『果てしなきスカーレット』細田守監督インタビュー|コロナで生死をさまよったからこそ生まれた死後の世界への描写、復讐の連鎖を断ち切るための「赦し」とは
全世界が待ち望んでいた細田守監督最新作映画『果てしなきスカーレット』がついに2025年11月21日に全国で公開されます。『時をかける少女』から脈々と紡がれてきた細田監督の新たな物語は、時代の流れを経て、「復讐劇」という形で描かれることになりました。
昨今、様々な世界情勢を鑑み、思うことがあったと語る細田監督。映画監督だからこそやらなければいけなかった「復讐劇」、そしてその先にある現代の若者に向けた「未来」とは何だったのでしょうか。
本稿では、細田監督に行ったインタビューの模様をお届けします。『果てしなきスカーレット』がどのように作られたのか。映画公開前に、本稿と通して細田監督の思いに触れてみてください。
絶望の中から「未来」を見せる
──本日はよろしくお願いします。
細田:よろしくお願いいたします。実はこの映画が完成したのは、つい一昨日のことでした。
──完成直後のお気持ち、そしてこれから日本全国の皆さまにご覧いただくことへの思いをお聞かせください。
細田:今回、いろいろな新しいことに挑戦し、試行錯誤を重ねてきましたので、果たして皆さんにしっかりと伝わるのかどうか、今はまだ手応えを掴めていない状態です。ですが、自分にできることは精一杯やりきったという実感はあります。この作品を多くの人に楽しんでもらえたら嬉しいな、と願っています。
──『果てしなきスカーレット』という映画の企画の始まりやテーマ、また作品を通して伝えたいメッセージについて教えていただけますでしょうか。
細田:この映画では、「復讐」というテーマを中心に据えました。といっても、ただ単なる復讐というよりも、「報復の連鎖」について考える作品にしたいと思ったんです。今作の制作を始めたのが、ちょうどコロナが明け始めたくらいの時期でした。その苦しい時期が過ぎて、やっと落ち着けると思った矢先に、ご存じの通り世界中でまた新たな争いや悲しい出来事がたくさん起こりました。
その様子を見ながら、どうして人は報復をし続けるのか、そしてその先には何が待っているのか。この問いが頭から離れませんでした。このような状況に立たされている「現在」を考えながら、このテーマを持って映画を作り上げようと決意しました。
──そのテーマ設定には深い思いが込められているのですね。『果てしなきスカーレット』の企画にあたって、具体的にどのようなインスピレーションを受けたのでしょうか?
細田:今回の作品は、復讐劇がテーマなのですが、復讐劇の元祖といえばシェイクスピアの『ハムレット』ですよね。この物語に触発されて、そこからインスピレーションを得て一つのベースとして制作に臨むことを考えました。
復讐劇というのは、世界中で非常に人気のあるエンターテイメントのジャンルだと思います。たとえば、かつて私が働いていた東映アニメーションでも、悪い敵を倒して勝利を手にするような映画がたくさん作られてきました。でも今の世界を見ていると、ただ単に「善」と「悪」で敵をやっつければいい、という話にはならないと思っています。それぞれに正義があり、復讐を果たしたと思った側が次は逆に復讐される。そんな報復が繰り返されていくと、その先に待っているのは悲劇なのではないかと思い至りました。
この映画を制作するにあたって、そういった報復の連鎖や、それが生み出す絶望の中で少しでも「未来」を見出せるのかという課題に挑みました。映画作りは、本当に時間がかかります。この作品にも4年という月日を費やしました。その間、世界情勢が良い方向に向かうことを期待していましたが、現実はそれほど楽観的ではなく、むしろ複雑な状況が続いているように思えます……。
「果てしなき」が意味するものとは
──『果てしなきスカーレット』の「果てしなき」という言葉にはどのような思いが込められているのでしょうか?
