横浜大空襲から80年 「一六縁日」と戦争の記憶 中区伊勢佐木町在住 久保照夫さん
伊勢佐木町7丁目商店街にある「子育て地蔵尊」を中心に長年行われている「一六縁日」が、今年も6月1日から始まる。一六縁日は戦後、関東大震災と横浜大空襲で亡くなった人たちの供養を込め、その霊を慰める目的で毎月1と6が付く日に行われるようになったといわれる。
1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲から80年-。子育て地蔵尊の名誉総代で、同商店街で生まれ育った久保照夫さん(92)=中区伊勢佐木町=が、当時の記憶をたどった。
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戦時中、日枝小学校に通っていた久保さんの実家は、伊勢佐木町7丁目商店街の一角で「のまや」の屋号で、かんざしやつげぐしを扱う小間物屋を営んでいた。商店街には店舗兼住宅の長屋が立ち並び、家の前には各家庭に1つ、防空壕が掘られていたという。「空襲警報があるたびに、店の売り物など何でも防空壕に入れたもんです」
覚えているのは、操縦士が見えるのではないかと思うほど頭上近くを行き交っていた戦闘機。「関東学院周辺を旋回して。撃ち落とそうと思ったんじゃないかな」。戦争が激化する中、一人っ子だった久保さんは小学校の卒業を機に、親戚のいる長野県に母と疎開した。横浜大空襲は、そのわずか2カ月後。5月29日午前、B29など米軍の爆撃機が横浜に襲来。約1時間で数十万個の焼夷弾を投下し、市街地が壊滅した。約8000人の死者が出たといわれる。
横浜に残って店を守っていた父は、身一つで根岸競馬場近くまで逃げて助かったが、伊勢佐木町一帯は焼け野原に。「残ったのは(鉄筋コンクリートの)野澤屋くらい。焼夷弾が頭を直撃するほど雨のように降ってきた」。そんな話を聞き「父も逃げる方向を誤っていたら」と震えた。
終戦から1年後に疎開先から戻ってくると、街は一変。街の至る場所が米軍に接収され「商店街に平行して飛行場(若葉町付近)ができていたのには本当に驚いた」と振り返る。戦後の混沌とした中「店の区画は陣取り合戦のように早いもの勝ちで決まり、商店街が再建していった」という。
一六縁日が始まったのは、戦後4、5年が経った頃と記憶している。子ども時代にも縁日はあったが、思い出す風景は、我が子の手を引いて訪れた平和な日本になってからの縁日だ。今も変わらない綿菓子や射的、金魚すくいなどの屋台のほか「本を10冊ほど束ねて100円で売る本の叩き売りなんかもあってね」「昔の縁日は夜中までやっていたもんだよ」と懐かしむ。今では地蔵尊も縁日の名から「一六地蔵」と呼ばれるように。
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今年の縁日も約45店の屋台が並ぶ。路上ライブも行い、地域交流を深める場にも。「どこからこんなに集まって来ているんだろうと思うほど縁日には子どもたちがたくさん来る」と商店街の人が驚くほど賑やかだ。縁日は6月〜8月の1日、6日、16日、26日(路上ライブは6月1日、7月6日・26日、8月16日)。17時〜21時。雨天中止。