『戦国一の美女』お市の方 〜2人の夫と歩んだ波乱の人生、その誇り高き最期
お市の方(おいちのかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、その美貌と聡明さで「戦国一の美女」と称された女性である。
一方で、お市の方の生涯は戦乱の波に翻弄され、幾度も過酷な運命を乗り越えなければならなかった。
本記事では、歴史的背景とともに、お市の方が歩んだ波乱に満ちた人生を紐解いていく。
戦国一の美女
お市の方は、1547年に尾張国愛知郡那古野城(現在の愛知県名古屋市中区)で、父・織田信秀と母・土田御前の間に生まれたとされる。
同腹の兄妹には、信長、信行、秀孝、お犬の方がいる。
兄の信長とは一回り以上年が離れており、1552年に父の信秀が死去したことで、信長は兄であると同時に保護者的な存在であったと考えられる。
お市の方は、「戦国一の美女」として知られ、その美貌は後世の文献にも多く記録されている。
江戸時代に編纂された『祖父物語』や『賤岳合戦記』では「天下一の美人」と讃えられ、時代を超えて語り継がれている。
こうした記述は、後世の美化や誇張が含まれる可能性もあるが、同時代においてもお市の方が特別な存在であったことは、多くの逸話や記録から十分に推測できる。
彼女の魅力は、美しさだけでなく、教養や知性にも優れていたと伝えられる。
幼少期には、戦国時代の上流階級の女性として和歌や礼法を学び、その品格は戦乱の時代を生き抜くうえで重要な役割を果たした。
浅井長政の死と小谷城陥落、お市の方と3人の娘の救出
お市の方は、永禄10年(1567年)頃、近江国(現在の滋賀県)の戦国大名・浅井長政に継室として輿入れした。
この婚姻は、尾張(現在の愛知県西部)を支配する織田信長と、近江国浅井郡(滋賀県長浜市)の小谷城を拠点とする浅井家との同盟を象徴する政略結婚であった。
お市の方は、長政との間に後に豊臣秀吉の側室となる茶々、京極高次正室となる初、徳川秀忠継室となる江、の3人の娘をもうけた。また、浅井家の男子として万福丸や幾丸が記録に残るが、これらの子がお市の方の実子であるかどうかは不明であり、諸説ある。
彼女の孫には、豊臣秀頼(茶々の子)、千姫(江の娘、秀頼の正室)、徳川家光(江の子)、徳川和子(江の娘、後水尾天皇の中宮)など、名だたる人物が名を連ねる。
お市の方は「小谷の方(おだにのかた)」とも呼ばれ、政略結婚ながら長政との夫婦仲は良好で、穏やかな日々を過ごしていたと伝えられる。
しかし、1570年、信長が浅井家と同盟を結ぶ越前の朝倉義景を攻めたことで、織田家と浅井家の関係は急速に悪化する。この対立は、お市の方とその家族の運命を大きく変えるきっかけとなった。
1573年、姉川の戦いを経て織田軍は浅井軍を破り、小谷城は陥落した。長政とその父・久政は追い詰められ、共に自害した。
この時、長政は29歳の若さであった。
一方、長政の長男である万福丸は、小谷城落城の数日前に家臣木村喜内之介の手引きで脱出したが、その後、信長の命により羽柴秀吉に捕えられ、磔刑に処されたという。次男の幾丸は落城時に難を逃れたとされるが、その後の消息については記録が残されていない。
お市の方は、小谷城陥落後、茶々、初、江の3人の娘と共に織田家の家臣藤掛永勝に救出され、尾張へ戻った。
その後、織田家の庇護を受けることとなる。
「本能寺の変」後、柴田勝家と再婚
1582年6月、織田信長は甲州征伐で武田氏を滅ぼした後、四国の長宗我部氏、中国地方の毛利氏討伐の準備を進めていた。
その矢先、家臣の明智光秀による謀反が起こり、信長は宿泊先の本能寺で自害する。