細田:「果てしなき」というのは、文字通り「終わりなき」という意味とも取れると思います。終わりなき争いが続いていくとも言えるし、逆に捉えれば、終わりなき試み――つまり争いを終わらせようとする努力が続いていくとも言えるんですね。
例えば肯定的な意味で捉えるならば、「果てしなき」というのは、永遠に続く努力や挑戦の象徴でもあると言えるでしょう。一方で、人間はある種「呪われたように」果てしない争いを続けていくものかもしれない。どちらの解釈にも問いを投げかける言葉として、このタイトルに込めたつもりです。
また、具体的にはスカーレットというキャラクターが16世紀の王女であるという設定から、その生がその後の時代や状況にも繋がっていく...そうした意味での「果てしなさ」を感じていただければと思っています。この映画が描くのは、スカーレットだけの物語ではなく、私たち人間全体の物語だと思っています。
今の私たちの世代で解決できないものがあったとしても、その後の若い世代、新しい考え方を持った人々がその先を紡いでいくのではないか。そして彼らが希望を見出してくれる可能性があるという祈りや願いを込めて「果てしなき」というタイトルを名付けました。
──本作には竜=ドラゴンが登場しますが、あれはどのような存在なのでしょうか? この世界には超越的な存在がいるのでしょうか。
細田:まず「この世の中に超越的な存在があるか」という問いについてですが、これについては人それぞれ考え方が異なるものだと思います。たとえば、ある人はドラゴンのような存在に神を見出し、ある人は運命を感じるかもしれません。つまり、その答えは個々の思想や解釈によって異なるものです。
ドラゴンについてですが、劇中ではその正体について深く説明をすることはあえて避けています。ドラゴンはある意味で「取り囲むもの」であり、何か巨大な存在であるという印象を与えつつも、その具体的な姿や意味については見る人の解釈に委ねています。
作中でドラゴンに剣や槍が刺さっている場面がありますが、なぜそのような状態でもその姿を保ちつつ悠然と空を泳いでいるのか、その全てが不思議であり、解釈に幅を持たせています。
このドラゴンは、絶対神であるようでいて絶対神ではないのかもしれない。ですが、それが本当に何を象徴しているのかは観る人によって異なるでしょう。これは何か一つの確定的な意味を提示するのではなく、多様な考え方を許容する存在として描いています。
今回の映画では、シェイクスピアの『ハムレット』やダンテの『神曲』をモチーフにしています。ダンテの『神曲』は高校生のときに読んで非常に衝撃を受けました。この作品はタイムリープのようだと思ったのですが、地獄に入ることで歴史上の偉人や様々な存在に次々と出会える構造がとても面白いと思ったんです。今回の映画にも、その影響の断片が散りばめられていると言えるかもしれません。
ただ、『神曲』の魅力はそれだけではありません。一神教の世界観が色濃く反映されていますが、それを超えて人々の魂が救われることを願う普遍的なテーマを描いており、中世の人々が抱いていた思いが伝わってくるんですね。ドラゴンが何を象徴しているかについては、観客それぞれが自分の考えや感じ方で解釈するものだと思います。
古典『ハムレット』である意味
──復讐譚を描くということで、古典として『ハムレット』を選ばれた理由は何でしょうか?
