ワンポゼッションが“人生”を変える #8植松義也
琉球ゴールデンキングスとプロ契約を結んでから、3年目に入った。キングスに入る前はB2にいたが、出場機会すらほとんどなかった。そんな僕が2022年夏に練習生として加わり、今もB1の強豪クラブでプロキャリアを積めていることは本当にありがたいことだ ただ、僕はまだ一人のプロ選手として自分のポジションを確立できたわけではない。昨シーズンもビッグマンの欠場などチームの非常時に単発で長いプレータイムをもらえることはあっても、継続してローテーション入りすることはできなかった。 今シーズンのチームについて、桶さん(桶谷大ヘッドコーチ)は自分たちがチャレンジャーという意味で「アンダードッグ」(格下、弱者などの意味)という言葉をよく使うが、僕はまさに一人のプレーヤーとして、そういうマインドでコートに立ってきた。それは今も変わらない。僕のような立場の選手は、コートに出た時、ワンポゼッション、ワンポゼッションに懸ける気持ちで誰にも負けないことが必要だと思っている。泥臭く、やるべきことをやり続ける。それが僕の最低ラインだ。
11人という少ないロスターで開幕を迎えた今季は、プレータイムを増やし、さらに存在感を増すためにチャンスのシーズンだと感じている。自分の原点を見つめ、さらに成長していくためにも、この機会に自分の「これまで」を振り返ってみたいと思う。
■神奈川県代表として挑んだジュニアオールスターで優勝できた。決勝の相手は「沖縄」だった
僕は神奈川県川崎市の出身だ。小さい頃からの習い事と言ったら、近所の公文式教室に二つ上の姉と通っていたくらい。アクティブな母がスキューバダイビングをやっていて、自分も小学校5年の夏休みの自由研究でライセンスを取ったりしたけど、そこまで活発な子どもではなかった。
ただ、その当時で既に身長が170cmくらいあったから、小学校5年の終わりに別々の友達からバスケとラグビーに誘われた。どちらも体験したけど、ラグビーは練習日が週に1日のみで、バスケは週5〜6日で強いチームだった。「どうせやるなら強いところでやろう」と思って、バスケを選んだ。 入ったのは「柿生レッズ」というミニバスケットボールチーム。地元が同じで、年齢が三つ上の齋藤拓実さん(名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)が所属していたチームだ。僕が加入する以前は拓実さんのお父さんがコーチを務めていて、僕が加入した時も県内で強豪だった。6年生の時には神奈川県で3位に入った。
ミニバスの同期5人と一緒に柿生中学校に進学して、うまいガードもいたから、中学3年の時に県大会優勝、関東大会でもベスト8まで進んだ。自分は入学時点で身長が180cmあったから、ずっとセンター。仕事はひたすらリバウンドとゴール下でシュートを狙うことだった。 あと、近所に一人100円くらいで使える体育館があったから、練習の後に部活のみんなで行って3Pシュートとかを練習していた。そこには拓実さんのお父さんがやっている大人のチームもいて、ゲームに混ぜてもらったりしていた。 その甲斐もあってか、中学2年生だった2013年のジュニアオールスター(第26回都道府県対抗ジュニアバスケットボール大会 2013)で県代表に選ばれた。その時は身長が188cmまで伸びていて、189cmの前原碧生選手もいたから二人でゴール下で体を張っていた。 順調に勝ち進み、決勝の相手は沖縄。向こうにも渡嘉敷直樹選手(185cm)、青木亮選手(188cm)というツインタワーがいて、接戦になった。後半の出だしで青木選手が負傷退場したことで一気に突き放し、72ー50で勝って優勝することができた。細かく試合内容を覚えているわけではないけど、当時のスタッツを見返したら自分がチームトップの25得点。ちょっと信じられないけど、そうらしい。大会の最優秀選手賞は渡嘉敷選手、僕も5人が選出される優秀選手賞に選ばれた。
◾️高校からずっと留学生とマッチアップしていて、今のプレースタイルの素地が築かれた
高校も齋藤拓実さんと同じ神奈川県の桐光学園だった。校舎は自宅から歩いて15分くらい。小学生の頃は「近所にある私立のマンモス校」くらいのイメージだったけど、強豪だったし、拓実さんのお父さんの繋がりで練習に参加させてもらったこともあった。ジュニアオールスターで全国優勝したメンバーがごそっと行ったこともあり、僕も一緒に進学した。 全国大会は何度か出場して、最高成績は3年の時のインターハイベスト8。この頃から留学生とマッチアップするのが自分の役割になった。とにかく体を張って、頑張って止める。あと、リバウンドでもハッスルして、オフェンスリバウンドにも飛び込む。明治大学の頃も仕事は変わらず、今のプレースタイルの素地は高校、大学で築かれたと思う。
