全然できないのが辛かったので、仲間と一緒に企画書を書いて東京ムービー新社の友人に渡したんですよね。社内で実現はしなかったけれど、彼が企画書を持ち回りしてくれて、それがハドソンとかレッドカンパニーの目に止まったんです。86年頃だったと思います。

——拾う神が現れた! ハドソンは80年代にファミリーコンピュータソフト『ロードランナー』や『忍者ハットリくん』『スターソルジャー』などの大人気ゲームを次々と生み出したゲームメーカー。そしてレッドカンパニーは、広井王子(※5)が設立した企画・プロデュースを生業とし、菓子や玩具のデザイン企画を手がけていた。広井はロッテの「ジョイントロボ」やトミー(現・タカラトミー)の「ゾイド」のストーリー作りにも関わっている。両社が辻野に興味を示した1986年頃は、ファミコンに他業種のクリエイターの参加が目立ち始めた時期に当たる。

企画の内容は、鬼が出てきたりする幻想的ファンタジーなアクション時代劇。その絵を広井さんたちが見て「これを主人公にしよう」みたいになって、自来也(『天外魔境ZIRIA』の主人公)の原型になりました。そして広井さんから「ハドソンと一緒にゲームの企画をやりませんか?」って話になるんですよ。

——ハドソンは日本電気ホームエレクトロニクス(NEC-HE)と共同で、PCエンジンの開発に取り組んでいた。その性能はファミコンを遥かに凌ぐものだった。

「アニメ映画が丸々一本入る」というのが広井さんのセールストークでした。それを生かすためのゲームをレッドカンパニーに考えてほしいと(ハドソンが)話を持ちかけたみたい。また、ハドソンはテレビアニメ『Bugってハニー』(86年/日本テレビ系)を制作していた東京ムービー新社と仲がよかったこともあって、この三社でアニメを入れたゲームをやりましょうと。そこで僕はテレコムから東京ムービー新社に出向して、そこからレッドカンパニーに移ってゲームの企画に参加しました。

——この企画こそ、89年にPCエンジンCD-ROM2用ソフト『天外魔境ZIRIA』(以下、天外魔境)である。当時の最新メディアであるCD-ROMを利用し、ボイス入りのアニメーションとCD音源の音楽といった新次元の演出を実現した。「アニメ映画が丸々一本入る」とは流石にいかないものの、これまでの家庭用ゲーム機にはない、未知の領域への挑戦だった。

ゲーム開発のための仕事の流れといったシステムが何もできていませんでした。初めはキャラクターデザインとして入ったのに、東京ムービー新社に『天外魔境』を作るためのチームがなかったので、アニメパートは全般的に担当することに。やっていくうちに「背景とかも必要だよね」となり、僕がレイアウトを描いてアニメの美術に渡して描いてもらう。色をつけて描いてもらったのをスキャナーで取り込んで、それを元にドット絵に起こす。他の人も巻き込んでやりたかったんだけどね…少人数で少しずつやるしかないような状況だったからすごく時間もかかって。

——『天外魔境』は高い評価を受けてシリーズ化し、『天外魔境II 卍MARU』(92年)、『天外魔境ZERO』(95年)、『天外魔境 第四の黙示録』(97年)などが作られていく。さらに広井が原作を務めた『サクラ大戦3〜巴里は燃えているか〜』(2001年)など、ゲームの仕事が増えていった。

3作で終わるつもりだったのですけど「いろんなハード向けに『天外魔境』を出したい」という話がハドソンの方から出てきて。スーパーファミコン、サターンだのそういうのが一気に来てちょっと大変な時期がありましたね。

レッドカンパニーはそもそもゲームの会社じゃなく、テレビや映画、おもちゃなどの企画をやる会社。そういうのをやりたくて入ったのに、ゲームばかり、『天外魔境』ばかりで、ちょっと思ってたのと違うぞ、みたいな。実写映画の企画にも関わりもしたんですが、実現しませんでした。そうはいっても仕事的にできたことはたくさんあって。特に、世界を作れるというのがおもしろかった。

