#2 「戦争」とはどんなものなのか? 湯浅邦弘さんと読む『孫子』【NHK別冊100分de名著】
湯浅邦弘さんによる『孫子』読み解き #2
今から二千五百年前の中国で活躍したとされる二人の人物、老子と孫子は、諸子百家を代表する思想家です。しかし、老子は無為自然を説く道家思想の祖。孫子は人為の極致である戦争について思索を深めた人物であり、その思想は対極にあるといっても過言ではありません。
この二つの思想を「水」という共通のテーマで捉えた『NHK別冊100分de名著 老子×孫子 水のように生きる』では、老子と孫子を迷いの多い現代の心の処方箋にしていくため、蜂谷邦夫さんと湯浅邦弘さんが、その基本を分かりやすく解説します。
全国の書店とNHK出版ECサイトで2025年10月まで開催中の「100分de名著」フェアを記念して、本書よりその一部を公開します。(孫子編の第2回/全3回)
戦争とは何か
では、『孫子』には具体的にどのような思想が書かれているのか、本文を引用しながら見ていきましょう。
『孫子』の冒頭には、次の言葉がかかげられています。
孫子曰く、兵とは国の大事なり。死生(しせい)の地、存亡(そんぼう)の道、察せざるべからざるなり。
(孫子は言う。戦争とは、国家の一大事である。人の死生を決める分岐点であり、国家の存亡を左右する道であるから、これを深く洞察しないわけにはいかない。)
(一 計篇)
今では当たり前のことだと思いますが、「戦争が国家の一大事である」と宣言したのは、実は『孫子』が初めてです。
この認識が生まれた背景には、先ほど紹介したような戦争の形態の変化があります。貴族による美学を伴ったゲームではなく、勝ち負けがそのまま国家の存亡にかかわってしまうような、戦争の巨大化です。そのような戦争には莫大な戦費がかかります。また、いったん戦争を始めれば、国も人も、物心両面で日々消耗していきます。ここで孫子は、戦争というものは基本的に「割に合わない仕事だ」ということを言っています。
『孫子』は兵書でありながら、戦うことを勧めたり、何が何でも勝ちを目指そうということを言ったりはしていません。むしろ、できれば戦争は起こさない方がいいということを説いています。これは『孫子』全体を貫く戦争観です。
そして、やむをえず戦争を起こさなければならない場合も、できるだけ短期で切り上げることを推奨しています。
孫子曰く、凡そ用兵の法は、馳車千駟(ちしゃせんし)、革車千乗(かくしゃせんじょう)、帯甲(たいこう)十万、千里にして糧を饋(おく)るときは、則ち内外の費、賓客(ひんきゃく)の用、膠漆(こうしつ)の材、車甲(しゃこう)の奉(ほう)、日に千金を費やして、然る後に十万の師挙がる。
(孫子は言う。およそ戦力を運用する方法は、戦車千台、輜重車(しちょうしゃ)千台、武装兵士十万という規模で、千里の彼方に食糧を輸送するというときには、国内外の経費、外国の使節をもてなす費用、膠(にかわ)や漆(うるし)といった武具の材料、戦車や甲冑(かっちゅう)の供給など、一日で千金をも費やして、はじめて十万の軍隊を運用できるのである。)
(二 作戦篇)
「千金」とは今のお金に換算するとどのくらいなのかはわかりませんが、とにかく膨大な額を費やして、ようやく十万の軍隊を動員することができるというのです。つまり戦争とは、いったん始めてしまうと国家経済に深刻な打撃を与えるものなのです。
孫子は言います。
故に兵は拙速(せっそく)なるを聞くも、未(いま)だ巧久(こうきゅう)なるを睹(み)ざるなり。
(戦争では、少々まずい点があっても、とにかく早く切り上げる[拙速]ということはある。しかし、ぐずぐずしてうまい[巧久]ということはない。)
(二 作戦篇)
戦う前に戦力をポイント化
戦わずして勝つ。そのためには、安易に戦いを始めないことが重要です。では、開戦に慎重を期すためには、どうすればよいのでしょうか。
この点について、孫子は「廟算(びょうさん)」における分析の大切さを説いています。廟算とは御前会議のことです。歴代の王の御霊が祀(まつ)ってある廟と呼ばれる建物に、国家の首脳が集まり会議をします。その際、「五事七計」と言われる、最も重要な五つの指標と、さらに具体的な七つの指標について分析し、敵と味方の戦力差をポイント化していくのです。