大学で一緒にプレーしていたBリーガーは齋藤拓実さんのほか、須藤昂矢さん(横浜ビー・コルセアーズ)、同期では渡辺翔太選手(仙台89ERS)、後輩だと常田耕平選手(滋賀レイクス)がいた。優秀なガードが多かったことも自分の役割を明確にした一因になった。大学の4年間は1〜3年が関東1部で、4年生の時は2部に降格した。
時間を少し遡るけど、プロを意識し始めたのは高校の時。その頃にBリーグが誕生し、川崎市とどろきアリーナは地元にあったから、川崎ブレイブサンダースの試合は開幕した頃から何度か観に行っていた。初めて行った時は試合開始の何時間か前に会場に着き、2階自由席の一番前の席に陣取って観ていた。ニック・ファジーカス(2023-24シーズンに現役引退)のプレーとかはシンプルに「すげえ」と思った。バスケは観るよりやる方が好きだから、憧れの選手とかはいなかったけど、漠然と「プロになりたい」という気持ちは湧いてきた。
■ほぼ出場機会のなかった福岡時代。「体だけでもB1レベルになりたい」と思ってひたすら筋トレをしていた
ただ、もちろんプロになるのは簡単じゃない。契約を勝ち取ること自体が狭き門だし、そこからB1に定着できる選手となれば本当に一握りのプレーヤーだけだ。 案の定、大学の時に受けたトライアウトは3回とも落ちた。2回はBリーグ全体のもので、1回は三遠ネオフェニックスが開いたトライアウトだった。大学3年の時に受けた全体のトライアウトは約100人が参加していて、最後の10人まで残ってアピールしたけど、結局声は掛からなかった。 ただ、大学3年から関わりのあったエージェントが僕のポジションで需要がありそうなチームを探してくれて、4年生の時にB2のライジングゼファー福岡と特別指定選手の契約を結ぶことができた。プロデビュー戦はよく覚えている。2021年1月23日にホームであった群馬クレインサンダーズ戦だ。群馬がB2で無双していたシーズンで、コートに入ってすぐにトレイ・ジョーンズ選手にバックカットされ、ダンクされた。あれは強烈だった。 プロになって新鮮だったのは、同じチームに外国籍のビッグマンがいたことだ。学生時代に留学生とマッチアップするのは慣れていたけど、味方にいるのは初めての経験だった。彼らは僕がずっとやってきた5番(センター)のポジションと被るから、やっぱりプロでは3番(スモールフォワード)や4番(パワーフォワード)ができないと厳しいという現実を突き付けられた。 当然、先輩の日本人選手の中には3番、4番の経験が僕より豊富な選手は多くいた。次の2021-22シーズンはプロ契約を結んでもらえたけど、オフェンスを重視するチームの方針になかなか適応できず、自分の経験不足もあって福岡ではほとんど出場機会は得られなかった。ロスターにすら入れない時期も長かった。
試合に出られないという経験は初めてだった。チームの練習場がある訳ではなかったからバスケをする時間自体も限られてしまい、メンタルが落ちた。ただ、何もしていないとエネルギーが発散できず、余計に落ちてしまう。何かやってないと落ち着かないタイプでもある。だから、あの頃は朝に近所の公園へ行ってドリブルを突いたり、午前、午後の練習の合間にジムに行ってウエイトトレーニングをしたりしていた。 専門のトレーナーがいた訳でもないので、細かいことは分からず、なんとなく聞いたことがある筋トレのBIG3(スクワット、デッドリフト、ベンチプレス)をひたすらやっていた。心のどこかで「いつかはB1のチームに行きたい」と思っていたから、フィジカルだけでもB1レベルの選手になると決意していた。もちろん、B2で試合に出られていない、何も結果を残していない選手が簡単にB1に行けるわけがない。それでも、何もしなかったら余計目標は掴めない、ということも感じていた。
■「しがみ付くしかない」という気持ちでなったキングスの練習生。楓己がいなかったら、乗り越えられなかった