細田:まず『ハムレット』という作品をこの映画のベースにしようと思った理由ですが、やはり復讐譚の元祖として、このテーマを考える上で避けて通れないものだったのが大きいです。特に、今の若い人たちが感じる不安や葛藤、悩みを代弁する物語として非常に適していると感じたんですね。
私が高校生から大学生の頃に読んだ『ハムレット』には、心に深く訴えるテーマがありました。ハムレット自身の年齢は劇中では30歳ほどですが、読んでいると若い頃の悩みや葛藤に寄り添う作品だと感じるんです。『果てしなきスカーレット』の主人公であるスカーレットは19歳という設定で、ちょうど人生をどう生きればいいのか迷う年齢です。そうした若い人たちの抱える不安や心情を『ハムレット』が400年経った今でも、人々の心に訴えかける普遍性を持っている作品だと思います。
そして私自身、戯曲を読むだけでなく、蜷川幸雄さんが演出され、渡辺謙さんが主演された『ハムレット』を舞台中継で観たことがあります。1988年のことなので、高校生だった私はその作品に衝撃を受けました。特に、オフィーリア役を演じられた荻野目慶子さんの素晴らしい演技が忘れられません。彼女の存在感は圧倒的で、一見するとただかわいそうなキャラクターですが、それだけではなく運命に負けない力強さが感じられました。当時私が最も印象に残ったのがそのオフィーリアだったんです。
今回の映画制作でも、そうした経験が影響しているのではないかと思います。ハムレットが本作では男性ではなく女性、つまりスカーレットとして描かれている点も、荻野目さんの演じたオフィーリアが与えた深い印象がどこか影響しているように感じます。運命の中でしんどい苦しみを抱え、狂気の中で死んでいくオフィーリアの姿。それは歴史の中で美しく描かれがちで、「川に浮かんでいる悲劇のヒロイン」というイメージで語られることも少なくありません。でも、果たしてそれだけで良いのか? という疑問はずっと持っていました。
もっと力強さをもって描くべきではないかという思いもあり、今回の映画のスカーレットにはそんな考えを反映させました。本作のポスターも、映画本編も、非常に力強さを感じさせる仕上がりになったと思います。そうした点でも私自身、過去に触れた『ハムレット』の影響が表れているのではないかなと思っています。
もちろん、これまでに様々な俳優がハムレットやオフィーリア、クローディアスなどのキャラクターを演じてきました。その解釈は舞台や作品ごとに違いますし、そこに多様性があるのが『ハムレット』の魅力だと思います。今回の映画のキャストには舞台経験の豊富な方々が多く参加してくださり、それぞれが個性的な解釈で役に臨まれたのではないでしょうか。
──海外の映画祭での反応はいかがでしたか?
細田:ヨーロッパの反応についてですが、感じたのは、やはり同じ作品でも受け取り方が異なるということです。日本では『ハムレット』というと教養や学問的なイメージが強く、「なんだか難しそうだ」と思われがちな一面があると思います。一方、ヨーロッパでシェイクスピアはもっと一般的な教養として捉えられています。向こうのジャーナリストからは、「この映画はアクション、ロードムービー、そして『ハムレット』を描いたものであり、非常にエンターテインメント性が高いですね」と評価をいただきました。日本では少し重厚で難解な作品として捉えられがちな『ハムレット』ですが、ヨーロッパではエンターテインメントの枠組みでも受け入れられているのだと実感しました。
また、ヴェネツィア国際映画祭に続きトロント国際映画祭でも上映させていただいたのですが、トロントでは『ハムレット』を題材とした映画がなんと4本もあったそうなんです。その中にはクロエ・ジャオ監督による新作『ハムネット』も含まれていましたね。この『ハムネット』というタイトルは、シェイクスピアの息子の名前からきており、その物語が描かれる作品です。
同時期に『ハムレット』をモチーフにした作品が複数制作されていることは、時代的な関連性を感じざるを得ません。本作を制作する際には、『ハムレット』に関連した作品が同時期に作られていることを当然知る由はありませんでした。映画祭のプログラムディレクターの方もこのような現象を興味深く感じていたそうです。
