正月の風景は、お嫁さんたちの我慢で成立していた
今回は、とても個人的なことを書きたい。
親戚の伯母が亡くなった。正確には、元伯母が亡くなっていたことを、私はつい最近知った。亡くなってから二年も経っていた。
「せっちゃんが死んだことを知らされていなかったのは、うちだけだったみたいよ」
と、母が言った。
亡くなっていたのは、私の父の次兄の元妻・セツコさんだ。
私の父は4人兄弟の末っ子で、一番上がトシコ伯母さん、次が長男のトシオ伯父さん、次男のトオル伯父さん、そして三男である父。
父方の祖母は教育熱心な人で、息子3人を全員大学へ行かせた。けれど実は、4人の中で一番頭が良かったのは長女のトシコ伯母さんだったという。
祖父の頭が古く、「女に教育は不要だ」と言ったため、トシコ伯母さんは高校までしか行かせてもらえなかったそうだ。
長男は関西大学、次男は一浪して慶應へ。
大学進学者が少なかった時代に息子が慶應に受かったことで、祖母は鼻高々だったらしい。
だが現実は、神戸に暮らす普通のサラリーマン家庭。息子を東京の私立大学へ行かせるのは無理の連続だったという。
次男にかかる学費と仕送りが家計を圧迫する中で、祖母は父にこう命じたそうだ。
「浪人は許さない。家から通える国立大で、医学部なら進学を許す」
父は言いつけに従って神戸大学の医学部へ進み、医者になった。祖母にとっては、これもまた自慢の種だった。
進学を諦めて就職したトシコ伯母さんは、早々に結婚して実家を出たあと、主婦として家庭を切り盛りしながら書家として成功し、大金を稼ぐようになった。
一方、私の母を含めた3人のお嫁さんたちは、子供達が大きくなるまで専業主婦として家庭に仕えた。
長男の妻・ユウコさんはおとなしくて優しい女性。
次男の妻・セツコさんは世話焼きで、下町出身の江戸っ子。
二人とも人柄が良く、良い妻であり母であったけれど、祖母とトシコ伯母さんにひどく虐げられた。理由はほとんど言いがかりだ。
ユウコさんには、
「男に養ってもらわないと生きられない無能」
と言い放ち、セツコさんには、
「下町の女で家柄が悪い」
と言って見下した。
いや、実際の理由はもっと単純で醜い。
美人が嫌いだったのだ。
祖母もトシコ伯母さんも自分の容姿にコンプレックスがあり、ユウコさんのように可愛い女性や、セツコさんのように華のある美人を見ると嫉妬が疼いたのだろう。母の見立てはそうだった。
私の母は大卒で薬剤師免許があり、実家も医者の家系だったため、一目置かれていじめを免れた。
父が母親に冷淡で、「うちに迷惑かけたら縁を切る」とまで言ったのも功を奏した。おかげで祖母は父に逆らえず、私たち家族にはほとんど干渉しなかったのだ。
また、トシコ伯母さんは弟たちに多額の援助をしていたが、父だけはトシコ伯母さんからお金を受け取っていない。
トシコ伯母さんは弟たちが家を建てるときに頭金を出し、特に生活が不安定だったトオル伯父さんには、くり返しお金を渡した。それを背景に、彼らに偉そうにふるまっていたのだ。
私は、セツコさんには恩を感じている。
大学受験のとき、1週間ほど家に泊めてもらい、世話をしてもらったのだ。
セツコさんは江戸っ子らしくチャキチャキしていて、面倒見がよく、よく働く人だった。
でも、朗らかな笑顔の裏で、どれほどの我慢を重ねていたのだろうか。
当時から、セツコさんは不定愁訴に苦しんでいた。心労の蓄積が不調の原因だったのではないだろうか。
夫であるトオル伯父さんは、40代で大手企業のサラリーマンを辞め、山師のようにさまざまな事業を始めては失敗し、ついには50代で自己破産した。
家計は火の車で、しまいにはどうやりくりしても食べていけなくなり、トシコ伯母さんを頼ることになった。
トシコ伯母さんから生活費の援助を受け、自立できずにいた次女に見合い相手も世話してもらったのだ。
背に腹は変えられないとはいえ、自分を長年いじめてきた相手に頭を下げるのは、セツコさんにとって屈辱に胸が焼ける思いだったろう。
一方のトシコ伯母さんにとっても、はらわたが煮える思いだったようだ。弟にいい顔をしたいがために、気前の良いフリをして援助を続けたが、