福岡とのプロ契約は1シーズンで終わり、他のチームからのオファーもなかった。当時はコロナ禍で、まともにプレーできる場も少なく、プロを続けられるか本当に不安だった。それでも福岡でお世話になった人が、夜に大人たちがバスケをしている体育館に連れて行ってくれたり、隣県の佐賀のチームの練習に参加させてくれたりした。本当に感謝している。 そんな中、7月の初め頃に同じエージェントに所属する選手たちが集まるトレーニングキャンプが宮古島であった。そこに桶さん(桶谷大ヘッドコーチ)も見に来ていて、エージェントの人を介して練習生なら加入できるかもしれないという話をいただいた。ほとんどの選手は所属先が決まっていて焦りもあったけど、他の選択肢もなかったから「練習生でもしがみ付くしかない」と思い、2022-23シーズンの開幕前にキングスへの練習参加をお願いした。 当時は渡邉飛勇選手(現:信州ブレイブウォリアーズ)が負傷していて、エージェントから4番ポジションでチャンスがあるかもしれないという話もされたが、正直、B2でも試合に出られていなかったので、そこまで考えは及ばなかった。実際に練習へ参加してみて「やばいな」と思った。みんな名前を知っている人だし、スキルのある選手ばかり。B1の強豪チームで練習できる嬉しさがある反面、どこまで自分はできるんだろうという怖さもあった。 ただ、自分の立場はプレーヤー寄りの練習生というよりも、スタッフ寄りの練習生だった。だから、あの頃はほとんど練習もできていない。生活をするためにキングスバスケスクールのコーチもしていたから、矢のような速さで日々が過ぎていった。 あの時は僕の2週間後くらいに練習生として加入した山本楓己選手(現:神戸ストークス)と毎朝7時半くらいに沖縄アリーナのサブアリーナに行って、2人でシューティングをした。9時からは選手ごとに30分ずつのワークアウトが始まるから、8時半になったらモップを掛け、氷や水ボトルを用意する。ワークアウト中はスクリーナーやリバウンダーとして手伝い、午後2時から始まるチーム練習では選手にタオルを渡したり、選手が欠けた時にたまに参加したりしていた。 自分は週5〜6日でキングスバスケスクールの仕事があるから、練習が終わった後の午後4時前にはすぐに沖縄アリーナを出る。遠い時は名護市や豊見城市でもスクールがあったから、自宅に帰るのが午後9時半から午後10時くらい。すぐに食事とシャワーを済ませて布団に入り、また午前7時くらいに起きて同じサイクルをこなす。 スクールでは「よしコーチ」と呼んでもらい、子どもたちからとても元気をもらえた。ただ、日々の忙しさには本当に目が回った。あの時期を乗り越えられたのは、間違いなく楓己がいてくれたからだ。今でも、お互いに「一人じゃ無理だった」という話をする。プロでチャンスを掴むため、練習や試合を観て感じたことを話し合ったりして、本当にいい関係を構築できた。今、お互いにプロ選手として活動を続けられていることは、心の底から嬉しい。
■転機となったのはFE名古屋戦。「自分の人生を変えるならここだ」という覚悟で、無我夢中だった
プロ契約の話をもらった時のことはよく覚えている。 11月のある日のことだった。いつもホーム戦が終わった後、選手たちがユニホームを脱ぐのを待って、タオルと一緒に洗濯をする。その日もいつもと同じように、楓己と一緒に乾いたタオルを畳んだりしていたら、スタッフに「桶さんが呼んでるよ」と声を掛けられた。 コーチルームに行ったらジョシュ・ダンカンが少しコンディションを崩し、11月26日にある次の島根スサノオマジック戦でベンチにいてほしいという話だった。ただ、契約期間中に出番があるかどうかも分からない。それでも、僕にとっては願ってもない話だった。下積み期間の苦労が少し実った気がして、本当に嬉しかった。 ベンチ入りしてからは出場できない試合も多くあったし、プレータイムがあったとしても数分ほど。ただコートに出たら、楓己と一緒にやってきたことは絶対に出し切ろうという思いで、常に準備を怠らずにベンチに座っていた。ワンポゼッションだけの出番だったとしても、その短い時間で自分のキャリアが変わるかもしれない。次のシーズンに繋がるようなプレーをして、B2でもB3でも、どこかのチームからオファーをもらいたかった。そうじゃないと、もうこの先のキャリアは無いというくらいの覚悟だった。大げさではなく、ワンポゼッションに命を懸けていた。 2カ月近くがたった2023年1月18日。ファイティングイーグルス名古屋(FE名古屋)とのホーム戦で、転機が訪れた。 この試合は、1試合の出場停止処分を受けたジャック・クーリーが不在ということが事前に分かっていて、ビッグマンがダンカンとアレン・ダーラムの二人のみだった。試合前の練習中から僕も4番ポジションに入れてもらっていたから、自分でも「チャンスだ」という自覚があった。 1クォーターから早速コートに立ち、体重が100kg超のジョナサン・ウィリアムズ(現:ベルテックス静岡)のポストプレーに対して体をぶつけ、ひたすらリバウンドに飛び込んだ。相手のアーリーオフェンスの時にすぐディフェンスに戻って、エヴァンス・ルーク(現:島根スサノオマジック)がシュートを打とうとしたから「飛ばなきゃ」と思って、良いブロックをすることもできた。試合は76ー64で勝利することができ、多少なりとも貢献できたと思う。
