ポンコツな自分を受け入れる。「弱さは人に見せるもんじゃない」の呪いが解けた話|山中散歩
誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は編集者の山中散歩さんにご寄稿いただきました。
これまで“ポンコツ”な自分を隠し、弱さを悟られないための術を身に付けてきたという山中さん。
しかしある出来事を機に「弱さを開示することで生まれる人とのつながりがあるのでは」と気づき、自分の弱さやダメさを愛おしく思えるようになったといいます。
たい焼きプレートの前で、焦っていた。
その日、僕はとある場所で「たい焼きを食べながらみんなでおしゃべりする会」なるイベントを開催していた。
イベントには10人くらいが集まってくれて、テーブルを囲んでワイワイと会話がはずむ。僕はといえば、たい焼きを焼きながら司会をする役割。このイベントはもう5回目なので、運営なんて慣れたものだ。スムーズに場を回しつつ、美しいたい焼きを次々に焼き上げ、場は大盛り上がり……と、なるはずだった。
それなのに、肝心の司会である僕の、頭が回らないのである。
いつもはすっと浮かぶ言葉が、出てこない。例えば「サザエさんのような家族」と言いたいのに、「えーっと、あの、ずっとやってるアニメの、あの、魚介系の……」と、まごまごしてしまう。
感覚としては、脳みそのOSが「Windows 98」くらいになった感じ。場を回しながらたい焼きを焼く、みたいな複数のタスクをこなそうものなら、ふおおおーん! と脳が悲鳴をあげて、シャットダウンしそうになる。
あとで知ったのだけれど、どうやら新型コロナウイルスの後遺症だったらしい。実は、イベントの1カ月前くらいにコロナに罹っていたのだが、症状がなくなったあとも、しばらく頭が回転しない日々が続いていた。
のちに知り合いに「なんかちょっと、頭がぼーっとする状態が続いてて……」と相談したら、「それ、ブレインフォグじゃない?」と言われた。なんでも、脳内に霧がかかったような状態になる後遺症があるそうだ。あ、めちゃくちゃそれだわ、と思った。
イベントの日、僕は頭に霧がかかった状態で司会をし、たい焼きを焼いていたわけで、そりゃ無理でしょうよ、と今なら思うのだが、当時はブレインフォグなんて知る由もない。ただただ、「なんかしらんけど、今日のおれ、ポンコツだわ……」と、焦げてところどころ黒くなったたい焼きを前に、呆然とするのだった。
「弱さがバレないようにせねば」と思っていた
ブレインフォグのせいでポンコツになったのだと思っていたけれど、思い返せば以前から、「自分はポンコツだな」と思うことがたくさんあった。
大学時代、コンビニでバイトを始めたものの、接客がうまくできず、店長に「君はレジに立つな」と言われ、裏でチキンを揚げる機械の掃除ばかりしていた(けっきょく、3カ月足らずで辞めた)。
あと、意志が豆腐並にもろく、「やろう!」と決めたことはたいてい成し遂げられない。「今年は家庭菜園をやろう!」と決めてベランダにトマトのプランターを置いたものの、収穫せず放置していたら大量のカナブンが発生し、「ぐおおおおお!」とうめきながら処理したりもした。
かたや、SNSをひらけば、誰かのキラキラした姿が目に飛び込んでくる。「起業しました!」「世界一周しました!」「◯◯を受賞しました!」。そんな投稿を見るたび、凹む。「なんでおれはあの人みたいに、強い意志で、不断の努力で、スマートにものごとをこなせないんだろうか」と。
いや、まてまて。SNSではキラキラして見えるあの人にだって、失敗して落ち込む日はあるだろうし、台所で鍋の焦げつきをガシガシ落とすような、ぜんぜん華麗じゃない瞬間がきっとあるのだよ。あえてそれを人に言ってないだけだよ。
……と、頭では分かっているんだけれど、悲しいかな、隣の芝生は青く見える。この世界が、誰が成功しているかを競う人生ゲームだとしたら、あの人たちはずっと先のマスにいて、自分はぽつんと取り残されてしまっている……そんな気がした。
「おれも、先のマスに進まねば。そのために、弱さを克服せねば。いや、克服できないにせよ、せめてこの人生ゲームから脱落しないように、弱さが他人にバレないようにせねば」。
そう思い続けて、社会人を10年。「すっかり強くなった」とは思わないが、SNSで「すごい」と思われそうな投稿をするとか、「成功するためのメンタルトレーニング」みたいな本を読むとか、人前に立つときは緊張しないように台本やマニュアルを超丁寧につくるとか、自分の弱さを悟られないための術を身に付けてきた。
「よかった。もう、ポンコツだと思われることはなさそうだ」と、安心していた。
失敗かと思われた会、だったけど……
そんな直後の、たい焼き事件なのだった。
しかし、イベント終了後。自分のポンコツっぷりにがっくりと肩を落としながら片付けをしていると、皆さんが口々にこう言うのが聞こえてきたのだ。
「いや〜、めっちゃ楽しかった!」
耳を疑った。そんなワケある?
