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「宮崎ひでじビール」が描く“地域貢献型”ビジネスモデルとクラフトビールの未来

Qualities

1996年。地ビールブームの最中、延岡市の石油卸売企業「株式会社ニシダ」の一部門として生まれた「ひでじビール」。苦しい冬の時代を乗り越え、2010年に当時事業部の統括だった永野時彦氏がEBO(Employee Buy-Out)を通じて事業を引き継ぐことで、宮崎ひでじビール株式会社として独立。その後、日本のクラフトビールを牽引する存在にまで成長することになる。

会社設立は、奇しくも今に続く日本の第二次クラフトビールブームの黎明期と重なっている。しかし畜産・農産王国である宮崎県が、相次ぐ困難に見舞われた時代でもあった。

【黎明期から事業継承までの「ひでじビール」のストーリーは、前編記事にてご紹介しています】

PROFILE

永野時彦

ながの・ときひこ 宮崎ひでじビール株式会社代表取締役/1968年宮崎県西臼杵郡日之影町生まれ。1996年株式会社ニシダに入社、ビール事業部にて統括を務める。2010年EBOによりビール事業部を取得、同年7月「宮崎ひでじビール株式会社」を設立。現在は「(一社)全国地ビール醸造者協議会」副会長、「九州クラフトビール協会」会長などを兼任し、クラフトビール業界の情報発信のほか、健全な発展・育成にも全力を注ぐ。

災難の中での新たな挑戦

〈▲ 世界トップの「旭化成」を有するまち延岡の、鉄工所が製造した「地元産醸造タンク」〉

2010年に「宮崎ひでじビール株式会社」として事業を再開するタイミングで、宮崎県は未曾有の困難に見舞われた。口蹄疫の発生、鳥インフルエンザ、さらには霧島連山・新燃岳の噴火…畜産や観光業を基盤とする地域経済は大打撃を受ける。

「あのときは本当に大変だった。開業1、2カ月目で『もう首を括らないといけないかも…』と覚悟したほどです。すごく怖かった。でもそうも言ってられません。観光地に人がいないなら、別の販路を開拓するしかないと思い、切り替えましたね」

永野氏は東京に渡り、クラフトビール専門店を一軒ずつ訪問。宮崎の窮状を訴え、死に物狂いで商品を売り込んだ。

「恥も外聞もなく『宮崎を助けてください! そして私を助けてください!』と頼みこみました。この時みんな温かく迎え入れてくれて、『応援するから樽を送って』と次々と注文をもらえたんです。3週間ほどの東京での営業活動で、宮崎の観光地で稼いでいた売り上げを全部カバーできました。うちのビールは味には絶対的な自信もあったし、東京でも通用すると思っていましたが、ありがたかったのは持続的に取り引きができたこと。東京のビアパブとの取り引きはお付き合いが長く続いたし、しかもどんどん取引先が広がっていきました」

これでやっていける…東京での営業に手応えを感じて宮崎に戻った永野氏だったが、モヤモヤとしたわだかまりがあった。

「うちは当面の売り上げが確保でき、また東京での販路も開拓できて喜んでいる。でも宮崎では事態が好転しておらず、地域全体が疲弊し、県民はみんな下を向いていて笑顔がない。俺たちは何を喜んでいるんだろう、と思いました」

実は会社設立の日、永野氏と従業員らは一日中会議室にこもり話し合いをしていた。そこでは自分たちにとって大切なことを言葉にし合い、会社運営の基本方針となる経営理念を全員でつくったという。

「そこで出たキーワードは全て、『地域貢献』につながるものでした。『地域貢献する会社』『地域に必要とされる会社』『地域が自慢できる会社』。そこに特化して経営することを、私たちは会社設立初日に決めたんです。それなのに…」

地域のために、自分たちはビールをつくっているというのに、地域のみんなが苦しみから逃れられていない現実。自分たちの会社は、この苦難を乗り越えられるかもしれないが、それになんの意味があるのだろうか…。永野氏と従業員らは、改めて自社のあり方を見直すことになった。 

地域貢献を理念に掲げた「宮崎農援プロジェクト」

〈▲ 地元農家の力を借りて、ビールの原材料であるホップを栽培する〉

その後、彼らは地域を元気にする方法を模索し、「宮崎農援プロジェクト」を立ち上げる。

同プロジェクトは、地元農産物を副原料にしたクラフトビールを開発し、ラベルには生産者たちの顔や思い、歴史などを掲載し、県外に向けて発信するというもの。社員から提案されたアイデアをきっかけに、日向夏や金柑など、宮崎ならではの素材を使ったビールや発泡酒が次々に商品化されていった。

さらに地元産原料100%のビールづくりを目指した。地元農家との連携による大麦の栽培から、地元企業との共同開発で製麦機を作るなど、地域一体となって試行錯誤を重ね、6年の歳月を費やし、宮崎産麦芽100%のビール「YAHAZU」を完成させた。