実はこれは珍しいことではなく、過去にも同じような状況が見られました。黒澤明監督が『蜘蛛巣城』を構想しはじめた時期には、オーソン・ウェルズも『マクベス』を題材にした作品を作り、さらにローレンス・オリヴィエも『マクベス』に取り組んでいました。おそらく、その時代において『マクベス』のテーマが必要とされていたのだと思います。こうした文化的な潮流や時代のニーズが、作品に影響を与える傾向があるのかもしれません。
ただ、それが何かを直接語り、関連付けるのは私たち作り手ではなく、むしろ観客の皆さんが考えてくださることでより正確に意味が生まれるのだと思います。
「赦す」ということ
──『果てしなきスカーレット』では復讐劇というテーマが大きな軸としてありながら、「赦す」「赦し」というキーワードも際立って強調されて描かれています。この「赦す」「赦し」という概念をここまで強調した理由についてお聞かせください。
細田:復讐をテーマとして考える中で、「赦し」という概念について向き合わざるを得ないことがありました。『ハムレット』を読むと父親の亡霊が息子ハムレットに「赦すな」と言いますよね。その言葉から復讐劇が始まるわけです。でも、もし父親が逆のことを言ったらどうなるのだろうかと考えたんです。これが非常に悩ましい問いになると思いました。
なぜなら、「赦すな」と言われるほうがある意味では分かりやすいんです。当然の感情として憎しみや怒りが湧き、それをエネルギーとして復讐に向かうことができるからです。そんなひどい相手をどうして許せるのか、と。そしてその問いが生まれることで、さらに深い葛藤が生じることになると感じました。
この話は先ほどお話しした報復の連鎖ともつながっていますね。復讐のサイクルを続けていては、結局際限がなく終わらない。どちらかが「赦す」という行為を選ばなければ、その連鎖を断ち切ることはできないという問題があるわけです。しかし、現実はそんなに簡単ではありません。誰かにひどいことをされたとき、その相手をすぐに許せるかといえば、そんなことはほぼ不可能だと感じます。私たちももし同じ目に遭ったら、許すことの難しさを痛感するでしょう。
それでも、その復讐の連鎖を続けることで人生を使い果たしてしまうのか、それともそれを乗り越えて違う未来に目を向けるのか。どちらを選ぶかで人生は大きく異なるものになると思います。制作を進める中で、この問題に何度も向き合うことがありました。特に自分自身の状況を想像したとき、自分の娘が私のために復讐をしようとしたらどう思うだろうか、と考えました。
父親としては、間違いなく「やめてほしい」と思うでしょう。復讐を果たそうとする気持ちは感謝するかもしれません。でも、それよりも娘には自分自身の人生を大事にしてほしい。そのほうが父親としてははるかに嬉しいと思います。復讐心を持って生きる人生は、決して良いものではない、そう感じます。
しかし、それは自分の気持ちであって、子供や他者がどう感じるかは別問題です。そこが復讐というテーマの難しさであり、恐ろしさでもあると感じますね。復讐を目的に生きることで、その人の人生が消耗されてしまい、結局何も得られないのではないか、そんな気がしてなりません。
そのようなことを考えながら、映画の中でも主人公たちの葛藤や選択を描きました。「生きるべきか死ぬべきか」という問いを、主人公のスカーレットと聖の関係に置き換え、物語のラストで表現したつもりです。このテーマはとても重いですが、それでも復讐劇を通じて浮かび上がる人間の姿や感情は観る人に問いを投げかける力を持っていると思います。
もちろん、このテーマに対する捉え方は人それぞれです。「最も憎い相手を許すこと」が真の許しだと考える人もいるでしょうし、別の価値観で解釈する人もいるでしょう。ですので、映画を観た皆さんには、自分にとっての「赦し」とは何か、自分ならどうするかということを考えていただければと思います。何が正解かということを提示する映画ではありません。むしろ自由に感じ取っていただくことを目指して作りました。
死後の世界は監督のとある体験が……
──本作では死後の世界が描かれていますが、今回描かれた死後の世界には、監督ご自身の死生観が反映されているのでしょうか?
