Yahoo! JAPAN

【平松愛理 35周年記念インタビュー】① デビューから「部屋とYシャツと私」のヒットまで

Re:minder

2024年12月25日 平松愛理のベストアルバム「平松愛理 35th Self Selection Notes」発売日

独身OLの代弁者として人気を博してきた平松愛理


平松愛理は1989年2月21日にシングル「青春のアルバム」、アルバム『TREASURE』でデビュー。1990年のアルバム『MY DEAR』に収録されていた「部屋とYシャツと私」がロングセラーになりミリオンセラーを記録。1990年代はアルバム『Erhythm』『Single is Best』が首位を獲得するなど、独身OLの代弁者として人気を博してきたシンガーソングライターだ。

デビュー35周年と還暦を迎えた記念すべき2024年。かつての “平松愛理” と今の平松愛理とが対峙する中で生まれたベストアルバムが『平松愛理 35th Self Selection Notes』だ。2021年に3か月連続でリリースされた新曲3曲を含む、渾身のベストアルバムの話を中心に平松愛理本人にロングインタビューをさせていただいた。この前編ではデビューから「部屋とYシャツと私」のヒットまで、その心情も含めお届けします。

35周年のタイミングで自分自身の楽曲に改めて向き合った「平松愛理 35th Self Selection Notes」


ーー 集大成であるアルバム『平松愛理 35th Self Selection Notes』が12月25日にリリースになります。改めてデビュー35周年おめでとうございます。

平松愛理(以下:平松):ありがとうございます。今回のリリースにあたり、選曲、曲順、曲間含めて、すべて私がやらせていただきました。自分の曲をここまで深く聴く機会というのがこれまでほとんどなかったので、35周年のタイミングで自分自身の楽曲に改めて向き合うことができてとてもよかったです。

ーー 平松さんは普段ご自身の曲をあまり聴かないタイプですか?

平松:ライブのために選曲するときは聞いたりするのですが、それも選曲のためにサッと聞く程度ですね。今回は、ベースの周りの音がぼやぼやしているからすっきりさせたいなとか、自分の声や90年代のサウンドやアレンジを再発見しながら、新たな出会いをしたような感覚になりました。

いつもの周年とは全く違う35周年


ーー 改めて、デビュー35周年を平松さん自身はどのような気持ちで迎えられたのでしょう。

平松:今年の夏くらいまでは、かつての “平松愛理” という存在にどこまで近づけるだろう?みたいなことを考えていました。過去に残してきた作品を振り返りながら、今の自分と照らし合わせていました。

ーー 35周年を迎えるにあたり、平松さんの中で何か大きな変化があったということでしょうか。

平松:デビュー30周年と35周年の間にコロナ禍があったことは大きかったと思います。私は3歳の頃からずっと音楽のある生活を続けてきて、そのままの感覚で当たり前のように30周年を迎え、その後でコロナ禍になったんです。コロナ期間中も必死に音楽を作り続けてきたんですが、心折れることもありながら迎えた35周年だったので、その振り返り方はいつもの周年とは全く違うものでした。

ーー コロナ禍では、平松さんはこれまでになかった発信を積極的にされていましたよね。まだ前が見えない時期に励まされたファンの方も多かったと思います。

平松:こういう時だからこそ、発信のステーションを自分で作ればいいんだと思い、YouTubeの連続配信や、3か月連続デジタルリリースもやりました。

ーー やはり平松さんの性格上じっとしていられないんでしょうね。

平松:振り返れば、結局走り続けていましたね(笑)

6歳の時にプロになろうと決めてから、音楽一辺倒で過ごしてきた


ーー デビュー当時の話を聞かせていただきたいのですが、デビュー日である1989年2月21日のことは覚えてますか。

平松:デビュー日は大阪でプロモーションをしていたんですが、デビューするとは聞かされていても、実は半信半疑だったんです(笑)。なので、プロモーションの空き時間にCDショップに行ってみたら、“は行” に私のデビューアルバム『TREASURE』があって、ようやくデビューを実感しました。みなさんきっとそうしていると思いますが、自分のアルバムを一番手前の目立つところに置いてきたりして(笑)

ーー 平松さんはソロデビュー以前の1987年に村田和人さん率いるバンド “Honey & B-Boys” のメンバーとしてすでにレコードデビューしていましたよね。

平松:Honey & B-Boysのアルバムがリリースされた時期、すでにソロデビューが決まっていたんです。それに合わせて神戸から上京して、レコーディングも始まっていたんですが、実は自作曲を採用してもらえなかったんです。レコーディング中に “16歳の時にプロになろうと決めてから、音楽一辺倒で過ごしてきた日々は何だったんだろう” とふと感じて、思い切って事務所を辞めました。私はどうしても自分の曲で勝負したかったんです。

ーー それは思い切った選択でしたね、でもどこか平松さんっぽい選択だったような気もします。

平松:そこからしばらく極貧生活が始まり(笑)バイトをしながら曲を書く日々でした。そんな時に関係者から、キャニオンに新しい制作室ができるから行ってみればと声をかけていただき、曲を持っていくようになりました。

ーー ついに平松さんの才能が見いだされる時が来たんですね。

平松:それがすぐには見出してもらえなくて(笑)、毎週一生懸命2曲作って持っていきました。YAMAHAの打ち込みができる機材を買って、デモテープを作れるようになってはいたんですが、それを毎週2曲持っていくのは結構きつかったです。

「月とランプ」の“私に” の部分のコードが “Dm7” になった理由


ーー 紆余曲折ありつつも1989年にメジャーデビューを果たした平松さんですが、僕が平松さんを認識したのは1990年のシングル「月とランプ」でした。すごい才能を持ったシンガーソングライターが出てきたと思いました。「月とランプ」は平松さんのつけたコードが、スタッフ間で意見が分かれたそうですね。

