神戸市出身・佐治さん 心に残る30年前の爆裂音
「『ドカーン!』と爆弾でも落ちたかと思うような、今まで聞いたことのない音で目を覚ましました」--。阪神・淡路大震災が発生した1995年1月17日午前5時46分の瞬間を、佐治賢さん(49歳/瀬谷区橋戸)はそう振り返る。
身動きできず
神戸市出身の佐治さんは当時、大学1年生。神戸市北区の実家から、大阪の大学に通っていた。
2階で寝ていた17日早朝、「ドドド」と地鳴りのような音がしたかと思うと、爆裂音が耳をつんざいた。「地震について横揺れ、縦揺れとか言うけれど、どっちに揺れているなんて分からなかった」。身動きできず、声すら出せなかったという。激しい揺れが収まると1階へ。物は散乱していたものの、足の踏み場が無いような状態ではなく、母親と社会人の兄はともに無事。発災時には仕事に出かけていた父親も、その日のうちには無事が確認できた。
友人の境遇に絶句
発災後しばらくは停電もあり、被害の全容を把握できなかった。夕方頃のテレビで、煙が立ち上る長田区や、高速道路が横倒しとなった東灘区の映像を見た時も、「どこか非日常過ぎて現実感が無かった」という。
「自分事」として震災を実感したのは発災2日目。須磨区に住む、同じアメフト部の同級生からの電話だった。その友人は暗い口調で火災で家が燃えてしまったことや、避難所の小学校で生活していることなどを伝え、最後に「前日にショルダー買ったばっかりやったのにな」とポツリと漏らしたという。ショルダーは上半身を守るアメフトの防具で、入学後しばらくは先輩のお古を使うことが多かったそう。「高価なものだし、2年生になる前の冬休みにバイトでもして買ったんだと思う。それが燃えたと聞いて、とてもショックだった」。突如として、理不尽に途絶えた友人の日常。「怒りとも違うし、絶望というとおおげさかもしれないけれど、何かこう胸が引き裂かれそうな想いでした」。
復興ソングに心打たれ
仕事のために3年前から瀬谷区に単身赴任している。妻と2人の娘が暮らす東灘区は、震災で特に被害が甚大だった地域の一つだ。きれいで住みやすい今の街並みを見ると、復興に尽くした先達の「頑張り」と「偉大さ」に胸が熱くなる。
神戸市の学校では、毎年1月に歌われている復興ソングがあるという。震災の直後、神戸市の小学校教員だった臼井真さんが作詞・作曲した「しあわせ運べるように」だ。「地震にも負けない強い心をもって亡くなった方々のぶんも毎日を大切に生きてゆこう」というストレートな歌詞で始まり、神戸市民にとって復興のシンボルと言える曲だという。
2人の娘が小さかった頃からこの曲を歌う姿を見るたびに、「震災の記憶を語り継いでいかないといけない」と想いを強くしたという。「横浜市民もそうだと思うけど、神戸の人って本当に地元が大好き。今は離れているけれど、神戸を盛り上げるために、自分に出来ることが無いか考えたい」と胸に秘める。