生誕75周年!松田優作「最も危険な遊戯 / 殺人遊戯 / 処刑遊戯」を斜め上から検証してみた
プログラムピクチャーとは?
2024年9月で生誕75年となる松田優作の代表作の1つに数えられる『最も危険な遊戯』の公開期間はわずか3週間に過ぎなかった… 。
1950年代から70年代にかけて、大手映画会社は、次々に新作を提供することで観客を映画館に呼び込むことを目的とし、1年間で100本以上の映画を量産、その多くを2本立てで上映していた。こうした年間の上映プログラムに基づいて制作された映画を “プログラムピクチャー” と呼ぶ。量産体制により、映画会社は安定した収益を確保していた。プログラムピクチャーの多くは低予算または中規模の映画が中心で、観客の娯楽ニーズを満たすために作られていた。しかし、すべてが低予算映画というわけではなく、例外的にオールスターキャストの豪華な作品が含まれることもあった。黒澤明のような大物監督による大作や、一部の芸術性の高い作品を除けば、大手映画会社が制作した映画の多くはプログラムピクチャーに該当するといっていいだろう。
しかし、テレビに “娯楽の王様” の座を奪われた映画産業は斜陽化が進み、量産体制もやがて限界を迎える。そこで各大手映画会社は、1本立ての大作映画を中心とした体制への移行を模索するようになる。つまり、1作品に集中して大規模な予算と宣伝費を投じ、長期間にわたって上映することで、大きな興行収入を狙う戦略へとシフトしていったのである。
松田優作こそプログラムピクチャー最後のスター
1970年代後期は、大作映画とプログラムピクチャーが並行して公開されていた過渡期であった。そんな時期に、東映におけるプログラムピクチャーのスターとして傑出した存在だったのが松田優作である。現在の視点で振り返ると、松田優作こそプログラムピクチャーの最後のスターだったのである。
1970年代の東映は、看板だったやくざ映画が頭打ちになってくると、スケバン路線やポルノ路線、さらに千葉真一や志穂美悦子を柱とした空手映画など、新たなジャンルを開拓しながらプログラムピクチャーを制作していた。東映のプログラムピクチャーは、若者のデートや小さな子どもがいる家族での鑑賞には適さなかったかもしれない。しかし、厚い支持層が存在した。映画業界全体が大作偏重の流れに向かう中、東映はそうした層を重んじた。そして、1977年にプログラムピクチャー制作を強化すべく日活から招いた黒澤満プロデューサーを軸に「東映セントラルフィルム」(*1)を設立。その第1作が『最も危険な遊戯』であり、シリーズ化され、『殺人遊戯』『処刑遊戯』と続いていった。
この “遊戯シリーズ” は、松田優作が演じる殺し屋の鳴海昌平を主人公としたアクション作品であり、いずれも村川透監督が作り上げた無国籍でハードボイルドな世界と、撮影担当である仙元誠三による独特な映像美が全編を通して一貫していた。ただし、遊戯シリーズの作品論については、これまでに語り尽くされているので、ここでは踏み込まないことにする。では何をするのか? 遊戯シリーズが、いかにプログラムピクチャーらしいプログラムピクチャーだったかということを、3つのポイントで考察することにしたい。それは、
▶︎ ① 同時上映作
▶︎ ② 前後の公開作
▶︎ ③ 女性の相手役
である。
「最も危険な遊戯」同時上映は小林旭版「多羅尾伴内」
プログラムピクチャーの特徴として、2本立て上映が挙げられる。遊戯シリーズが、どのような作品と組み合わされて上映されていたのかを振り返ることで、シリーズの位置づけやターゲット層をより鮮明に理解できる。プログラムピクチャーとしての本質は、こうした2本立て上映の文脈から見えてくることがある。