細田:今回の映画では確かに「生と死」という非常に大きなテーマに挑むことになりました。正直、ここまで壮大で重いテーマを扱うことになるとは思っていませんでしたが、振り返ってみるとこれまでの作品の中でも生と死というモチーフに少なからず触れてきた部分があると思います。そうしたテーマが今回の作品ではより表面化し、スケールの大きな映画になったのではないかと思います。
きっかけとして、やはり自分自身が体験した「死に向き合う瞬間」が挙げられます。それは、コロナに感染して入院したことです。コロナで入院した人は分かると思うのですが、入院してから最初の1週間が特に重要で、その期間で病状が悪化するか改善するかで人生が大きく変わる。私もその不安を抱えながら過ごしました。
コロナに感染したのは『竜とそばかすの姫』を制作している最中で、まだ完成していないタイミングだったので、非常に大きな不安に直面しました。もしものことがあったら、誰が完成させてくれるのだろうか……。そんな思いが頭をよぎりました。幸いにも私は1週間後には改善し、回復することができました。ただ、その入院期間中に死と隣り合わせの状況にいるという現実を目の当たりにする瞬間もありました。
また、その入院中に感じた看護師さんたちの存在が非常に大きかったんです。病院の先生以上に、看護師さんが支えてくださる場面が多くありました。防護服で顔も見えない状況ではありましたが、その人の優しさや温かさは伝わってきました。看護師という職業に就くためには、単なるスキルだけではなく、深い思いやりや人間性が必要な才能だとも感じました。彼らの利他的で献身的な患者へのケアには大変感謝していますし、非常に感動しました。
そこで今回の映画で描いた主人公のスカーレットと彼女を支えるもう一人の主人公、聖というキャラクターにも、この看護師という存在が影響を与えていると思います。スカーレットは現実主義的な復讐者に対して、聖は理想主義的な看護師という対比的な人物として描かれています。この対比が物語の中で非常に重要な要素となっています。
──そんなことがあったんですね……。また、≪死者の国≫の世界観がどのようにして形作られたのかについてもお聞かせください。
細田:『ハムレット』でも「黄泉の世界」が存在することが描かれています。父親の亡霊がハムレットに語りかけるシーンなどもその一例です。この物語における死後の世界の存在感というものが、今回の映画においても重要な影響を及ぼしていると思います。
今回、地獄の描写について考える際に、日本の地獄絵図が参考になりました。私は日本美術の研究者の方とも議論し、中世に描かれた地獄絵がどのように表現されているのかを尋ねました。日本の地獄絵図にはたくさん種類がありますし、日本の文化には山岳信仰もあって、地獄や霊的な信仰の対象となるような山々も存在します。実際、私の故郷である富山にも千年前からの山岳信仰を受け継ぐ地域があり、その中で地獄がどのように捉えられてきたのか、原体験としても地元の文化の中で知ることができました。
その日本美術の研究者が非常に興味深いことを教えてくれたんです。日本の中世の地獄絵図は、「地獄のように見えて、実は現世を描いている」という話です。つまり、地獄が異世界ではなく、この現世の苦しさを表現しているというんです。最初は驚きましたが、よくよく考えるとすごく納得できました。「鬼が人を苦しめる」とか「殺伐とした景色」といった描写は、「地獄で起きること」ではなく、「この世に存在する苦しさの象徴」だということ。現世が地獄だと思っている人には、まさに今生きているこの場所が地獄なんですよね。逆に楽しい人生を送っている人には地獄だとは感じられない。それを聞いたとき、「なるほど」と思いました。
