江戸の大事件はこうして伝わった!庶民メディア「瓦版」の驚きの内容とは
江戸時代、大火や地震、事件、政変など、さまざまな速報を庶民に伝える役割を果たしていたのが、「瓦版(かわらばん)」です。
もともとは「読売(よみうり)」「辻売りの絵草紙」などと呼ばれており、「瓦版」という呼び名が広まったのは、幕末ごろからとされています。
語源については、印刷物の仕上がりが瓦のように粗雑だったためという説などがありますが、はっきりとはわかっていません。
(ちなみに、現在の「読売新聞社」の社名は、江戸時代の「読みながら売る」方法である「読売」にちなみ、誰にでも読みやすい新聞を目指すという意味を込めて名付けられたといわれています)
テレビや新聞、雑誌、インターネット、SNSといった情報メディアが存在しなかった時代において、「瓦版」は人々にとって大切な情報伝達の手段であり、同時に娯楽のツールでもありました。
今回は、さまざまな話題を発信し、お江戸のワイドショー的な役割を果たしていた「瓦版」についてご紹介します。
※「瓦版」という呼び方は、実際には江戸後期から幕末にかけて使われるようになったとされていますが、本文中ではわかりやすさを優先して「瓦版」の表記で統一しています。
「瓦版」を売るスタイルは2種類あった
最初に登場した瓦版は、1615年(元和元年)大坂夏の陣の結末を報じた『安部之合戦之図」と『大坂卯年図』が知られ、現存しています。(ただし、当時のものと証明できる直接的な証拠はありません)
このときの瓦版は、のちに「無許可で発行される瓦版」とは異なり、幕府が命じて作らせたもので、幕府側の圧勝を強調し、徳川の世の到来を世に知らしめる「官製」的なものでした。
その後、庶民の間で瓦版が売り買いされるようになったのは、天和2年(1682年)に発生した『八百屋お七の火事』の頃から、という説もあります。
「瓦版売り」といえば、手拭いを頭にかぶって「てえへんだ!てえへんだ!大事件だ!」などと大声で叫びながら、片手に瓦版、片手に箸のような木の棒を持って、売り歩いている姿を想像する方が多いのではないでしょうか。
実際に彼らは、町中を瓦版を読み上げながら売り歩いていたので、「読み売り」「辻売りの絵草紙」とも呼ばれていました。
また、露店や絵草紙店などの店頭で売ることもあり、サイズや料金は時代とともに変動していました。
内容は、天変地異、大きな災害、火事、心中事件のほか、「江戸麻布の大猫」などの妖怪出現ネタ、娯楽ネタ、ガセネタなど多岐にわたります。
多くは1枚もので「絵入り」のものもあり、浮世絵師の作風を取り入れたものもあり、歌川国芳らの作品を思わせる絵も見られました。
顔を隠して売っていた
冒頭で触れたような、「てえへんだ!てえへんだ!」と大声で売り歩くスタイルは、実際には江戸時代初期には存在せず、登場したとしてもかなり後期になってからと考えられています。
いわば、後世のイメージや演出によって定着したものといえるでしょう。
延宝元年(1673年)には、出版規制令によって「噂事や人の善悪」に関する内容の出版が禁じられ、瓦版もその対象となりました。
さらに、貞享元年(1684年)には「当座のかわりたる事」などの一時的な話題の印刷物も禁止され、辻や橋のたもとでの販売行為自体が処罰の対象となったのです。
享保改革期には、特に好色ものの出版が厳しく規制される一方で、忠孝や慈善を奨励する内容のものはむしろ歓迎されました。
享保7年(1722年)には「筋無き噂事並に心中の読売を禁じる」という法令が出され、享保9年(1724年)にも「御曲輪内での読売をしてはならぬ」という規制が加えられました。
これらの規制からも、瓦版の内容や販売方法がたびたび問題視されていたことがうかがえます。
さらに、寛政2年(1790年)には、老中・松平定信によって「出版取締令」が発布され、出版統制がいっそう強化されました。
こうした厳しい状況の中で、街中で目立つようなパフォーマンスを伴う売り方は現実的ではなく、実際には尖った形の編笠を目深にかぶって顔を隠し、二人一組でひっそりと売り歩くスタイルが主流だったとされています。
このような販売では、一人が節をつけて瓦版の内容を読み上げ、もう一人が役人の巡回を警戒して周囲を見張るという分担がなされていたそうです。
