2万人が命を落としたガダルカナルの戦い「戦病死者が戦死者を上回る」
1942年から1943年にかけて繰り広げられたガダルカナル島の戦いは、太平洋戦争において最も激しく、かつ重要な戦闘のひとつとして知られている。
戦場となったソロモン諸島のガダルカナル島には、日本軍が建設中の飛行場があり、これを巡って連合国軍と日本軍の壮絶な争奪戦が行われた。
この戦いは戦局を大きく変える転換点となり、連合国軍が太平洋戦線で攻勢に転じる契機となった。
戦場は、過酷な自然環境に加え、飢餓や病気が兵士たちを襲い、まさに「地獄の惨劇」と言うべきものであった。
戦いの背景
1941年12月の真珠湾攻撃によって始まった太平洋戦争で、日本軍は南太平洋の島々を次々と占領し、連合国軍の反撃を阻止するための拠点を築いていった。
その中でも、ガダルカナル島は特に重要な戦略的価値を持っていた。
日本軍はこの島に飛行場を建設し、太平洋全域の制空権を確保することを目指していたのだ。飛行場の完成は、アメリカ軍の補給路を脅かす可能性があり、連合国軍にとっても脅威であった。
しかし、1942年6月のミッドウェー海戦で日本海軍が大敗を喫し、戦局が一変。
アメリカ軍はこの機会を逃さず、ガダルカナル島を攻撃することを決定する。
日本軍の進出を阻止し、戦局を逆転させるための重要な第一歩として、この島での戦いが始まったのだ。
アメリカ軍の上陸と日本軍の反撃
1942年8月7日、アメリカ海兵隊が約11000名を投入し、ガダルカナル島に上陸した。
この上陸作戦は、アメリカ軍にとって初の大規模な反攻であり、日本軍の建設中の飛行場を占領することに成功した。
占領された飛行場は「ヘンダーソン飛行場」と命名され、連合国軍の制空権確保の拠点となった。
当初、日本軍はアメリカ軍の上陸を本格的な侵攻と見なしておらず、十分な備えが整っていなかったため、島の守備隊は劣勢に立たされた。
しかし、飛行場の奪還を目指して日本軍は反撃を開始し、夜間に駆逐艦や高速船で増援を送り込む「東京急行(鼠輸送)」作戦を繰り返し実施した。
この戦術は夜間の戦闘で一定の成果を上げたものの、十分な補給を行えず、戦力の増強には限界があった。
過酷な環境と兵士たちの苦闘
ガダルカナル島での戦闘は、戦闘そのものの熾烈さに加えて、苛酷な自然環境が両軍に重くのしかかった。
島は熱帯雨林に覆われ、湿度の高い気候とジャングルの険しい地形が戦闘を困難にした。
特に日本軍は補給が滞りがちで、食糧や医療物資が枯渇状態となった。
やがて兵士たちは「餓島」と呼ばれるほどの極限状態に陥り、飢餓や病気が広がって多くの兵士が命を落とした。
実際、1942年12月から1943年1月にかけては、マラリアや赤痢が蔓延し、戦病死者の数が戦闘による死者を上回っていた。
この苦境を象徴するエピソードとして、ある「生命判断」が兵士たちの間で広まったという。
立つことができる者は寿命が30日、座ることができる者は3週間、寝たきりの者は1週間、寝たまま小便をする者は3日、話せなくなった者は2日、まばたきをしなくなった者は翌日。
これは辻政信参謀の著作や、小尾靖夫少尉の手記などに記録されている。
また、小尾少尉は手記の中で「元旦の食糧は、乾パン2粒とコンペイトウ1粒のみ」とも述べており、その極限状態を物語っている。
一方、アメリカ軍も過酷な環境の中で戦っていたが、海上補給路を確保していたため、食料や医療品は比較的安定して確保することができていた。
ソロモン海戦と制海権の争奪
ガダルカナル島を巡る戦いは、地上戦だけでなく海上でも激しい戦闘が繰り広げられた。
特に1942年11月に行われた第三次ソロモン海戦は戦局の分岐点となり、この戦いでアメリカ軍が勝利を収めた結果、日本軍はガダルカナル島への補給線を維持することが困難となった。
輸送船や駆逐艦の損失が相次ぎ、補給が滞ったため、戦力が著しく低下し、兵士たちはさらに飢餓と病に苦しむこととなった。
日本軍の撤退とアメリカの勝利
そして1943年1月、日本軍はガダルカナル島からの撤退を決定した。
これは戦略的な転進と発表されたが、実際には持久戦における敗北を意味していた。
撤退は1943年2月に完了し、残された兵士たちの多くは、飢餓と病によって戦闘不能に陥っていた。この撤退は日本軍の戦略にとって大きな打撃となり、以降の太平洋戦争では防戦一方に追い込まれることとなる。
戦いの影響
ガダルカナル島の戦いは、双方に甚大な犠牲を強いた。
日本軍は約30000人をガダルカナル島に投入したが、そのうち約20000人が戦死または戦病死した。
戦闘による死者はおよそ5000人で、残りの15000人以上が飢餓や病気(マラリアや赤痢など)で命を落としたとされている。
一方、アメリカ軍も、約7000人の犠牲を払う激戦であった。
この戦いを通じて、適切な補給と衛生管理が長期戦での戦力維持に不可欠であることが改めて示された。
また、ガダルカナル島の戦いは太平洋戦争全体における重要な転換点であり、連合国軍が主導権を握る契機となった。
この勝利により、アメリカ軍は攻勢に転じるための足場を築き、日本軍は各地で防戦を余儀なくされた。
戦後、この戦いで失われた多くの命を追悼するために慰霊碑が建てられ、現在もその記憶が伝えられている。
参考 :『ガダルカナル島の近現代史』著者:内藤 陽介 『南東方面海軍作戦』戦史叢書
文 / 草の実堂編集部
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