出場時間は僕のプロキャリアで3番目に長い19分48秒。5リバウンド、2ブロック、1スティールで、「+/−」(その選手が出ている時間帯の得失点差)は「+11」だった。得点ゼロというスタッツが物語っているが、ダンカンとダーラムを少しでも休ませるために、とにかくディフェンスとリバウンドでハッスルすることに全神経を集中していた。高校、大学の頃から留学生とマッチアップし、ずっとやり続けてきた仕事だったから、強みは出せた。 自分は考え過ぎるとダメなタイプだ。動きが止まったり、おとなしくなったりしてしまう。あの試合は「自分のキャリア、人生を変えるならここだ」という覚悟で、自分のやるべきことをやり続けるというマインドだったから、とにかく目の前のプレーに集中していた。無我夢中だったことが、良い方に転がったんだと思う。 試合後には初めてコート中央でマイクを持ち、大勢の6,500人くらいのファンの前で挨拶をして過去最高くらい緊張した。「チームにとってはピンチだったんですけど、自分にとってはチャンスでした」という言葉が自然と出てきて、多くの拍手を送ってもらえたことは嬉しかった。プロになってから、一番達成感を感じられた瞬間の一つだった。
■契約終了を伝えられ、一人で泣いた。「やり切った」という達成感があった
その後も、また出場機会がない試合もあったが、約3カ月間ベンチに座り続けることができた。沖縄アリーナのロッカールームで淳さん(安永淳一ゼネラルマネージャー)に契約終了を伝えられた時は、すごく感情が動いたのを覚えている。すぐトイレに行って、一人でわーっと泣いた。「うわ、涙出るわ」って、客観的に自分を見ている感覚もあった。泣いたのは大学4年の時のインカレ(全日本大学選手権)で負けた時以来だった。 悔しさというよりも、ずっとあった「いつ契約を切られるか分からない」というストレスから解放されたことで、ふっと力が抜けたんだと思う。あと、「できることをやり切った」という達成感もあった。すぐトイレから出たから、一人で泣いていた事はたぶん誰にもバレていないはず。そう願う。もう書いてしまったが。 その後も他のチームからオファーはなく、また選手のワークアウトのフォローなど練習生として活動しながら、キングスバスケスクールのコーチも再開した。少なからずキングスのユニホームを着てプレーしたから、自分が顔を出すことで子どもたちが喜んでくれるのは、僕自身も嬉しかった。 このシーズン、キングスは初優勝を達成した。僕もファイナルに帯同していて、横浜アリーナで千葉ジェッツに勝った瞬間は本当に嬉しかった。ほぼ毎日、ディフェンスに入ったりしてワークアウトを手伝っていて、選手たちがそこで身に付けたスキルが試合で生かされた場面も多かったから、そういう日々が報われたと感じた。それと同時に、今度は選手としてこの舞台に戻り、優勝を経験したいという思いが湧いた。
■人数が少ないから試合に出られるわけじゃない。「3&D」を目指し、さらに成長していきたい
昨シーズンは開幕前にキングスからプロ契約を結んでもらえたが、立場は変わらなかった。23試合の出場で、平均プレータイムは6分22秒のみ。まだまだ実力不足だ。 ただ、僕のような12番目、13番目の選手が下を向くわけにはいかない。練習生から這い上がってきたが、まだ何も結果を残していない。練習後のワークアウトやシューティングなど、チームの誰よりも頑張る。それを当たり前にやり続けないと、自分は生き残っていけない。 今シーズンはロスター11人で開幕を迎え、人数の少なさから「チャンスだ」とは思っている。でも、少人数だから試合に出られるかというと、それはまた別の話だ。ディフェンス、リバウンドでのハッスル、3Pシュートなど、自分の武器を磨き、さらにレベルアップしないとローテーションに入ることはできない。 「3&D」の選手(3Pシュートとディフェンスに優れた選手)になることが僕の生きる道だと思っている。泥臭く、努力を継続して成長していきたい。だから、日々のトレーニングや試合に臨むメンタルは練習生の頃から何も変わらない。一つのプレーが、自分のキャリアや人生を変えるかもしれない。だから僕は、ワンポゼッションに命を懸ける。