※5…マンガ、アニメ、テレビゲームの原作や舞台演出などを手がけるマルチクリエイター。代表作は、アニメ『魔神英雄伝ワタル』、ゲーム『天外魔境』シリーズ、『サクラ大戦』シリーズなど。

『昭和50年男』vol.32「本格アニメーションが照らしたテレビゲームの世界『天外魔境』シリーズ」より。レトロゲーム愛好家のMCUと『天外魔境』シリーズについて対談した

アニメの世界で躍動! 『全修。』に生かされた蓄積

辻野は2000年代にはゲームの仕事の傍ら、アニメ制作にも参加している。テレコム時代のように原画をバリバリと描くというよりも、小規模作品のデザインやストーリーボード、企画書の絵などを手がけている。

——2021年の冬、辻野はアニメスタジオMAPPAで勤務するかつてのレッドカンパニーの同僚に『全修。』という企画への参加を呼びかけられた。『全修。』はアニメ制作現場で「すべて修正する、オールリセット」を意味する用語。アニメ監督・アニメーターである主人公・広瀬ナツ子は新作の制作中に意識を失い、目が覚めると子供の頃に夢中になったアニメ映画『滅びゆく物語』の世界にいた、という“異世界転生”もので、辻野はキャラクター原案・世界観設定を担当した。『全修。』は2025年1月に放送されるや、たちまちアニメファンの注目を集めた。

©全修。/MAPPA  『全修。』のキービジュアル。2025年1月〜3月放送。全12話 【公式サイト】https://zenshu-anime.com/

当初はイメージボードを描くだけ、と軽い気持ちで受けたんだけど、イメージボードのために仮に描いたキャラクターが「こういう感じでいきましょう」みたいに採用されて、だんだん仕事の量が増えていくという。世界観設定とは、キャラクターたちがどういうところにいるか、たとえば町を作るとか建物や乗り物をデザインする…“世界”を構成する要素を考えることです。

アニメーターが異世界に行く、軽いラブコメアニメかなって、自分だけでなく多分みんなが最初は考えていたと思うんだけど。プロデューサーの思いがだんだん強くなって、深い話になっていきました。

——プロデューサーをはじめとする制作陣の“思い”は、本作での演出面にあふれている。ナツ子は“描いた画が具現化する”能力を駆使して、敵・ヴォイドと闘う。その能力が発動する描写に、過去の名作アニメをオマージュした演出や表現が大胆に取り入れられていた。

企画の初期の頃から「ナツ子が描く画に今までのアニメーターがやってきた作画方法や演出を出していこう」みたいな。今は撮影技術でいろんなことをやれているけれど、かつてはアニメーターが一生懸命手描きでやっていた作画のおもしろさや、日本のアニメのエポックメイキング的な作画を見せたいということで、ああいう形になりました。

——第1話「始線。」では、『風の谷のナウシカ』の巨神兵を思わせる巨人を出現させ、目から放出したビームでヴォイドを全滅させる。

あのシーンは僕がイメージボードを描きました。ただ、「あまりにも似すぎていた」ので、石川佳代子さん(キャラクターデザイン・総作画監督)のデザインが使われています。第2話「死守。」では板野一郎さん(※6)が監修で参加してくださってうれしかったです。第3話「運命。」は自分としては『タイガーマスク』の木村圭一郎さん(※7)風のアクションをイメージしていたんですけど少し違いましたね。メメルンのミュージカル(第4話「永遠。」)であそこまで寄せるとは思わなかった。(各話)なるべくその辺の得意なアニメーターを招いてやってもらっていたみたいです。作中に登場するいろんなアニメタイトルのポスターも描いたんですけど、あのミュージカル風のポスターには「わかってないな」と言われて却下されました(笑)。キラキラしたアイドルアニメはわかんないです。金田伊功さん(※8)のアクションや光線とかも出したかったですね。

