時代を駆けた車夫、引退へ 有風亭 青木登さん
東日本初の観光人力車の車夫として、鎌倉のまちを円転自在に駆け抜け42年という月日が経った。観光客や地元住民に親しまれてきた名物車夫・青木登さん(77)が、9月下旬で引退する。「生涯現役を目標にしてきましたが、体力の限界を感じました」。年齢を感じさせないぐらい軽快な足取り、ときおり見せる笑顔は満足げだ。
茨城県の農家に生まれた青木さん。高度経済成長期真っ只中の1963年、中学卒業と同時に戸塚区にあった大手タイヤメーカーに就職した。
その後、流通業界に転身。ちょうどその頃、横浜駅西口の相鉄ジョイナスが開業するタイミングで、婦人服やハンドバッグ販売店の支店長として働いた。「髪は七三分けでスーツを着て今じゃ考えられないですね」と当時を懐かしむ。
仕事に邁進し、売り上げトップになった35歳の時、権力闘争に巻き込まれ、理不尽な扱いを受けた。「悔しくて涙がこぼれました」
週刊誌が転機に
そんな時偶然目にした週刊誌に、飛騨高山の観光人力車が紹介されており、「これだ!」と閃いた。脱サラして自分の身一つで生きていくことを決めた。
すぐに現地に赴き、接客や人力車の操作方法などを実際に乗って学んだ。「私ならもっとお客様を喜ばせる自信があった。舞台は昔から観光地として魅力を感じていた鎌倉に決めていた」
中古の人力車を格安で譲り受け、1984年元日に創業。昼は人力車、夜は喫茶店アルバイトの二重生活を余儀なくされた。心無い言葉を投げかけられた時もあったが、「ただ歯を喰いしばって目の前の仕事に全力を尽くしてきた」。
創業当時、特に印象に残っているのが、北鎌倉の円覚寺前から乗せた女性客。著名な画家だったがそれを知らず接客し、「お付きの方にお叱りをうけました」。以来、観光以外にもさまざまなアンテナを張り、勉強を続けた。
親子3世代で乗車も
しだいに青木さんの仕事ぶりは評判を呼び、リピーターも増加。これまでに10回以上乗車した人は数えきれず、なかには100回以上の人もいるとか。
結婚式では、1万1千組の新郎新婦を送迎した。子や孫が誕生し、親子3世代にわたり利用する人も多い。「お客様の人生の節目に立ち会ってきた。長くやってきたご褒美かも」。乗車延べ人数は12万人を超える。
感謝込め幕引きの会
「生涯現役」を掲げて体を鍛えてきたが、「体力の限界」と引退を決意。青木さんは「ご縁のあった方々に直接感謝を伝えたい」として幕引きの会を企画。「お誘い合わせの上、ご参加いただければ幸いです」と話す。幕引きの会/6月8日(日)、KOTOWA鎌倉鶴ヶ岡会館、午後6時開宴。会費1万円(幼児無料、高校生まで半額)。(問)青木さん【携帯電話】090・3137・6384