考えてみればニュースを見ていて、紛争地などをレポートする際に「まるで地獄のようです」と表現されることがあります。現世にも地獄のような状況は存在していて、そうした環境で私たちは生きている。そこで、魂が天国に行けることを願っている人々もいる。それなら、死後の世界を単なるファンタジックな地獄として描くのではなく、むしろ現世の延長として描くべきだと思ったんです。
その考えを基に、私はロケハンのためにヨルダンやイスラエルに訪れ、現地の状況を体験しました。ヨルダンでは荒野の中で、宗教の原点となった風景を見ることができました。イスラエルでは一神教の聖地を訪れただけでなく、壁の向こう側にも足を運びました。実は、渡航禁止になる直前のタイミングだったのでギリギリで見ることができました。こうした宗教的背景が形作られた地や風景を直接体験したり、見ることができたのは非常に貴重な体験でした。その体験が映画の世界観、≪死者の国≫に反映されている部分があると感じています。
役所広司さんの名演が光る
──劇中では現実ではまだ完成していない渋谷の街が登場するシーンもありましたね。
細田:あの渋谷のシーンは観ていると急に現代に舞い戻る感じがあって、びっくりされるかもしれませんね。あの未来の渋谷についても実際に関係者に取材をしたり、いろいろと調べました。
あのシーンを通して描きたかったのは、私たちがいる現代の時間を相対的にどう見るかということです。過去の人にとっては、私たちが生きている「今」の時代は未来にあたりますし、この相対的な視点から、主人公たちの人生や観る人の体験について新しい視点を提供できたらと思っています。
渋谷という場所は世界中の人にも知られる有名な場所の一つです。ニューヨークでも上海でもない、渋谷であること。それは聖という日本人のキャラクターがそこにいることでより際立ちます。聖は渋谷近辺の病院に勤めているという設定ですので、彼にとっても渋谷は身近な場所であるのです。
一方で、スカーレットの目線で現代の渋谷を描くことで、現代がまったく異なるものに見えてきたり、相対化されて見えたりする点が面白いと思います。これは過去の作品『時をかける少女』でも試みたことがあるのですが、現代の人間が相対的に自分の時代をどう捉えるかがテーマになっています。たとえば未来から来た人が現代を見ると、それがどう映るのか。映画を観る方々にとっても新しい体験のひとつになるのではないでしょうか。
シーンの構成に関しては、例えば『2001年宇宙の旅』でワームホールを抜けた先に突如「ホテルの部屋」が現れるのを思い出させるかもしれません。あの予測不能な展開には驚きますよね。同じように、スカーレットが目にする現代の渋谷のシーンにも、予想外な面白さを感じていただければと思っています。
──芦田愛菜さんをはじめとする役者の皆さんのキャスティングについてお伺いしたいのですが、監督が話されていた「役柄のイメージ以上のものを持つ役者」という視点から、どのようにキャスティングを進められたのでしょうか?
細田:役柄をキャスティングする際、つい俳優さんのパブリックイメージを優先しがちなのですが、それ以上に「その人が持つ何か別のもの」を感じてキャスティングできると、役の表現がより広がり、際立つことがあると思っています。芦田愛菜さんはまさにそのような方でした。彼女の演技には、パブリックイメージを超えた深みや成熟があり、それがスカーレットというキャラクターに非常に魅力を与えてくれたと思います。
──今回の作品ではプレスコ(声を先行録音する手法)を初めて採用されたと伺いました。経験豊富な役者の演技を聞いたことで、キャラクターや表現に変更や影響があった場面について教えていただけますか?
