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永井荷風・薄田泣菫・堀辰雄の随筆に見る「どうかすると」の散歩【文学をポケットに散歩する/スケザネ】

さんたつ

夕暮れ鐘

文学作品の表現の一節に“散歩”的要素を見出せば、日々の街歩きのちょっとしたアクセントになったり、あるいは、見慣れた街の見え方が少し変わったりする。そんな表現の一節を、作家・書評家・YouTuberの渡辺祐真/スケザネが紹介していく、文学×散歩シリーズ【文学をポケットに散歩する】。今回は、永井荷風、薄田泣菫(すすきだきゅうきん)、堀辰雄の随筆をご紹介します。日常のふとした瞬間を記した文章を読んでいると、よく出会うのは「どうかすると」の一語。昔、アメリカ人の友人に、これってどういう意味と訊かれて、答えに困りました。なんで説明しづらいのかをよく考えると、言葉にし難い一瞬を表現した言葉だからだとふと気がついたのです。そしてその感覚は散歩に必須なのではないか。そんな思いを文章にしています。浅草、奈良、パリと、場所は全く違うのですが、「どうかすると」が導く一瞬を、ぜひ味わってください。

冒頭の“どうかすると”の作用/永井荷風『鐘の声』

住みふるした麻布(あざぶ)の家(いえ)の二階には、どうかすると、鐘の声の聞えてくることがある。

 鐘の声は遠過ぎもせず、また近すぎもしない。何か物を考えている時でもそのために妨げ乱されるようなことはない。そのまま考に沈みながら、静に聴いていられる音色(ねいろ)である。また何事をも考えず、つかれてぼんやりしている時には、それがためになお更ぼんやり、夢でも見ているような心持になる。西洋の詩にいう揺籃(ゆりかご)の歌のような、心持のいい柔な響である。

(永井荷風『鐘の声』)

ぼーん。ぼーん。鐘の音が響く。夕暮れ時だろうか。ぼんやりと窓辺に佇み、原稿を開いた床机に肩肘を突く。階下からは夕食の香りが立ち上ってくる。

江戸情緒を愛した文人、永井荷風の随筆の一節だ。

ここまでとっぷりと作品世界に連れ込まれてしまうのは、冒頭にある「どうかすると」という一語のおかげではないだろうか。

「どうかすると」を辞書で引くと、「〜しがちである」「〜することがある」といった、傾向や頻度を表す表現と説明されている。

異論はない。だが、実際はもっと微妙で消極的な印象を受ける。

ニュアンス込みでさきほどの文章を開いてみると、「原因はよく分からないけど、気がつくと鐘が聞こえてくることがあるんだよね」という感じ。

実際この文章を読み進めていくと、鐘は一日の内に何度も突かれているはずなのに、窓外の音にかき消されてか、窓を閉めていたからか、意識するのはたまにだと述べている。

だが、いざ鐘の音を耳にすると、突然気持ちは一人歩きを始めてしまう。

何をしようという目当も楽しみもないというような時、ふと耳にする鐘の音(ね)は、机に頬杖をつく肱(ひじ)のしびれにさえ心付かぬほど、埒(らち)もないむかしの思出に人をいざなうことがある。死んだ友達の遺著など、あわてて取出し、夜のふけわたるまで読み耽けるのも、こんな時である。

(永井荷風『鐘の声』)

ふと鐘の音を耳にする。いきなり耳に響いてきた。しかも気がつけば思い出に連れ去られてしまう。このえも言われぬ感覚を、表現したのが「どうかすると」だ。

もしこの随筆の冒頭に「どうかすると」が無ければ、鐘の音は客観性を帯びる。一日の内に定期的に鐘が鳴っており、我が家にまで届く様を淡々と述べている感じだ。

だが「どうかすると」が加わることで、誰か他者が来訪してきたような、新鮮な驚きが伝わってくる。

“言ひつけられたやうに歩いて”いる身に吹く一陣の風/薄田泣菫『旋風』

詩人・薄田泣菫の随筆『旋風』にも、「どうかすると」がひょいと顔を出す。

夏の終わり頃、泣菫はひとり奈良の道を歩いている。秋篠寺を出て西大寺村に向かっているのだ。あたりには店も人もない。暑さと空腹と疲労から「唯もう言ひつけられたやうに、すたすたと歩き通しに歩いて」いると、突然、一陣の風が立った。