「輸入麦芽やホップに比べると、地域産素材のコストは圧倒的に高くなります。それでも地域の農業を支え、地元とともに地域資産の価値を高める“本気の姿”を見せることは無意味なことではない。特に、それがメディアに取り上げてもらえれば、私たちのブランディングにもなります。これを生産コストではなく広告費だと考えると、こんなに安いことはありません。

私たちは製造業ではなく、エンターテインメント業だと思ってやっているし、社員にもその意識を徹底させています。クラフトビールは超贅沢品ですし、極論なくても困らないものですからね。でも、それがあることで人を幸せにできるし、笑顔にすることができる。そう、我々は人の笑顔を作り出す仕事をしているんです」

また、宮崎農援プロジェクトでは、環境面でも地域に還元できる取り組みを進めている。

〈▲ 循環型ブルワリーとして「廃棄物ゼロ」を目指す〉

「製麦により生じる麦芽粕などの廃棄物を、地元の畜産農家に提供して飼料として再利用するなど、すでにいくつかの取り組みを行っています。しかし私たちが目指すのは、その先の『廃棄物ゼロ』です」 

その一環として、ひでじビールではアグリバイオ事業部を立ち上げた。栄養価の高いビール酵母を使った液体タイプの土壌改良剤を開発し、販売を開始。この取り組みは、地域農業への新たな支援として期待を集めている。

「捨てるものをお金に替える。こんなに面白いことはないですよね。さらに、この技術を軌道に乗せて、業界全体で共有することで、多くのブルワリーが環境に優しい経営を実現できるはずです」

自然発酵を活用したシステムの研究や、業界全体での循環型の仕組みづくり。ひでじビールの挑戦は、地域だけでなくクラフトビール業界全体に新たな可能性を提示している。

地域と連携したブランディング戦略

〈▲ 宮崎産大麦を仕込み直前に加工することで、香り高いフレッシュな麦芽で醸造できる特別なピルスナー〉

ひでじビールは、地域産にこだわった醸造だけではなく、商品そのものに地域の魅力を詰め込み、地域とのつながりを強化するユニークなブランディング戦略を展開してきた。

それを体現しているのが、宮崎農援プロジェクトを通じて生まれた、地元産大麦でつくるビール「YAHAZU」である。

開発から生産に至るまで6年の歳月を費やした渾身の一品は、味もストーリーもこれ以上のものはなく、従業員全員が「これは売れる」と確信していた自信作でもあった。当然、全国販売を予定していたが、リリース直前、永野氏はあえて宮崎県内の飲食店限定での提供という方針に切り替えた。

「独断で決めたので、社員からはブーイングの嵐でした(苦笑)。『社長はなにを考えてるんだ!』『苦労してここまで良い商品を作ったのに、地元の飲食店だけに売るなんて!』と非難轟々で。まぁ、そう言われるのも納得ですが、なんか胸騒ぎがしたんですよ。これ、地域外で売れたとしても、買った人はそれをきっかけとして本当に宮崎に来るんだっけ、と。最大の目的は商品を売ることではなく、宮崎に来てもらって、地域にお金を落としてもらうこと。地域全体の経済を盛り上げることこそが、ひでじビールの役割だと思ったんです」

地域外に一切出さず、さらに小売を一切しないという“尖った戦略”はプレミアム感も手伝って、県内の約100店舗の飲食店と販売契約を結んだ。そしてYAHAZUは「宮崎に行かないと飲めない特別なビール」としてブランド価値が高まり、観光客や地元の人々に支持される商品となっていく。

「とはいっても、YAHAZUだけだと経済効果は大したことない。でも、もし同じような思いで商品を開発してくれる企業が県内にいくつか現れたら、『わざわざ宮崎に行かないと体験できないこと』を、本当に体験しに来る人が増えていく。そこで初めて経済効果が現れる。YAHAZUは、そのきっかけになればいいと思っています」

同社のユニークなブランディング戦略、その精神は、県産ホップ栽培の1株ごとにオーナーを付け、全国の人に応援してもらう「ホップオーナー制度」にも色濃く反映されている。

〈▲ 毎年好評のホップオーナー制度。オーナー専用のFacebookグループで育成状況を確認できる〉

この制度は、宮崎県内で栽培されるホップの株ごとにオーナーを募り、支援してもらう取り組み。オーナーには、完成したビールをはじめ、ホップの成長過程をオンラインで共有したり、収穫イベントへの招待といった特典が提供される。

「ホップ栽培は、東北地方などと比べて宮崎の気候では難しいと言われています。それでも、地元農家さんと協力してチャレンジを続けてきました。しかし毎年安定して栽培を続けるためには資金が必要です。そこで全国のファンの力を借りる仕組みを作ったんです」