細田:これまでの作品ではアニメーションの映像を作ってからアフレコをしていました。しかし今回はCG技術を多く導入する中で、プレスコのほうがメリットが大きいということで、この手法を初めて採用しました。最初に収録を行ったのは役所広司さんで、クローディアス役でした。ご覧いただければお分かりになると思いますが、役所さんの演技は素晴らしいんです。彼が持つ圧倒的な表現力、力強さ、憎らしさ、ずる賢さ、そして哀れさがすべてクローディアスに凝縮されていて、特に最後のシーンでは、録音を聞きながら鳥肌が立つほどでした。
彼の声だけでも、映画のテーマである「生の極限に達したときの感情」を体現しているように感じました。ただ、それを絵にするとなると果たして可能なのだろうか、と正直思いました。演技のすごさをアニメーションで表現するのはかなり難しい挑戦になるだろうと感じました。
その後に芦田さん、岡田さんと続けて収録を行いましたが、役所さんの芝居を聞いた後に演じるということで、皆さん大きなプレッシャーを感じていたようです。それでも、役者の皆さんが本気で表現してくださり、非常に高度なパフォーマンスを見せてくださいました。
アニメーターの方々も、役者の皆さんの演技を聞いて最初は「これは無理だ」と思ったそうです。しかし負けじと挑戦を続け、細部にこだわり、役者の声の演技の素晴らしさに応えるアニメーションの芝居を作り上げました。役者の声の演技の力とアニメーターの努力が合わさることで、あそこまでの表現が可能になったと思います。この相互の刺激が、本作のクオリティを高めてくれました。
CG技術を使うと効率的に見えるかもしれませんが、実際にはとても手間がかかっています。CGであっても人の手で動きを付け、細かな感情や表情を緻密な作業で描き出すことが必要となります。特に人間の感情が極限に達したときのアニメーションの芝居は、作画でもCGでも非常に高度な技術と作業が求められます。役者のバイブスや演技を画面にきちんと表現するアニメーターの皆さんの成果を見て、改めてアニメーション表現の新しい可能性を感じました。
アクションシーンにもこだわりあり!
──スカーレットの年齢設定を19歳にされた理由、名前をスカーレットにした理由は何でしょうか? そしてスタントコーディネーターの園村健介さんとスタントアクターの伊澤彩織さんを起用された理由についてお聞かせください。
細田:ヒロインの年齢設定を19歳にしたのは、モデルの一人が16世紀末の同時代を生きたエリザベス一世だからです。彼女がそのぐらいの年齢で即位しています。ただ正確に19歳というわけではないかもしれませんが、あの時期の若さが重要だと思いました。
名前をスカーレットにした理由については、非常に力強い主人公にしたかったからです。ハムレットとの関係を指摘されることもありますが、スカーレットという名前はもっと古く、6世紀から7世紀頃から存在しているものです。ハムレットとの直接的な関係はなく、純粋にこの主人公の象徴的な力強さを表現するのに適していると思って選びました。
園村さんについては、2015年に公開した『バケモノの子』でもモーションコーディネーターをお願いしており、冒頭の炎の中のアクション部分を担当していただきました。その実績が素晴らしかったので、今回も園村さんにお願いしました。伊澤さんにはスカーレットのスタントアクターとして参加いただきました。アクションの動きが非常にすごくて、彼女の動きがスカーレットに命を吹き込む力になると感じたんです。
伊澤さんが演じたアクションについては、動きの参考となるビデオ、いわゆる「Vコン」を撮り、その伊澤さんの動きをアニメーターが参考にして1コマ、1コマ丁寧に描き起こしています。特に伊澤さんの「前髪の動き」がすごく魅力的で、それがアニメーションにも色濃く反映されています。彼女は前髪が少し長めなんですが、その前髪がアクション中に揺れる様子が格好良くて、動きのリアリティとインパクトを与えてくれました。特に前半の戦闘シーンで描かれるコーネリウスとの戦いは、伊澤さんの動きが非常にうまく反映でき、素晴らしいアニメーションとなっています。
復讐劇として、アクションには特に力を入れた部分ですね。アクションがしっかりしていないと復讐劇自体が面白くならないので、一つひとつのシーンに多様なアプローチを採用しました。たとえば、物語の最初の戦闘シーンではマーシャルアーツや剣での戦いを描きました。中盤に差し掛かると馬を使ったアクションが中心で、その後には群衆を絡めた戦い、そして物語終盤では精神的な葛藤がメインです。それぞれ異なるタイプのアクションを取り入れることで、場面ごとに変化をつけ、観客のみなさんに魅力を感じてもらえるよう心掛けました。
地元富山から得た着想
──監督の故郷、富山県の山岳信仰や立山曼荼羅をイメージさせる描写がいくつか見受けられました。監督の心象風景が具体的に込められているのでしょうか?