すぐ手前に刈り込んだやうに、行儀よく立竝んだ麥の穗並が、さつと一搖れ白く搖れて、快活な風が子供のやうに、地べたに轉がり落ちて來た。この頃の照りつづきで乾ききつた路の砂埃が、ぱつとまくし起つて、一煽り煽り立つたと思ふと、先細(さきぼそ)にすぢりもぢつてころころと轉がつて來る。

(薄田泣菫『旋風』)

さきほどまでは、ただぼんやりと歩いていた。はじめこそ、早く目的地に着きたいとかいろいろな想念が渦巻いていただろうが、やがて何かを考えることすらしなくなった。そんな憔悴した身を、旋風が吹き抜けたのだ。

風によって我に帰った様子を、次のように述べる。

私はいつの間にかそこに突立つてゐた。氣難しい顰(しか)めつ面の大自然の重くるしい沈思の底にも、どうかすると蟲が喰つたやうにこんな空洞が出來て、周圍のすべての力が慌てたやうにそこに流れ込む。

(薄田泣菫『旋風』)

「いつの間にか」とあるほどに、さっきまでの歩行の記憶はぷっつりと途切れている。

呼び覚ましてくれたのは旋風だ。その風に導かれるまま、大自然への思索に行き着き、果ては「宇宙の極祕の或る閃き」にまで思いを馳せてしまう。

この様子を端的に示しているのが「どうかすると」である。

荷風が鐘の音に見出したような他者性を、泣菫は風に、そして(比喩として用いられている)「蟲」に感じているからこそ、この一語がここに据えられているのだ。

「どうかすると」が入り込んでくる隙間

僕自身の話になるが、僕は一週間のうち何回かは、「どうかすると」が自分に入り込んでくれるようにしておきたいと思う。

そのために多少のゆとりと多少の制限に挟まれた時間が必要だ。

会社や学校へ急いで向かっている道中に、鐘の音や旋風にハッとすることはできないだろう。どこか目的地や用事に急いでいるときには、無意識に情報をシャットアウトしているからだ。

かといって、本当に何もない手持ち無沙汰なときには、これまた何かを感じられないほど無気力だったりする。

つまり、「どうかすると」が入り込んでくるのは、その隙間だ。荷風も泣菫も、つかれてぼんやりしつつも、原稿仕事や目的地への移動の最中だった。

僕らは、コントロールできるものしか、コントロールできない。

ほぼ何も言ってないような、当たり前のことを書いてしまったが、いたって大真面目だ。

散歩や旅行に行こうと思えば、どのコースを通ろうとか、どんな景色や名所を見ようかなどと、計画を立てることはできる。

だが、その行く先々で突然鐘の音が耳に響いてきたり、風に吹かれたり、予定より一本前の角をふと曲がったり。そういう偶然を、僕たちはコントロールできない。

しかも、アンコントロールな何かは、捕まえ損ねてしまうことがよくある。鐘の音に気がつけないことがある。風が吹いても気に留めないことがある。

そいつらは、いきなりやってきて、気がつかない内に去っていくのだ。

だから僕らはそれを捕まえた(「捕まえられた」が正しいかもしれない)ときに、なぜ捕まえられたのか、こいつらが何者なのか、よく分からない。たまたま口を開けていたら、向こうから口に飛び込んでくるようなものだからだ。

