渋谷金王八幡宮参拝【駅ぶら】06京王電鉄376 井の頭線07
※2024年1月撮影
トップ画像は、渋谷「金王八幡宮」の神門。
境内に入って、脇から神門をもう1枚。
※2024年1月撮影
社殿、門、附 渡り廊下は渋谷区指定有形文化財です。
渋谷区教育委員会の解説板の内容は以下です。
「社記によると、この八幡は渋谷氏の祖、河崎基家が寛治6年(1092)に創建したといわれます。
現在の社殿は、徳川家光が三代将軍に決定したとき、守役の青山忠俊が家光の乳母春日局とともに、慶長17年(1612)に造営を開始したものです。その後たびたび修理されましたが、江戸初期の建築様式をとどめている貴重な建物です。
門は、明和6年(1769)と享和元年(1801)に造られたとする二説があり、江戸中期の建立にちがいありませんが、その後幾度かの修理を経て今日に及んでいます。
このあたり一帯の高台には、渋谷氏の居館があったと伝わり、東に鎌倉街道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬(くろくわ)谷)があって、城館を囲んでいるうえ、かつては数か所に湧泉があるという好条件を備えていました。
しかし、その城館は大永4年(1524)、北条氏と上杉氏の合戦のとき、北条氏の一軍に焼き払われてしまったということです。
平成22年には、社殿に附属してその価値をいっそう高める建造物として、渡り廊下が附として追加指定されました。 渋谷区教育委員会 」
社殿に参道がのびています。
※2024年1月撮影
手水舎で手と口を浄めます。
※2024年1月撮影
これが江戸初期の建築様式をとどめる社殿。神様にご挨拶します。御祭神は、「応神天皇(品陀和気命/ほんだわけのみこと)」。神社のサイトもご覧ください。
※2024年1月撮影
神楽殿。
※2024年1月撮影
境内社「御嶽神社」。
※2024年1月撮影
立札に記載されていた内容は以下です。
「御嶽神社は、開運、商売繁盛の神として、特に客商売を営む人々の信仰を広く集めており、御本社は武州御嶽神社です。御祭神の日本武尊は、古来より武運の守護神として崇められ、この地が、武門の誉れ高き渋谷氏の居城であったことから、ここに祀られたと考えられます。また社前の狛犬一対と鳥居はかつて実践女子学園の校内にあった香雪神社より大東亜戦争後移設したものです。
同じく境内社「玉造稲荷神社」。
※2024年1月撮影
こちらの立札の内容は以下。
「御祭神の宇賀御魂命(うがのみたまのみこと)は、食物・農耕をはじめ商売繁盛・殖産興業に関する信仰のほか、屋敷神としても多く祀られています。
御本社は京都伏見稲荷大社で、稲荷社は全国に約3万社余あるといわれ、最も身近な神社と言えます。また天照皇大神のお食事を司る豊受大神と同神であるといわれています。
渋谷も明治の頃まで稲作が盛んで、多くの信仰を集めていました。都会となった現在でも、その信仰は変わる事無く受継がれています。」
神門の北に「金王丸御影堂」があります。
※2024年1月撮影
小さな御堂です。
※2024年1月撮影
正面。
※2024年1月撮影
立札の記載は以下です。
「金王丸御影堂 御祭神 渋谷金王丸常光 平安末期、渋谷重家夫妻が当八幡宮に授児祈願を続けたところ、八幡神の霊夢により永治元年(1141)8月15日に金王丸が誕生しました。
金王丸17歳の時、源義朝に従い保元の乱に出陣。平治の乱ののち出家し、土佐坊昌俊と称し義朝の御霊を弔いました。
また、頼朝とも親交が深く鎌倉開幕にも尽力。義経追討の命を受け、文治元年(1185)10月23日夜、心ならずも義経の館に討ち入り勇ましい最期を遂げました。
この御影堂には、保元の乱出陣の折、自分の姿を彫刻し母に遺した木像が納められています。更に金王丸が所持していた「毒蛇長太刀」も当八幡宮に保存されています。
次回は「金王八幡宮」の南にあって、やはり渋谷氏が創建したと伝えられる「豊栄稲荷神社」にお詣りします。この神社の赤い鳥居と庚申塔が筆者は昔から好きです。
(写真・文/住田至朗)
※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。
※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。
※参照資料
・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)
・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他
下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました
・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)
・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)