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崩れた高架橋。がれきと化した街。「お母さんとお姉ちゃんは・・・」

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崩れた高架橋。がれきと化した街。 これらは30年前の1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生した直後の神戸の街を写したものである。

撮影したのは、神戸市で被災し、現在沖縄で防災活動をつづけている稲垣暁(さとる)さん。 活動の原点となった震災から30年となった2025年1月17日、稲垣さんは神戸の街を歩き、刻まれた震災の教訓と再生の歩みを確かめた。 神戸市民の男性 「お母さんとお姉ちゃんは、天国から僕らのことを見守ってくれていると思います。30年たちましたが、まだもう少し見ておいてほしいなと思います」

神戸市民の女性 「母と兄は、地震のときは生きていたんですよ。その明くる日に亡くなったんですよね。毎年ここへ来て『ごめんね』って言っています」

稲垣暁さん 「この時間で止まったまま、あえてこうしています」

稲垣暁さん 「30年前のこの時間に、自分は本当にたまたま生かされていたにすぎないのだなと改めて思いました」 30年目の2025年1月17日、稲垣暁さんは地元・神戸市に戻った。

沖縄を拠点に防災活動や行政へのアドバイスなどにたずさわる稲垣さんは、30年前、東灘区の自宅で被災した。 1995年1月17日、近畿地方の広い範囲をおそった阪神・淡路大震災。

震源に近い神戸市は、観測史上初めて記録された「震度7」の激震で、建物の倒壊や大火災が相次ぎ、壊滅的な被害を受けた。 稲垣暁さん 「すさまじい状況、衝撃的な光景が目に入ってきて、そのとき初めて膝が落ちるような感覚を覚え、膝から体が落ちてしまう感じになりました」 大震災から30年がたち、神戸の街に被災の痕跡はほとんど見えない。 しかし、市内にはいたるところに震災の教訓が残されている。

稲垣暁さん 「高架橋が落ちたところが多いので、震災後に補強されました。こんな柱はなかった気がします。震災後に増えたのではないでしょうか」

神戸が歩んできた道のりを改めて目に焼きつけたいと、自身が被災した地を訪れた稲垣さん。 この日、ともに街を歩いたのは、那覇市出身で兵庫県の大学に通う新川梨月(あらかわ りっき)さん(20)(関西学院大学3回生)。

新川さんは高校生のときから、稲垣さんのもとで防災について学習してきた。 震災当時、新聞記者だった稲垣さんが写真におさめた被災の姿を見ながら、30年の移り変わりをたどった。 稲垣暁さん 「住民どうしでしか救助ができません。なぜだと思う?」 関西学院大学3回生 新川梨月さん 「公助が機能していなかったのですか?」 稲垣暁さん 「なんで機能していなかったと思う?」

稲垣暁さん 「道路が崩れて、建物が横倒しになって進めない。火災で進めない。とにかく現場が多すぎる。全然足りない。そもそも、消防も警察も救急も被災しているわけです。この向こう側が全部落ちて、火災も発生したんですね」

稲垣暁さん 「プールの水をみんなでバケツリレーして火を消しました。そんな訓練はしたことがなかったけど、もうそういう状況になったら、人間は勝手に動くんだよね。どこかからみんなバケツを探して持って来て」 かつて、住む家を失った人々がテントを張って生活し、命をつないだ川沿いの石屋川公園。

現在、その公園の見晴らしの良い場所に、静かにたたずむ桜の木がある。

関西学院大学3回生 新川梨月さん 「生きた証って書いています。この2本の木は何ですか?」 稲垣暁さん 「神戸に勉強しに来ていた学生たちが亡くなりました。ご両親は本当に悲しい思いをしていますよね。お父さんとお母さんが、なんとか2人の生きた証を神戸に残したいと言って植えたんです」

稲垣暁さん 「最初は苗だったんですよね。それが30年たって、こんなに大きくなりました。生きておられたら、今50歳くらい。社会を背負って立つど真ん中の人たちです。生まれ変わりですね。涙が出ます。そういうことを考えたら、知られざるというのが良いのかどうかも分かりませんね」

多くの命とくらしが失われた神戸では、「災害に強い街づくり」「命をつなぐ街づくり」を柱に、人々の手で再建が進められた。 飲み水に苦しんだ経験から、神戸市内には62カ所に災害時に水を確保できる給水拠点が設けられた。

大火災に見舞われた地区では、火の手から逃げられる防災公園が整備され、震災があったことを伝えるシンボルの一つにもなっている。

稲垣さんは30年前のあの日を経験した一人として、そして今、防災に携わる者として、震災を知らない世代へと伝えたい思いを抱いていた。

稲垣暁さん 「自分が命があって、30年ここに来られているということへの感謝と同時に、生き方を次につなげていけるような可能性もいただけたということは、これ以上の喜びはありません」

関西学院大学3回生 新川梨月さん 「沖縄でも歩いていたら、戦争の痕がよく見たら散らばっています。神戸ではまったく気付きませんでした。きょうはいろんなところに、震災の被災者の方々が頑張って復興させた跡や、亡くなった方々の遺志をちゃんと残しておこうとか、生きた証を残したいという人たちの思いが、いたるところに見受けられました。いっぱいあって、びっくりしました。まだまだ多分あると思います」

稲垣暁さん 「神戸や阪神のことをすごく学んで、それを自分の人生に活かして、さらにそれを沖縄にどうやって活かすのか、新しい希望が見えた気がします」 追悼行事の会場には、例年より多くの人々が足を運んだ。

稲垣暁さん 「毎年この日が原点なんですけれども、自分が生きていること、仕事に対しての原点。それは30年というきょう、この日を境に、また新たになった気がします」 かつてない大災害に見舞われ、深い悲しみと苦しみのなかで30年を生きてきた人々。

そして神戸の街が歩んできた復興と再生の日々。

流れた歳月の重みとともに、継承の大切さをかみしめた稲垣さんは、移り住んだ沖縄で経験と教訓をつなぐことを心に誓い、地元を後にした。

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