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スラヴの不思議な昔話の世界へようこそ――【連載】奈倉有里「猫が導く妖しい世界」#1

NHK出版デジタルマガジン

スラヴの不思議な昔話の世界へようこそ――【連載】奈倉有里「猫が導く妖しい世界」#1

この連載では、スラヴの昔話からやって来た物知り猫“バユーン”が、ロシア文学研究者・奈倉有里さんとともに皆さんを民間伝承の世界へとご案内します。
今回はどんな不思議に出会えるでしょうか?
※2025年度『まいにちロシア語』テキスト4月号より抜粋
(スラヴ:ロシアやウクライナ、ポーランド、ブルガリアなど、ヨーロッパ東部から北アジアに広く分布する、スラヴ系諸語を話す人々の暮らす文化圏)

第一回 バユーンからの招待

私の上に浮かぶ猫

 いつのころからか、私の頭の少し上あたりに猫が居ついている。名前はバユーンといって、スラヴの民間に伝わる不思議な猫だ。いったいいつから、どうして、どんな猫が、私の頭上をうろつくようになったのか。
 ひとまず、この猫の紹介をしよう。ロシア文学のなかでバユーンのイメージを持つ猫として最も有名なのは、アレクサンドル・プーシキン(1799-1837)の物語詩『ルスランとリュドミーラ』の冒頭に登場する「学者猫」だ。和名は「物知り猫」でも「猫博士」でもいいが、たくさんの物語や歌を知っている、とっても賢い猫らしい。入り江に立つ樫の木に金の鎖が巻きついていて、学者猫はその鎖をつたって昼も夜もうろうろ歩きまわり、右に歩んでは歌をうたい、左に歩んではおとぎ話を語りだす(実に楽しそうだ)。そうして語り手は「その猫から聞いた話を、いまからみなさんに聞かせよう」と言って、いよいよ本編に入っていく。つまり学者猫は、語り手と物語をつなぎ、物語詩の導入を担うはたらきをしている。『ルスランとリュドミーラ』は現代でもロシア語圏で幼少期によく大人たちに読み聞かせられる物語詩なので、この猫は執筆から百年以上が経ったいまも、言葉を覚えたての子供たちがおとぎ話のなかに入っていくのを助けてくれる、重要な役割を果たし続けていることになる。
 プーシキンの学者猫は、スラヴに伝わるバユーンの伝承と西洋の伝説や文学作品に登場する猫などを、プーシキンなりの形に作り変えたものとみられている。民話採集家のアレクサンドル・アファナーシエフ(1826-1871)によると、バユーンは(樫の木に巻きついた金の鎖ではなく)水車小屋の近くに立つ鉄の柱の上に座っていて、その鉄の柱を降りると歌をうたい、登るとおとぎ話を語ることになっている。また似たような存在として金のツノを持つ山羊についても記されており、この山羊もやっぱり歌ったりおとぎ話を語ったりする。どんな言い伝えにもいろいろな派生形があるものだが、とりわけ猫は古今東西さまざまに語られてきた存在だけあって、バユーンにも幾多の類型がある。いま私の頭の上であくびをしているバユーンも、そんな類型のひとつだと思ってくれていい。

気まぐれバユーンのおしゃべり

 私の頭上にいるバユーンは、寒い地方の猫らしくぼさぼさと毛が長く、全体的に黒っぽい毛並みをしていて、ところどころ色褪せたように茶色かったり白っぽかったりする。窓際で日向ぼっこをしていると、毛先が金に輝いているように見えるときもある。バユーンがどのくらいの大きさなのかはよくわからない。ふだんは、ふつうの家猫より少し大きいくらい。でもたまに――なにか私にすごく言いたいことがあるときなんかには、私の部屋いっぱいに大きくなって、はみだしそうになることもある。でもそんなのはほんとうに特別なときで、いままでにほんの数回しかない。
 私はバユーンの話を聞くのが好きだ。バユーンは猫らしく気まぐれでおまけにこだわり屋なので、気にいらないことがあるとしばらくすねてしまって、私にはどうしてバユーンがすねているのかがわからない。でも元来おしゃべりが好きなので、気が向けばまわりくどく長々と、いつまででも話を聞かせてくれる。とはいえ、その声に耳を傾けはじめるといつもとたんに眠くなってしまうのだけれど、バユーンは夢を操ることもできるので、ときには(やっぱり気が向けば)現実と区別がつかないくらいリアルで幸せな夢をみさせてくれる。
 そもそもバユーン(Баюн)という名前は、「子供をあやして眠らせる(убаюкать)」とか「ねんねんころり(баю-бай)」とか「ほら話(байка)」とか「口達者(краснобай)」といった言葉と同じ根っこ(語根)を持っていて、これらは古いロシア語の「しゃべる、話す(баять)」につながっている。なるほど、おしゃべりなわけだ。
 バユーンはほかの多くの妖怪のたぐいと同じで、人にとって良いはたらきをすることもあれば、悪い、怖いはたらきをすることもある。民話の再話を得意とする児童文学作家ゲオルギー・ナウメンコ(1941-)による現代版では、バユーンは尻尾にふたつの袋をぶら下げていて、片方には良い夢が、もう片方には悪い夢が入っている。子供が猫に優しくするとバユーンはいい夢をプレゼントし、子供が猫をいじめようとすると悪い夢をみさせる。これはずいぶんわかりやすく穏やかにアレンジされた例だが、伝説のバユーンはもっと恐ろしく、人を喰う化け猫なのだという説もある。なんでも、バユーンは生と死の境界へと続く森にいて、魔性の声で旅人を魅惑し眠らせては、食べてしまうという話だ。
 幸か不幸か、こうしてバユーンの話を書いている私は、いまのところまだバユーンに食べられてはいないようだ。むしろバユーンの魔性の声には逆に治癒力や延命の力が宿っているともいうから、氷点下の続くロシアの冬を幾度も過ごしながら私がほとんどまったく風邪をひかなかったのは、ひょっとするとバユーンのおかげだったのかもしれない。