そこで「どうかすると」の出番になる。

“どうかすると”は二重の予想外が待ち構えている/堀辰雄『CARTE POSTALE』

旅でも散歩でも勉強でも対人関係でも、「どうかすると」がほどほどにあると嬉(うれ)しい。

すべてが予想通りではつまらないし、すべてが予想外では疲れてしまう。

しかし「どうかすると」は、天邪鬼な妖精みたいなもので、捕まえようと待ち構えていると現れてくれないし、油断していると取り逃す。

例えば次の文章を読んでほしい。堀辰雄の『CARTE POSTALE』という短い随筆だ。

夕暮である。僕はフランス波止場をぶらりぶらりと歩いてゐる。しやれた煉瓦建てがある。何だらうと思つて、近づいて見ると、中にはほとんど人氣がない。入口のところにも、何も書いてない。そしてただ NO*といふ番號が、何かを暗示するやうに、出てゐるきりだ。そんな建物と建物との間に、大きな空地があつたりする。生ひ茂つた雜草が FOR SALE といふ立札をほとんど見えなくさせてゐる。中には「コノヘンニ狂犬アリオ氣ヲツケナサイ」と書いた奴までが、すつかり隱れてしまつてゐる。そんなところなんかは、發育ざかりの雜草が鋪道にまではみ出してゐる。やつと人ひとり通れるか通れないかぐらゐの鋪石を殘して。どうかすると、小綺麗なコンクリイトの建物の前まで、鋪石と鋪石との隙間から、ペンペン草が生えてゐる。片手にステッキと流行雜誌をかかへた一人の外人紳士が、パイプを口に啣へながら、道ばたの芝生の上に、かれの靴の裏をしきりにこすりつけてゐる。犬の糞でもふんづけたのかしらん?

(堀辰雄『CARTE POSTALE』)

堀辰雄は、「どうかすると」の名人だと思う。

「どうかすると」と前置きをして、女性や菩薩像に何かを見出す様子が、『菜穂子』や『大和路・信濃路』といった小説にも描かれているが、ここで引用した一編はその最上の例だ。

フランスの波止場一帯をぶらぶらと歩く様子を綴るこの短編では、メインで描かれるはずの海に対して「繪はがきのやうにつまらない。」と痛罵する(タイトルの「CARTE POSTALE」は、フランス語で「絵葉書」を意味する)。

彼が目を向けるのは、舗石の間に生えるペンペン草。そして視線を落とした先に、ステッキと靴が見える。その靴の主はベンチで談笑している老夫婦だ。

本来ならメインとなるであろう海に散々悪態をついた挙句、最後にこう結ぶ。

ああさういへば、あのひつそりとした通りはまるで外國から來た繪はがきの裏みたいだな。それもその片隅にちよつと斜に貼つてある郵便切手が何よりも一番うれしい奴。

(堀辰雄『CARTE POSTALE』)

ペンペン草が生えていた通りは、「繪はがきの裏」だと言う。しかも「何よりも一番うれしい」のは「斜に貼つてある郵便切手」だと言うではないか。つまり、ペンペン草はオマケで、老夫婦やこの後言及される建物が「郵便切手」に当たるのだろう。

考えてみれば、荷風も泣菫も、鐘や旋風を頼りに、連想の羽を羽ばたかせていた。決して鐘や旋風自体に、殊更の感動を抱いていたわけではない。

つまり、「どうかすると」は二重の予想外が待ち構えている。

まず、鐘や旋風、ペンペン草といった、予期せぬ何かが現れる。それとうまく出会えたと思うやいなや、次には思いもかけない連想へつながる。それは「死んだ友達の遺著」や「宇宙の極祕の或る閃き」、「老夫婦」といったものだ。

もちろんそれは素晴らしいものとは限らず、斜めになった郵便切手程度のものかもしれない。

でも、予定外のものなんてそんなものだ。

ただ、理由が分からずに、どこかへ連れて行かれるのが楽しいからそれでいい。

「どうかすると」に出会いたいから、出会うつもりなんて全くないフリをして、今日も僕は散歩に出かける。

―出典一覧
永井荷風『鐘の声』青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49639_38507.html

薄田泣菫『旋風』青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000150/files/16039_9547.html

堀辰雄『CARTE POSTALE』青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/47956_39426.html

文=渡辺祐真/スケザネ 写真=PhotoAC

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