シリーズ第1作『最も危険な遊戯』(1978年4月8日公開)の同時上映作品は『多羅尾伴内』(監督:鈴木則文・主演:小林旭)である。かつて片岡千恵蔵の当たり役だった “多羅尾伴内" に、小林旭が挑戦した作品だ。映画界では小林旭の方が松田優作より格上であるため、当時のプロモーションでは 『多羅尾伴内』がメインで、『最も危険な遊戯』はサブという扱いだった。今、考えると当時39歳の小林旭のファン層と、28歳だった松田優作のファン層が重なっていたとは思えない。また、小林旭版『多羅尾伴内』は、猟奇的で湿度の高い作風であり、村川透監督が描くドライで洗練された『最も危険な遊戯』の世界とは異質なものだった。だが、こうしたチグハグなパッケージこそが、プログラムピクチャーの妙味でもあった。ちなみに、若き日に小林旭に憧れていた松田優作自身は、この組み合わせを大変に喜んでいたとされる。
これに対し、2作目の『殺人遊戯』(1978年12月2日公開)の同時上映作品は、同系統に分類される映画だった。『皮ジャン反抗族』(監督:長谷部安春・主演:舘ひろし)である。このときは『殺人遊戯』がメインで、『皮ジャン反抗族』がサブ扱いだった。ちなみに、舘ひろしの映画デビュー作は1976年の『暴力教室』で、教師役の松田優作と不良生徒役の舘ひろしが激突する濃厚な学園バイオレンス作品だ。
『暴力教室』は松田優作の東映初主演作でもある。それから2年後の『皮ジャン反抗族』での舘は、自動車修理工場で働き、ディスコに通うバイカーを演じた。当時、東映は舘ひろしを松田優作に続くスターとして売り出そうとしていて、その意図が強く感じられる組み合わせであった。
1970年代後期から1980年代にかけての東映は、自前の映画と香港映画をセットで上映することがあった。そう、遊戯シリーズ第3作『処刑遊戯』(1979年11月17日公開)は『スネーキーモンキー 蛇拳』(監督:ユエン・ウーピン、主演:ジャッキー・チェン)と2本立てだった。同年8月4日に『トラック野郎 熱風5000キロ』との併映で上映された『ドランクモンキー 酔拳』の大ヒットにより、日本でジャッキー・チェンブームが巻き起こりつつあった。そんなタイミングでの公開だったため、ジャッキー・チェン目当てで劇場に足を運び、結果として『処刑遊戯』にも魅了された観客も多かったかもしれない。
遊戯シリーズ前後の公開作品
次に、各作品の前後に東映系で公開された作品についてチェックしたい。遊戯シリーズが公開された時代は、大作主義が進行しつつも、プログラムピクチャーの存在が依然として大きかった時期だ。前後にどんな作品がラインナップされていたかを確認することで、同シリーズのポジショニングがより理解しやすくなる。
まずは、『最も危険な遊戯』&『多羅尾伴内』から。
ⓒ 東映
▶ 1978年1月21日『柳生一族の陰謀』
▶ 1978年3月18日『東映まんがまつり』
▶ 1978年4月8日『最も危険な遊戯』&『多羅尾伴内』
▶ 1978年4月29日『宇宙からのメッセージ』
▶ 1978年6月3日『沖縄10年戦争』&『生贄の女たち』
『柳生一族の陰謀』は、萬屋錦之介主演のオールスター時代劇であり、『宇宙からのメッセージ』は、『スター・ウォーズ』(いわゆる『エピソード4』)の日本公開に先駆けて制作された和製スペースオペラだ。いずれも深作欣二監督の作品である。春休み期の『東映まんがまつり』を別枠とすると、この2つの大作に挟まれる形で『最も危険な遊戯』が公開された。注目すべきは、その公開期間の短さだ。前述のようにわずか3週間という限られた期間だった。今日では松田優作の代表作のひとつとされる同作が、当時はこれほど刹那的な存在だったのだ。これこそプログラムピクチャーの象徴だといえる。
続いて、『殺人遊戯』&『皮ジャン反抗族』の前後の作品を並べてみたい。
ⓒ 東映
▶ 1978年10月7日『ダイナマイトどんどん』&『ギャンブル一家 チト度が過ぎる』
▶ 1978年10月28日『赤穂城断絶』
▶ 1978年12月2日『殺人遊戯』&『皮ジャン反抗族』
▶ 1978年12月23日『トラック野郎 一番星北へ帰る』&『水戸黄門』
▶ 1979年1月20日『悪魔が来りて笛を吹く』
『赤穂城断絶』は、『柳生一族の陰謀』のヒットを受けて制作された萬屋錦之介主演によるオールスター忠臣蔵映画で、5週間公開された。年末には『トラック野郎』と、お馴染みのテレビドラマを映画化した『水戸黄門』という娯楽度の高い二本立てが控えている。その間のわずか3週間、若年層を狙った『殺人遊戯』&『皮ジャン反抗族』が挟み込まれた。東映はこの3週間を重要視していたのだ。