どんな話をしてくれるかな

 けれども、私が頭上のバユーンの存在をはっきりと認識したのは、モスクワの文学大学を卒業して日本に戻り、東京で大学院に入ってからのことだった。当時のことはいまだに、どんな言葉にしていいのかよくわからずにいる。端的にわかりやすい言葉でいえば、カルチャーショックというものなのだろう。文学大学という場でできた人生でいちばん親しい友達も文化も誰よりも慕う先生もみんな、ロシアやウクライナやベラルーシの本好きたちだった。ところが東京に戻ってみると、文学部の学生も院生もまるで空気が違い、ひどく戸惑った。一緒に楽しもうと思って詩を引用してもその意図が通じず、真心の示しかたも異なる。自分の仕草や口調もまわりの人と違う気がする。「帰国」したはずなのに異郷としか思えず、とにかく心もとなく足元がおぼつかない。おまけに私だけではなく、なんだかみんなが孤独なようでもある。
 そんな得体の知れない不安を抱えていたある夜のこと、深夜に胸元が重苦しく感じて目をあけると、胸の上に猫が乗っていた。当時実家で飼っていた黒猫がいつものように布団に潜り込んできたのかな、と思ったそのとき、猫が天井付近まで大きくふくらんで全身の毛を逆立て、ロシア語ではっきりと「ついてきたから安心して力を出せ」と、襲いかかってきそうな剣幕で、叫んだ。
 はっとして目を覚ますと猫はおらず、その声と言葉だけが耳に焼きついている。いまのはなんだったのか、と考えるよりも先に、その声からのメッセージを忘れまいと思った。そうだ。猫の言うとおりだ。場の「空気」などという正体のないものに戸惑わなくていい。私はこのときを境に、そうした問題でくよくよと悩むことはなくなった。
 あの猫はバユーンなのではないか、と考えたのは、もう少しあとになってからのことだった。気づいてしまえば簡単で、きっとおしゃべり猫のバユーンは私が寂しくないようにロシアからついてきて、バユーンなりに応援してくれているのだろう。すべてが私の空想の産物だって、別にかまわない。空想だろうと本物だろうと、私がバユーンに勇気づけられていること自体に変わりはないのだ。

 以来、かれこれ15年ほど、バユーンは私の頭のすぐ上あたりにいる。でも、バユーンの話を誰かに打ち明けたのは、これが初めてだ。せっかくだからこれからしばらくバユーンと一緒に、スラヴに棲むほかの不思議なものたちの話をしていこうと思う。
 妖怪、妖精、お化け、もののけ。人に似ていて人ではない、動物のようだが動物でもない、この世のものならぬ妖のたぐいは世界のいたるところにいるが、もちろんロシア語圏にも、妖しいやつらがたくさん棲んでいる。それに、バユーンは子守唄やおまじないにも詳しい。
 スラヴの森に、野原に、家のなかに、どんな物語が息づいているのか。一緒にバユーンの話に耳を傾けてみよう。

奈倉 有里

1982年生。ロシア文学研究者。著書に『夕暮れに夜明けの歌を』『アレクサンドル・ブローク詩学と生涯』『ことばの白地図を歩く』『ロシア文学の教室』『文化の脱走兵』、訳書にミハイル・シーシキン『手紙』、サーシャ・フィリペンコ『赤い十字』など。

イラスト 山田 緑

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