単なる資金調達の枠を超え、ホップの成長を見守る喜びをオーナーと共有し、ひでじビールのファンを深く巻き込む仕組みとして成功。さらに、オンライン配信やリモート飲み会などを通じ、距離を超えてファンとつながり続けることができた。 

「ホップを応援したいという気持ちを持つ人たちとつながることが、私たちにとって大きな力になっています。それが地域にも還元できるというのが嬉しいですね」と永野氏。2024年には、ホップオーナーだけを対象にしたスタンプラリーや、宮崎や東京など全国4カ所でのリアル交流会が開催され、盛況を博した。

〈▲ ホップオーナー制度のリアル交流会を、宮崎、大阪、福岡、東京で開催した〉

 「こうしたイベントを通じて、商品だけでなく、私たちの取り組みに共感してくれる“太客”が増えました。これからもお客様とつながりながら、商品と地域の魅力を一緒に育てていきたいです」

商品を軸に地域貢献とファンづくりを同時に進めるひでじビールの取り組みは、クラフトビールの枠を超え、地域の未来を形作る新しいビジネスモデルとしても注目されている。

未曾有の困難を乗り越え、地域とともに未来を築く

〈▲ 現在の社員数は25名。社員一丸となって様々なプロジェクトに挑む〉

2020年から続いたコロナ禍で、ひでじビールが見せたのは「諦めず、行動を続ける」姿勢だった。この前向きな姿勢が、彼らの信念である「地域貢献」と強く結びつき、宮崎の未来を切り開く原動力となっている。

「コロナ禍では、飲食店の休業、イベント中止で売り上げは9割減。タンクの中での微々たる劣化でも商品として納得できないので、6000リッターのタンク1本分のビールを処分しました。涙が出る思いでした」

ただ、諦めるわけにはいかなかった――永野氏はそう振り返る。この未曾有の状況下で、社員たちは次々とアイデアを出し合い、行動を重ねた。その中で生まれたのが、「寄付と支援を絡めた商品販売」という取り組みだった。

まず、飲食店などの顧客に通常より安価で商品を販売。その売り上げから送料のみを差し引き、残りで地元の生産者から米を購入し、それを子ども食堂に届けるという仕組みだ。

「単に寄付するのではなく、巻き込めるだけ人を巻き込むことで、地域全体に波及効果を持たせたかったんです。生産者にも利益が生まれ、子ども食堂にはお米が届き、メディアに取り上げてもらうことで会社としてもプラスになる。そんな“全員がハッピーになる”仕組みを模索しました」

さらに、社員全員がフル出勤し、家飲み需要を取り込むための商品開発や、消費者に選んでもらえるための工夫を続けた。

「通常なら業務に追われて考える時間が取れないのですが、この時期は逆に考える時間が多すぎた。それが新しいアイデアを生むきっかけになりました」と漏らしつつ、永野氏は当時の混沌とした日々をこう振り返る。

「目の前の損得にあまり捉われず長い目で見ると、結果的に自分たちのためにもなっていることが多かったように思います。この時期に出たアイデアやノウハウは、コロナが明けた今も生かされています。今振り返ると、コロナの期間に社員の能力がめちゃくちゃ上がったなと感じています」

クラフトビールブームの弊害

「自分たちの取り組みで満足して終わり」ではなく、その先のことまで考え、得た知識や技術を伝える。それは本業であるビール醸造技術でも同じだ。

「うちが成長するためには、クラフトビール業界が健全に伸びていく必要がある」

これは地ビール氷河期を体験した永野氏の、危機感から出る言葉だ。

ひでじビールが酵母の自家培養など品質改善に取り組んでいた時期、同じように生き残りを賭け、品質改善に取り組んでいたブルワリーが全国にいくつもあった。そうしてできたビールが、世界のコンペティションでも評価されるようになるなど、日本のクラフトビールの地位が向上していった。昨今のクラフトビールブームは、このレジェンドたちによって構築されたと言っても過言ではない。

しかし、業界のレジェンドと呼ばれるブルワリーに、ある異変が起こっているという。

「老舗ブルワリーが苦しんでいます。『あそこのビールはおいしい。素晴らしい』と評価はされるが、売れない。一方で、デザイン性が高く、おしゃれなイメージで売っているブルワリーの商品に注目が集まりがち。流行りだからと誰でもが気軽に開業するので、ブルワリーの数が増えているけれど、技術が伴わないところも少なくない。これは、30年前と同じ状況が今また起こりつつあるのです。私たちが協会をつくっているのは、お互いに知識や情報を共有し、研修を通じ醸造技術を高めていくためなんですよ。

せっかくクラフトビールを飲む機会が増えたのに、それがおいしくなかったり、品質が悪いと、“クラフトビール=まずい、高い”のイメージが再びついてしまう。中途半端な取り組みをするブルワリーに、業界みんなが足を引っ張られることを危惧しているんです」