「私の稼いだお金があの女(セツコさん)の生活費に消えていると思うと、腹がたつ」
と、陰口に余念がなかった。
トシコ伯母さんの世話により次女が結婚して家を出ると、セツコさんはついに離婚した。けれど、熟年離婚の決定打は夫の破産ではない。
姑(私の祖母)に勝手に名前を使われて、身に覚えのない借金を作られていたのだ。
私の祖母は、子育てを終えた後に買い物依存症になっていた。
92歳まで長生きしたが、半世紀の間に総額で億を超える借金をしながら浪費を重ね、その尻拭いを子供たちにさせていたのだ。
祖母は自分の名前で借金をするだけでは足りず、ユウコさんやセツコさんの名前も使ってクレジットカードを何枚も作り、借金を膨らませていたのだった。
人の優しさや我慢には限界がある。
我慢に我慢を重ねてきたセツコさんも、ついに糸が切れたのだ。
離婚してS家を去った後も、セツコさんからは、ずっと年賀状が届いていた。
祖父母が亡くなって以降は親戚とも疎遠になり、次第に頼りが途絶えていくなかで、彼女だけは私に宛てた年賀状を欠かさなかった。
しかし私は、一時期それを返さなかった。
当時の私は、結婚生活が破綻し、二人の幼い子供を抱えて必死に生きていた。
人生がうまくいかず、卑屈になり、昔の自分を知っている人と関わることが辛かったのだ。
思い返せば恥ずかしい。
セツコさんのほうこそ、私よりもっと苦しい人生を送っていたのに。
連絡を無視しつつも申し訳なさが心に引っかかっており、今の夫と再婚して暮らしが落ち着いた頃、私は年賀状に近況を綴ってセツコさんに送った。
すると返事が来た。
「よかった。もう私とは関わりたくないのかと思った」
違う。そうじゃない。私の心が未熟だっただけなんです。
けれど、再び年賀状のやり取りが始まった矢先に、今度は年賀状仕舞いの連絡が来た。寂しかったけれど、年齢のこともあるのだろうと受け止めた。
最後に、これまで優しくしてもらったお礼に手紙を書いた。すると、温かい返事が送られてきた。
「この先どんなことがあっても、あなたなら大丈夫よ」
それが二年前のこと。そして、その頃もう、セツコさんは死につつあったのだ。
死因は頭蓋内出血。脳腫瘍があったらしい。
優しい人は、静かに、あっけなく逝く。それは、心身をすり減らしながら生きてきた証でもあるけれど。
年末が近づくと、私はよく昔のことを思い出す。
私が二十代前半まで、父方の家族は毎年、神戸の祖父母宅に集まって大晦日とお正月を過ごした。
お嫁さんたちは三人そろって台所に立ち、祖母に指図されながらおせちを作り、お雑煮を用意した。私はその光景を「正月の風景」としか思っていなかった。
でも今なら分かる。
あの場は、お嫁さんたちの我慢で成立していたのだ。
自分を嫌っている義両親の家に毎年通わされるのは、どれほど辛かっただろうか。
その積み重ねは深い恨みになり、祖父母が死んでも、夫と離縁しても、消えなかったのだろう。
「私が死んでもS家の人たちには知らせないで」
と言い残したと聞いているが、ひょっとしたら、そう決めたのは母親の苦労を知っている娘たちだったかもしれない。
そうは言っても、セツコさんと同じ苦労を味わったユウコさんには連絡が来たらしく、トシコ伯母さんにはトオル伯父さんから報告があったらしい。
普段交流もなく、遠く離れた地に住む私たちだけが、何も知らされなかった。
今の時代、家族関係は昔より希薄になった。
正月に必ず夫の実家へ行く必要もない。でもきっと、そのほうが健全だ。
最後に、セツコさんに言いたい。
血のつながった祖母よりも、トシコ伯母さんよりも、血のつながりのないあなたが私は好きでした。
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【著者プロフィール】
マダムユキ
ブロガー&ライター。
「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。最近noteに引っ越しました。
Twitter:@flat9_yuki
Photo by :Emil Karlsson