平松:「♪黄色い月が私に〜」の、“に〜” の部分のコードが “Dm7” なんですが、このコードをもう少しわかりやすくしたらどうかという意見もありまして。その時のディレクターが財布から1万円札を出して「お願いだからこのままのコードで行ってくれ」と(笑)。それくらいこの部分にはこだわってくれたようです。だからこの “Dm7” はディレクターが財布から出した1万円の熱意で決まったのかもしれません。

ーー あのコードこそが平松さんの個性ですし、聴いていて気持ちのいいポイントだと思います。「月のランプ」は『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』、「素敵なルネッサンス」は『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』のエンディングでしたが、このタイアップは大きかったですよね。

平松:ウッチャンナンチャンの番組で生歌唱したことがあるんですが、キーボードを弾きながら歌っているときに “ナンバラバンバンダンサー” が周りで踊っていて、マイクが揺れるのでマイクが歯に当たりながら必死に歌ったのは忘れられません(笑)

―ー 80年代の『オレたちひょうきん族』を思わせるシュールさですよね。

平松:私自身、『オレたちひょうきん族』のエンディングで流れていたEPOさんの「土曜の夜はパラダイス」が好きだったので、同じように感じていただけていたらとても嬉しいです。

ブレイクのきっかけは「部屋とYシャツと私」


ーー 平松さんと同世代のアーティストのほとんどは、ドラマのタイアップから一気にブレイクするパターンが多かったように思うのですが、平松さんは「部屋とYシャツと私」がブレイクのきっかけでした。この曲はもともと1990年のアルバム『MY DEAR』に収録された1曲でしたね。

平松:私的には、アルバムだからこそこういうタイプの曲があってもいいのかなという感じで収録しました。シングルとして書いた曲ではなかったですし、発売から2年近く経ってシングルカットされた曲だったので、本人的にはそこまで売れている実感はなかったんですよ(笑)

―ー 今回ベストに収録される「部屋とYシャツと私」はアルバムバージョンのほうが収録されていますね。

平松:私にとっての原点はアルバムのバージョンなので、こちらを収録したのも今回のこだわりポイントです。

―ー 当時「部屋とYシャツと私」のブレイクで平松さんを取り巻く環境が大きく変わったと思いますが、ご自身としてはどのような感覚でしたか。

平松:「部屋とYシャツと私」がじわじわと話題になっていた時期に、4枚目のアルバム『redeem』(1991年11月27日)がリリースになったんですが、このアルバムが思うような結果が出なかったんです。街頭の大きな看板なんかもたくさん出していただいたのに、なんだか申し訳なくて…。当時は制作期間とプロモーション期間が被っていたので、寝ないままキャンペーンに行ったりして生活の切り替えが大変でした。

―ー アルバム『redeem』は思うような売り上げにならなくても、1992年のアルバム『Erhythm』、そして1993年のベストアルバム『Single is Best』は見事オリコン1位を獲得しました。この時期の平松愛理さんと言えば、アレンジャーでありプロデューサーの清水信之さんの存在は欠かせないと思いますが、平松さんにとってアレンジャーの清水さんはどのような存在でしょうか。

平松:今回選曲をしているときに「部屋とYシャツと私」は清水さんのアレンジでなければ、私の代表曲になっていなかったと改めて感じました。この曲は5分以上あるんですが、詞の内容によってアレンジがどんどん展開していく部分や、その時代の流行りを問わないアレンジもラッキーだったと思います。清水さんのアレンジは、私の曲に一番似合う洋服を着せてくれて、しかもその洋服がカラフルでポップという印象でした。

ーー 当時、制作過程で清水さんとアレンジについて意見を交わすような場面はあったのでしょうか。

平松:「月のランプ」の時に、ティンパニを入れたらどうかと私がアイデアを出したんですが、その時に清水さんから “それはとてもいいアイデアだ。でも、俺のアレンジに対して何か言ってくる人は初めてだ” と言われました(笑)。今回のベストには収録されていませんが「母と子のChristmas Eve」という曲はアレンジを2回やり直していただきましたし、アレンジに関するディスカッションはしていたと思います。

惜しくも紅白を逃した理由とは?


―ー 「部屋とYシャツと私」のヒットで『NHK紅白歌合戦』への内定が決まっていたとお聞きしましたが。

平松:キャニオンのスタッフから内定を聞かされていたんですが、どうやら歌詞の中の “毒入りスープ” のフレーズが引っかかったらしいです。よく “紅白に出てたよね” と言われることがあるんですが、レコード大賞の作詩賞をいただいた時の映像と混在しているのかもしれません。

―ー 紅白出場は惜しくも逃してしまいましたが、今回ベストに収録される「戻れない道」もTOP10入りする大ヒットになりました。「君にしとけば良かったなんて」は個人的に好きな1曲なので、収録されてとても嬉しいです。

平松:ある時、エスカレーターですれ違った男女の会話が耳に入ってきたんですが、男性のほうが女性に “君にしとけばよかった” と言っていたんです。最初はこの人はなんてこと言うんだと思ったんですが、やけに淡々と聞こえたんですね。実際に二人の関係性や、どういう流れでその会話になったかわからなかったですが、この言葉をテーマにしたらいい感じのラブソングになるかなと思い作った曲です。

インタビュー後半では、今回のベストアルバムに収録された曲についてを中心にお届けします。

PHOTO:折田琢矢

Information
平松愛理35周年企画「部屋とYシャツと私」リアレンジ企画
URL:https://indagroove.com/

【関連記事】

おすすめの記事