国が唯一認めているクラフトビールの業界団体である、地ビール醸造者協議会の副会長として霞ヶ関に出向き、国税庁で交渉するのはこのためだ。

「ビール醸造免許のハードルを下げるなら、国主導で醸造研修の機会を増やすなど、ちゃんと技術指導までするべきなんです」

業界の“体質改善”のために本業そっちのけで、ボランティアで東京・霞ヶ関まで出向いている現状について、「深く考えたらやってらんねぇって思うんですが」と笑いながらこう続ける。

「でも、結局誰かがやらないと業界が変わらないんですよ。今のうちから業界の健全化にしっかりと取り組んでいかないと、困ってから動いてもひとりの力じゃどうにもならないから。

ここから生き残るところが、本当においしいビールをつくる、本気でビールと向き合っているブルワリーだと思います。5年後、10年後の自分たちの立ち位置を想像してビジネスをしているところが残るんですよ。

私たちがビールを始めた頃と決定的に違うのは、努力を重ねた30年選手の先輩たちが周りにいること。みんなつながっているので、わからないことも聞けば必ず教えてくれます。そんな恵まれた環境なのに、それをしない。当時の苦しみを考えると歯がゆいですね」

永野氏が会長を務める「九州クラフトビール協会」には、現在30社が加盟している。勉強会では全社を醸造所に招いて、醸造の企業秘密と呼ばれる部分まで全て公開した。

「社員が心配するほど、全てを曝け出しました。これは業界のためでもあるし、仮に真似しておいしいビールができる会社が出てくれば、高いレベルで戦えるライバルになるし、その方がうちも伸びると思う。

うちは九州で出荷量第1位の会社ですが、そこにあぐらをかいて偉そうにしていても意味がない。小さいブルワリーにも頑張っておいしい商品をつくってもらいたい。そしてみんなで、もっとクラフトビールファンを増やしたいんです。

あと、心のどこかで自信もあるんです。技術を真似して同等の商品をつくるのは簡単です。でも経営って、環境や社風、従業員、ファンの姿など、数値化できない、見えない部分も必要なんです。だから全部を掛け算していったら、同じものには絶対ならない。でも真似した人も、きっと成功する方法があるんです。努力や失敗の先にある、うちとは違う計算式が」

宮崎ひでじビールが本当に目指すもの

〈▲ インペリアルスタウトの「栗黒」。アメリカのインポーターからのリクエストに応えた、9%のハイアルコール商品だ〉

宮崎県産栗を使い、北米への輸出用ビールとして製造した「栗黒」は、今や世界2大ビールコンテスト受賞をはじめ、様々なコンテストや海外ビールの評価サイトで好評を博している。現在は5カ国で取引されるなど、人気商品に成長している。

さらに、九州の素材にこだわった第2のクラフトビールブランド「九州CRAFT」を立ち上げ、2018年からはキリンビールの「タップマルシェ」での「九州CRAFT日向夏」の販売も始めた。

いくつものプロジェクトを同時に転がし、常に刺激的な日々を過ごしている永野氏に、今後のビジョンについて聞いてみた。

「やりたいことはいっぱいあるけど、私はもう56歳なので事業承継ですかね。できるだけ、次世代が困らない仕組みを作りたいと考えています。会社が大きければ良いというわけではなく、むしろ今は、消費者が納得したものを高くても買う多様性の時代だから、大量生産大量流通の必要がない。我々のような地域に根ざした中小零細企業がチャンスとも言える。

成長だけを考えるなら、さらなる設備投資をして生産量を上げ、国内外からのオーダーに応えるという選択を取ることになる。でもそれってキリがないし、そもそも、生産量を上げることがうちの目標ではないんですよね。充実感を得られるには、ある程度の会社の大きさが必要だと思うけど、必ずしも製造規模とイコールではない。うちが目指すべきは、従業員とその家族の幸せを最大化すること。需要に応えて規模が大きくなって数字に追われるようになると、それは従業員にとって幸せなことではないから。幸せのマックスがどこなのかを毎日模索しています」

延岡の山の中という不利な立地ながら、着実に売り上げを伸ばし続けている宮崎ひでじビールは、地産地消、地産外消、そして循環型農業と、クラフトビールを中心とした持続的な地域経済モデルを構築してきた。

その全ての原動力は、創業者から受け継いだ地域貢献の想いと、一緒にがんばってくれる従業員とその家族への想い、そして、どこまでもポジティブな永野氏の想いである。

その想いが、今の日本のクラフトビールブームにどんな好影響を及ぼすのか。永野氏が先人たちと育てた日本のクラフトビール文化。その土壌がさらに肥沃なものとなり、将来、新たな実りが生まれることを願わずにはいられない。

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