——アニメーターが主人公だけに、辻野は自身を重ねて見るようなところがあったという。特に印象的な場面はどこだろう。

第7話「初恋。」でナツ子が通い詰めた大学は自分がいた学校をモデルにしています。蒼井先輩の気持ちも「まあね、わかるよなぁ」みたいな(笑)。あとは第11話「絶望。」でヴォイドに飲み込まれたナツ子の回想は、ものを作る人間にとっては刺さる話でした。

——2025年7月16日よりDisney+(ディズニープラス)で独占配信(予定)の『BULLET/BULLET』に辻野が参加している。クレジットは“「ガッチャ」デザイン”とある。

ガッチャってなんのことかわからないですよね(笑)。PV映像でチラッとは出てるんだけど、久しぶりに作画をしています。昔のテレコムでやってた合作っぽい作風。あの頃はこういう作品ばかりやっていたので。

——テレコム時代と言うだけに、「ガッチャ」は大塚康生の流れにあるように思える。

大塚さんがいつも言ってたんだけど、「好きなのはラフな画とかだらけたポーズ。きっちりしたポーズは嫌いです」って。今の絵ってみんなきっちりしているんじゃないですか。トレンドもありますが、みんなそういう絵しか描けなくなったというのもあるんじゃないですか。そういう絵が好きだから、アニメーターになるとかさ。僕も1枚絵ならなんとか描けるけど、それをちゃんと動かすとなると大変だなぁと思いますね。とにかくごきげんなアクションアニメ『BULLET/BULLET』をお楽しみに!

インタビューの時点では明かすことができないが、辻野は他にも新作アニメ作品に原画で参加中だ。「年も年だからね。(アニメーターの仕事は)いつまで続けられるかわからないけど」と笑うが、オリジナルマンガ作品『Doragonia Story 〜風をあつめて〜』などマイペースで創作に取り組む。アニメーターの門を叩いた時に大塚康生に言われたように、辻野は絵を描き続けている。

※6…アニメーター、アニメ演出家。立体的でアクロバティックな戦闘の演出は“板野サーカス”と呼ばれる。代表作は『伝説巨神イデオン』『超時空要塞マクロス』など。
※7…アニメーター、キャラクターデザイナー。『タイガーマスク』での大胆なアクションと力強い描線で知られる。代表作は『サイボーグ009』『ピュンピュン丸』『赤胴鈴之助』など。
※8…アニメーター。ダイナミックなアクション、迫力ある爆発シーン、独特の構図スタイルなどでアニメシーンに大きな影響を与えた。代表作は『無敵超人ザンボット3』、『銀河鉄道999』(劇場版)、『風の谷のナウシカ』など。

★辻野のオリジナルマンガ『Doragonia Story 〜風をあつめて〜』より

©E&H/GAGA

『BULLET/BULLET(バレット/バレット)』

ディズニープラス「スター」で2025年7月16日より 独占配信開始
●監督・原案:朴性厚 ●原作:E&H production・ギャガ
●シリーズ構成:金田一士 ●キャラクターデザイン・総作画監督:吉松孝博
●「ガッチャ」デザイン:辻野芳輝 ●コンセプト・メカニックデザイン:天神英貴
●キーアニメーター:佐野誉幸、赤井方尚、諸貫哲朗 ●美術監督:赤井文尚 ●色彩設計:鎌田千賀子 ●3D総括:菅友彦 ●カーアクションディレクター:三沢伸
●撮影監督:李周美 ●編集:柳圭介,ACE ●音響監督:藤田亜紀子 ●音響効果:中野勝博 ●音響制作:INSPIONエッジ ●音楽:堤博明 ●音楽プロデューサー:小林健樹
●製作:ギャガ ●アニメーション制作:E&H production ●公式サイト https://bullet-bullet.com/
©E&H/GAGA

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