「いや、あの、すみません、正直微妙でしたよね?なんか分かんないけど、僕今日ポンコツで……」
「いやいや! すごく楽しかったですよ! 散歩さんがあんまりしゃべらないのが、めっちゃよかったです!」
「……?? どういうことですか?」
「しゃべらないから、みんなで場をつくってた感じがしたんですよ〜」
目から、特大の鱗(うろこ)が落ちた気がした。
そういえば、僕がぼんやりしてうまく場を回せないなかでも、誰かが「◯◯さん、どう思います?」と、話していない人に話をふってくれていた。沈黙もあったけど、そのあと、誰かがそれまでとはちがう角度で「そういえばさ」と語り出し、話が広がっていた。
それらは、僕がこれまで企画したイベントでは、あまり見たことがない光景だった。
各々が自分のペースで語りあい、聞きあい、沈黙しあう。あの場の雰囲気は、僕があんまりしゃべらず、場をコントロールしようとしない(というか、できない)からこそ生まれたものだったと、その人は言うのだ。
もしかして、僕が「弱い」のがよかったのか……?
弱さで生まれるつながりもある
かつての僕は、弱さを隠して、強い自分でいようとしていた。弱さを出したら、この人生ゲームから脱落してしまうのではないかと、どこかで思っていた。
でも、あのたい焼き事件の日、知らなかった景色が、ちょっと見えた気がした。それは、「強くあらねば」と鼻息を荒くしていたときには出会えなかった景色。強さや成功を競う人生ゲームの外側にある、弱さで人と人がつながる世界の景色だ。
考えてみればふしぎである。自分の弱さは隠そうとするのに、僕は人の弱さが好きなのだ。
仕事でしか付き合いがなかった人が、出張先の宿の大浴場で一緒になり、「実は……」とキャリアの悩みを打ち明けてくれる瞬間や、「恋人とうまくいかなくてさ……」と友達が居酒屋でほろりと涙を流す瞬間に、たまらなく「あー、なんか、人間だなぁ」と思う。
他人の弱さは好きなのに、こと自分となると「弱さ、ダメぜったい!」となっていたのはなんでだろう。
見栄? 羞恥心? それもある。
教育の影響なのか、テレビや映画の影響なのか、「弱さは人に見せるもんじゃない」という呪いにかかっていた気がする。
あるとき、お茶をした知り合いに「近頃こんなこと悩んでてさぁ」と打ち明けてみた。引かれやしないかとも思ったが、彼はニコニコしながらひとしきり聞いたあと、こう言った。
「いいねぇ! 散歩さんのいいところは、そうやっていつもうだうだ悩んでるとこだよね」。
たぶんだけど、長く関係が続いてる友人たちの顔を思い浮かべると、彼ら・彼女らは僕の弱さもふくめて、いや、弱さこそを受け入れてくれているのだと思う。逆に、僕がつよつよ人間になったら、離れていく人もいるかもしれない。
弱さではなく、“やわさ”と呼んでみる
弱さの呪いは強い。なんだかんだ言っても「弱さ」って言葉は、ネガティブな印象を含んでしまう。
だから、あのたい焼き事件以来、「弱さ」って呼ぶのをやめたらいいんじゃないか? と思うようになった。「弱さ」と呼んでいたあれやこれやを、“やわさ”と呼んでみるのだ。
大福、肉球、赤ちゃんのほっぺた。そういう“やわい”ものの横に、自分がかつて「弱さ」と呼んでいたこともならべてみる。
人前で緊張してしまうこと、自分が開いたイベントでうまく場を回せなくなること、「やる」と決めたことをやりきれないこと、etc。「君ら全員、今日から“弱さ”じゃなく“やわさ”な!」と名付けてみる。
すると、どうだろう。嫌いだった自分の要素も、ちょっと愛おしく思えてくる気がするのだ。
別に、“やわさ”をひけらかす必要はない。それに、“やわい”部分は傷つきやすいから、出す場所と相手は、ちゃんと選ぶ必要はある。
だけど、ちょうどいいあんばいで自分の“やわさ”を出すことは、自分や周りの人が、強がったりする必要もなく、その人のままで安心してそこに居られるように、ふかふかの座布団を置くようなことな気がしてる。
人生で大変なこともあっても、ちょっと腰を下ろして「こんなことがあってさぁ!」って笑い話にできる、そんな座布団を配って回りたい。って、笑点の山田くんみたいな話になったけど、そう思うのである。
編集:はてな編集部