故に之を経(はか)るに五事を以てし、之を校(くら)ぶるに計を以てして、其の情を索(もと)む。一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法。
(だから、五つの事柄でよくよく検討し、〈七つの〉計で比較分析し、敵味方の実情を求めるのである。軍事を検討する場合の最重要の指標である「五事」とは、「道」「天」「地」「将」「法」の五つである。)
(一 計篇)
「道」とは、民の気持ちを為政者に同化させることができるような、政治の正しいあり方を指します。これが実現できていれば、民と為政者は戦争においても気持ちを一つにして戦うことができます。「天」とは、明るさや暗さ、暑さ寒さなどの自然条件、「地」とは、戦場に関する地理を指します。「将」は軍を統括する将軍の能力、「法」は軍の指揮系統や賞罰など、軍を運営するための各種規則を指しています。
続いて「七計」の内容です。
曰く、主孰(いず)れか道有る。将孰れか能有る。天地孰れか得たる。法令孰れか行なわる。兵衆(へいしゅう)孰れか強き。士卒(しそつ)孰れか練れる。賞罰孰れか明らかなる。吾れ此を以て勝負を知る。
(次に、より具体的な比較の指標としてあげられるのが「七計」である。敵と味方で君「主」はどちらがすぐれているか、どちらの「将」軍が有能であるか、「天地」の自然条件はどちらに有利か、「法令」はどちらがきちんと行なわれているか、「兵衆」すなわち軍隊はどちらが強いか、個々の「士卒」はどちらがよく熟練しているか、軍功に対応する「賞罰」はどちらがより明確にされているか。私[孫武]はこれらによって、実際の戦闘が行なわれる前に勝敗を知ることができるのである。)
(一 計篇)
孫子は、これらの項目の一つ一つについて、敵軍と自軍の状況を比較せよと言っています。そして、獲得ポイントが多い方が勝ちになるというのです。
このときに決してやってはいけないことは、主観を交えること、また予断を差し挟むことです。客観的にポイントを比較しているさなかに、「いや、神風が吹くだろう」「あとは気力でカバーしよう」などと言ってはいけないのです。
日本が太平洋戦争を始めたとき、自国とアメリカの軍事力や経済力について、事前に比較検討が行なわれたそうです。結果は、アメリカの方が数十倍、力が大きかった。つまり、その段階で結果はほぼ目に見えていたのです。にもかかわらず、日本は開戦に踏み切ってしまった。
孫子は、その意味では徹底して合理主義です。当時の戦争では、戦う前に必ず、勝敗についての占いが行なわれました。孫子は、そうした占いも一切排除しています。あらゆる面で客観的な指標を用い、勝敗を分析する。だからこそ、戦う前に自ずと勝敗は明らかになるというのです。
「五事七計」は軍事のみならず、現代のあらゆる組織活動にとっても重要な判断材料になると言えるでしょう。
■『別冊NHK100分de名著 老子×孫子 水のように生きる』(蜂谷邦夫 湯浅邦弘 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
著者
湯浅邦弘(ゆあさ・くにひろ)
1957年、島根県生まれ。大阪大学大学院教授。大阪大学大学院文学研究科修了。文学博士。北海道教育大学講師、島根大学助教授、大阪大学助教授を経て、2000年より現職。専門は中国思想史。著書に『菜根譚』『孫子・三十六計』(以上、角川ソフィア文庫)、『菜根譚』『論語』『諸子百家』(以上、中公新書)、『入門 老荘思想』(ちくま新書)など、編著に『概説中国思想史』『名言で読み解く中国の思想家』(以上、ミネルヴァ書房)、監修に『「菜根譚」叢書』全25巻+別巻1、『「孫子」叢書』全25巻(以上、大空社)などがある。
※全て刊行時の情報です。
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