細田:確かに今回描かれた地獄や火山などの風景には、富山の立山をはじめとする山岳信仰からの影響があります。立山は現在も硫黄ガスが噴出している場所があり、「地獄谷」という名称がついています。実は取材をしようと試みたのですが、現在は火山ガス活動が活発なため入場規制がかかっているため叶いませんでした。地元の文化や風景からは強い影響を受けています。
立山や地獄谷に限らず、富士山や長野でも活火山は信仰や地獄観の対象となっています。これらの場所が地獄から天国へ至る象徴のように描かれてきたことは、日本の古い信仰に深く根ざしており、今回の物語の発想の一部にもなっています。立山の稜線や風景が直接のモデルになっているわけではありませんが、山岳信仰や曼荼羅的な世界観は、私が子供の頃から触れてきたものですので、やはり影響を受けていると思いますね。
──本作の構造について、『時をかける少女』との類似点を感じました。未来から来た男性と現代に住む女性との関係性や、「未来を変える」というテーマが重なっているように思います。ただし、本作では未来を変えるという部分にさらなる決意が込められていると感じました。この2作品の類似点と、未来に対する異なるアプローチについてお聞かせください。
細田:おっしゃる通りですね。実は自分で作りながら途中で気づきました(笑)。最初はまったくその類似点には気づかずにこの作品制作を進めていたんですが、プロデューサーの高橋さんや宣伝プロデューサーの岡田君に「これ、『時をかける少女』と構造が似ているのではないか?」と指摘されたんです。その時は「そんなことはない」と否定したんですけど、後々考えると確かにその類似性を認識しました。
未来から来た男性と物語の中の現在を生きる女性が主人公であるという構図は確かに類似しています。そしてその女性が未来を見据えるというテーマも重なります。ただ、『時をかける少女』が公開された19年前と現在では、未来に対する見方が大きく変化しているように思います。
『時をかける少女』を制作した2006年当時、私は筒井康隆先生の原作をアレンジする中で、1960年代と2000年代の未来観の違いを感じていました。その結果、映画の結論も必然的に異なるものになりました。そして今回の『果てしなきスカーレット』では、さらにその未来観が変化していると感じています。
2006年は若者が持つバイタリティや希望に未来を託したいという気持ちが強かった時代でした。しかし、現在の状況では、若者に過剰なバイタリティを求めることが正しいのか疑問に感じる部分もあります。未来に向けた物語の結論が異なったものになっていくのは、時代背景や価値観の変化に影響されているからだと思います。もうそこまで無責任に期待するだけでは済まない状況になっているのではないかと感じています。現在、若い人たちは、いろいろな面でがんじがらめになっているように思えるんですよね。
SNSなどを通して他人を気にしすぎたり、必要以上のストレスを抱えたりしている。世の中も変化し続けていて、かつて「正しい」とされていたものがどんどん揺らいでいる。若い人たちが不安を感じるのはむしろ当然のことと思います。これは日本だけの話ではなく、世界的にそのような傾向があるのかもしれません。でもそんな不安の中でも、少しでも彼らに寄り添い、力になるような映画を作りたいと思ったんです。これは、『時をかける少女』を作った頃には持たなかった視点だったかもしれません。
スカーレットというキャラクターは16世紀の宗教改革後の時代を生きる人間ですが、その時代背景から何か普遍的なテーマを感じ取れるのではないかと思います。人間はルネサンスを経て宗教改革があり、啓蒙主義、フランス革命を経験し、それを通じて民主主義が形作られました。そこから帝国主義や全体主義といった揺れ動きを経て、今の時代にたどり着いています。しかしその民主主義も揺らぎつつあると感じることがある。こうした背景を考えると、若い人々が不安に思うのも無理はないですよね。それに寄り添う映画を作ることが、まさに今の時代への応答なのではないかと思っています。
[インタビュー/石橋悠]