この「本能寺の変」により、織田家の支配体制は大きく揺らぎ、信長の妹であるお市の方の運命もまた大きく変わることとなった。
信長の死後、織田家の重臣たちは後継者問題と領地再配分を議論するため、清須城で清須会議を開催した。
この会議には、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4人が出席し、織田家の新体制について協議が行われた。
後継者問題においては、信長の嫡孫である三法師(織田秀信)を後継者とすることで合意が成立した。
ただし、この決定を巡り、信孝を後見人とするか信雄を後見人とするかで激しい意見の対立があったとされるが、最終的には両者が後見人として名を連ねる形で妥協が図られた。
また、織田家内の結束を示し、内部分裂を防ぐ目的で、信長の妹であるお市の方を柴田勝家の妻とする婚姻が取り決められた。この婚姻には、秀吉と勝家の対立を一時的に緩和する意図もあったとされる。
こうして、二回り以上も年齢差がある柴田勝家とお市の方の婚姻が決まった。
お市の方と柴田勝家の婚儀は、本能寺の変からわずか4か月後の1582年8月20日、信長の三男・信孝の居城である岐阜城にて執り行われた。
お市の方にとっては、三人の娘を連れての再婚であった。
賤ヶ岳の戦いで敗れ、柴田勝家と共に自害
しかし、その翌年には織田家の継嗣問題を巡って柴田勝家と羽柴秀吉との対立が激化し、1583年4月、賤ヶ岳の戦いが勃発する。
この戦いで勝家は秀吉に敗北し、北ノ庄城(現在の福井市中心部)へ撤退を余儀なくされた。
そして間もなく秀吉軍の追撃を受け、城は完全に包囲されることとなる。
絶望的な状況であることを悟った勝家は、娘たちを守るためにお市の方に茶々、初、江の3人の娘を秀吉のもとに送り出すよう説得した。お市の方はこの申し出を受け入れ、娘たちを救う道を選ぶ一方で、自らは秀吉の庇護を拒み、夫と共に最期を迎える決意を固めた。
お市の方が秀吉の庇護を拒んだ理由については諸説ある。
信長の妹としての誇りや、秀吉の出自に対する複雑な感情、さらに秀吉が織田家の後継者を支配下に置こうとする動きへの反発があったのではないかと推測されている。
1583年4月24日、勝家とお市の方は北ノ庄城内で自害した。
その前夜、勝家とお市の方を含む一族や家臣たちは最後の酒宴を開き、今生の別れを惜しんだと伝えられている。
お市の方は享年37、柴田勝家は享年62であった。二人の死は北ノ庄城の落城を意味し、秀吉の勝利を決定的なものとした。
辞世の句
お市の方と柴田勝家の菩提寺は、福井県福井市の西光寺にある。
境内には二人の墓が祀られ、柴田勝家公資料館も併設されている。また、北ノ庄城の跡地には柴田神社が建てられ、ここでも二人を祀るとともに北ノ庄城資料館が訪れる人々に歴史を伝えている。
戦国の激動期をたくましく生き抜いたお市の方は、その波乱に満ちた人生の最後に、辞世の句を詠んだと伝えられている。
さらぬだに うちぬるほども夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな
意訳 :「ただでさえ別れがつらいというのに、短い夏の夜がさらに私を急かし、ほととぎすの声が夢の世界へと誘っていくようだ。」
この句は、北ノ庄城が包囲される中、お市の方が最期の覚悟を示したものとして伝わっている。
軍記物や後世の伝承を通じて広まったとされるが、その内容は彼女の美貌だけでなく、教養と知性、そして誇り高い生き様を表しているかのようだ。
お市の方の生涯は、戦乱に翻弄されながらも、自らの信念と誇りを貫いた女性の姿を今に伝えている。
参考 : 『信長公記』『浅井三代記』他
文 / 草の実堂編集部