ゴシップや真偽不明の噂話よりも、実際には信ぴょう性の高い時事ネタや、御政道(政治)を批判するような記事がよく売れたそうです。
しかし、御政道批判は当然ながら取り締まりの対象となるため、そのような内容を扱う瓦版は、木版印刷ではなく筆写によって作成されていました。
売り手は瓦版を売り終えるとすぐに姿を消し、買った側も処罰の対象になるおそれがあったため、読み終えるとすぐに燃やして処分するという、非常にスリリングな販売方法でした。
「見てはいけない」とされる情報ほど、人々は見たい・読みたいと思うもの。
瓦版は、たびたび規制の対象となりながらも、江戸の庶民の間で根強い需要があったのです。
どこが燃えているか分かる「火事速報」
「瓦版」の題材の中で、特に売れたとされるのが、火事の速報を伝える『方角場所付(ほうがくばしょづけ)』です。
切り絵図という既存の版下に、火事が発生している地点を赤く刷る方法で、その日のうちに刷りを重ねることで、どこでどれくらい火事が広がったのかリアルタイムで発信することができました。
人々は、この瓦版を被災者への見舞いの気持ちとして購入し、買いそびれたり購入しなかったりすると、「不人情な人間だ」と陰口をたたかれることもあったと伝えられています。
また、火事に地震が伴った場合には、地下に棲む巨大な鯰(なまず)が暴れて地震を起こすという民間信仰に基づき「鯰絵」というユーモラスな絵が掲載されることもありました。
これは、厄落としや災厄の笑い飛ばしとしての意味合いを持っていたと考えられています。
瓦版から知る江戸時代の文化
瓦版は、江戸時代における重要な情報源であると同時に、多くの人々の手によって生み出される「作品」でもありました。
文章を書く人、挿絵を描く絵師、原稿を版木に彫る彫り師、そして版木に墨をのせて刷り上げる刷り師など、複数の職人たちが連携し、速報性を求められる中で迅速に仕上げていたのです。
小規模な瓦版業者の中には、これらの工程を一人でこなしていたところもあったようです。
人々の関心を引き、売れ行きを伸ばすためには、「話題性のある内容」に「絵」を添えるという工夫が欠かせませんでした。
この点は、江戸時代も令和の現代も変わらないところかもしれません。
たとえば、「漁船を悩ませていた人魚を捕獲」といった記事では、鬼のような顔を持ち、胴体に目のある不気味な人魚の姿が描かれていました。
どう見ても実話とは思えない内容ですが、売る側も買う側も、半ば冗談と理解したうえで楽しんでいたと考えられています。
最後に ~あのアマビエも瓦版に
ちなみに、近年のコロナ禍において話題となったのが、「疫病退散」に効能があるとされる妖怪「アマビエ」です。
このアマビエも、江戸時代の瓦版に登場した存在とされています。
江戸時代後期の弘化3年(1846年)ごろ、肥後国(現在の熊本県)の海で、夜ごとに海面が光る現象が続いたため、地元の役人が調査に出向いたところ、突如として異形の存在が姿を現したといいます。
その存在は自らを「アマビエ」と名乗り、
私ハ海中ニ住アマビヱト申者也。当年より六ヶ年之間諸国豊作也。併病流行、早々私ヲ写シ人々ニ見セ候得。
(私は海中に住むアマビエという者です。今年から6年間は諸国が豊作になりますが、同時に病が流行します。私の姿を描き写して、人々に見せなさい)
と語ったと伝えられています。
そして令和の時代、多くの人々がアマビエの絵を描いてSNSで発信する動きが生まれ、厚生労働省も公式SNSでアマビエのイラストを啓発用に活用するなど、一部の民俗ファンにしか知られていなかったこの妖怪が、一気に全国、さらには海外にも知られる存在となりました。
現代は、江戸時代と比べて情報の伝達技術がはるかに発達しています。
しかしながら、「怖い」「不気味」「不思議」といったキャッチーな話題が人々の関心を引きつける点は、今も昔も変わりません。
「これは大変だ、誰かに知らせなければ」という拡散の心情は、普遍的な人間の性と言えるでしょう。
参考:
森田健司『かわら版で読み解く江戸の大事件』
杉浦日向子監修 『お江戸でござる 現代に生かしたい江戸の知恵』
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部