次の『処刑遊戯』は過去2作のヒットで予算がアップしたとされるが、前作から約1年間のブランクが空いた。その1年間で松田優作は猛烈に働き、東宝の『乱れからくり』、東映セントラルフィルムの『俺達に墓はない』、そして角川映画の『蘇える金狼』と、3本の映画に主演していた。『蘇える金狼』は都心では、大作扱いの1本立てであったが、他は2本立てでの公開。やはり、松田優作はプログラムピクチャー最後のスターなのだ。
それを確認しつつ、『処刑遊戯』&『スネーキーモンキー 蛇拳』の前後の作品もリストアップしよう。
ⓒ 東映
▶ 1979年10月6日『暴力戦士』&『天使の欲望』
▶ 1979年10月27日『日本の黒幕』
▶ 1979年11月17日『処刑遊戯』&『スネーキーモンキー 蛇拳』
▶ 1979年12月22日『トラック野郎 故郷特急便』&『夢一族 ザ・らいばる』
▶ 1980年1月19日『動乱』
田中健主演の『暴力戦士』は、ハリウッド映画『ウォリアーズ』を意識して作られた作品だが、不入りで一部劇場では『蘇る金狼』と『ドランクモンキー 酔拳』がセットで代替上映されるほどだった。さらに、右翼の大物を描いた大作『日本の黒幕』も興行が振るわなかった。その結果、『処刑遊戯』&『スネーキーモンキー 蛇拳』の公開が早まり、上映期間は5週間と長くなった。松田優作とジャッキー・チェンのタッグは強力だった。なお、年末定番の『トラック野郎』の次に控えていた『動乱』とは、高倉健と吉永小百合が初共演を果たした大作だった。
「処刑遊戯」の相手役は、シンガーソングライターのりりィ
遊戯シリーズは低予算であることも手伝い、松田優作以外に男性の主演級のスターは出演していない。鳴海昌平がベッドインする女性のキャラクターは毎回出てくるが、それも必ずしも大物俳優が演じていない。そこがいい。
『最も危険な遊戯』で松田優作の相手役を務めたのは新人女優の田坂圭子だ。反社会的人物の愛人にさせられた元外科医を演じた。演技は拙かったものの、無国籍で虚構感の強い遊戯シリーズでは、それはそれでアリだった。かなり大胆なヌードシーンに挑むなど作品に対する意気込みが感じられたが、この映画が唯一の出演作となっている。テレビドラマ出演も確認できず、同時期に雑誌のグラビアページに登場した以外、芸能活動の記録は残っていない。むしろ、他で見られない田坂圭子の存在が、『最も危険な遊戯』の価値を高めていると言える。
次に『殺人遊戯』では、シリーズ中もっとも安定した女性の相手役として、中島ゆたかが登場する。『トラック野郎 御意見無用』のマドンナ役などで知られるプログラムピクチャーの常連であり、その長身と無国籍なムードが、ハードボイルドな作品世界に実にマッチしていた。中島ゆたかは文芸大作の主演を張るようなタイプではなく、こうした作品でこそ光った。『殺人遊戯』で暴力団組長の秘書を演じたのちは、松田優作の『蘇える金狼』にも出演、東映セントラルフィルム作品『薔薇の標的』で舘ひろしの相手役を務めた。
そして、過去2作にあったコメディ要素を排除した3作目の『処刑遊戯』では、意外な人物が相手役に選ばれた。1974年に『私は泣いています』という曲をヒットさせたシンガーソングライターのりりィである。バーのピアニストを演じたりりィはそれまでに多少の演技経験があったものの、俳優として広く知られていたわけではなかった。しかし、そのクセのある芝居は、やはりこの虚構的な世界に妙に溶け込んでいた。
以上のように、遊戯シリーズは、低予算かつ、大作映画に挟まれた短い上映期間ながら、今日まで語り継がれる作品群となっている。“プログラムピクチャー最後のスター” である松田優作がこの世を去ったのは『処刑遊戯』から9年後、リドリー・スコット監督作『ブラック・レイン』でハリウッドに進出した直後、まだ40歳のときだった。
*1=制作部門はのちに「セントラル・アーツ」となる。同社は芸能プロとしての機能も有し、松田優作はそこに所属した。