#2 神か悪魔か。『罪と罰』の男の「運命」とは?──亀山郁夫さんと読む『ドストエフスキー』【NHK別冊100分de名著】
亀山郁夫さんによるドストエフスキー『罪と罰』読み解き #2
19世紀、急激な近代化が進んだ過渡期のロシアで、人間の内面に深く迫った大作家ドストエフスキー。その作品は、時代を超えて私たちの心を強く揺さぶります。
『別冊NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー』は、「100分de名著」で取り上げた『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』に『悪霊』『白痴』『未成年』の三作品の書き下ろし解説を加えた一冊。この五大長編を解説するのは、ドストエフスキー作品の新訳も手掛けたロシア文学者・亀山郁夫さんです。
重層的でミステリアスな作品に込められた作者の意図を、クリアに解読していく本書より、第1講「『罪と罰』──なぜ、人を殺めてはいけないのか?」全文を、特別公開します。(第2回/全8回)
Ⅰ 傲慢という名の罪
酔いどれの終末論
金貸し老女の家からの帰り道、みずからの「怖ろしい考え」への嫌悪感に苛まれたラスコーリニコフは、ふと、これまで訪れたことのない地下の薄汚い居酒屋に入り、ビールを飲みます。そこで話しかけてきたのはみすぼらしい酔いどれ役人のマルメラードフでした。
マルメラードフは、問わず語りに、結核を病んでいるプライドの高い妻カテリーナが、同じアパートに住む「新思想」の持ち主レベジャートニコフに殴られたこと、先妻との娘で、今は「黄の鑑札のお世話になっている」、つまりは娼婦になりたてのソーニャのこと、さらにはドイツ人女性の家主から、夫婦と三人の幼い子どもで暮らす粗末な下宿を追い出されそうなことなど、苦しい境遇を、聖書の引用を交えながら語ります。
娘のソーニャは、娼婦になった最初の夜、銀三十ルーブルの報酬をもって帰りました。その後、彼女は、公娼制度のもとで支給される衛生上の医学証明書(「黄の鑑札」)を受けるはめになります。これは、住居証明書の代わりに出される一種の身分証明書で、それを受けること自体、屈辱的であり、まさに烙印を押されるに等しいことでした。マルメラードフは、さらに、政府の高官に泣きついて一度失った役所の仕事に復職できたにもかかわらず、その給料をすべて酒に使ってしまい、役所に行かず家にも帰れずに五日間もネヴァ川に浮かぶ干草船で寝泊まりしていると語ります。そして今日も、ソーニャに無心した三十コペイカでまた酒を飲んでいるのでした。
マルメラードフは、救いがたい酔漢ですが、他方で、驚くばかりに信心深い側面をもっています。「磔(はりつけ)にしろ、裁きの人」(「ヨハネによる福音書」)、「主よ、御国が来ますように!」(「マタイによる福音書」)といったセリフは、みずからをキリストになぞらえているかのようです。また、「けだものの姿と、けだものの徴(しるし)を帯びている」者たちへの神の裁きを物語るセリフは、黙示録的な世界の到来ばかりではなく、ラスコーリニコフの悪魔的な犯行を暗示する露払いのセリフのようにも聞こえます。聖書を読みすぎた道化マルメラードフは、恐るべきペシミストです。そして、アルコール依存症という以上に、彼は、正真正銘のマゾヒストなのです。
ラスコーリニコフに伴われて家に帰ると、妻カテリーナは夫を罵倒し、彼の髪の毛をつかんで引きずり回します。マルメラードフは叫びます。「これも、わたしにゃ、快感なんです!」。ラスコーリニコフは、幼子もふくめた一家の窮状を見かねて、なけなしのお金を置いて下宿に帰るのでした。
中学時代にこの小説を読んだ私は、このマルメラードフが登場する場面がいやで堪らなかったのを記憶しています。こういう倒錯的な人間がいること自体、思春期の少年には許せないことでした。ところが、成人してからこの小説を読んでみると、マゾヒスティックに自己を曝け出す彼の道化性に、何かしら共感のようなものを覚えるのです。作者ドストエフスキーの理解においても、マゾヒズムが、人間の情念がはらむある根源的な部分に結びついていたことはまちがいありません。
意志と運命
物語の二日目です。
朝の九時過ぎ、下宿のおかみのもとで働く賄い婦のナスターシヤに叩き起こされたラスコーリニコフは、故郷の母プリヘーリヤからの手紙を受け取ります。長文の手紙には、最近の出来事が綿々と綴られていました。
わずかな年金暮らしでは仕送りもできないが、近々、送金できるめどが立っていること。ラスコーリニコフの妹ドゥーニャが、住み込みの家庭教師をしているスヴィドリガイロフ家で、主人とのあらぬ関係を疑われ、妻マルファから追い出されたこと。その後、スヴィドリガイロフ本人の証言もあってその嫌疑は晴れ、マルファの紹介で見合いをした弁護士のルージンから求婚され、迷ったあげく承諾したこと。母と妹はそのルージンの世話で、いまペテルブルグにやって来ようとしていること……。
目に涙を浮かべながら母の手紙を読み終えたラスコーリニコフは、妹がお金のために自分を犠牲にして結婚し、案じる兄の将来への捨石になろうとしていると見抜き、断固阻止しようと決意します。部屋を出た彼は、ベンチで酔いつぶれている若い娘を助けたりしながら街をさまよううち、いつしか親友の元大学生ラズミーヒンの下宿へと足が向いていきます。在学中から「人を見くだすような傲慢なところがあって」仲間と打ちとけないラスコーリニコフでしたが、この陽気な友人とだけは、不思議にうまが合いました。アルバイトの口を世話してもらおうとの思いもありましたが、途中ふと「あれ」のあとにしよう、という考えが浮かび、ラズミーヒンの下宿へは寄らずに、ネヴァ川の向こう岸へと歩いていきます。
途中立ち寄った酒場で飲んだウオッカのせいもあって、激しい疲労を感じた彼は、ペトロフスキー島の藪の中の草地に倒れ込み、恐ろしい夢を見ます。幼い彼が父親と田舎町を歩いていると、荷馬車曳きのあわれな馬が、ミコールカという名の酔った若者にさんざん鞭打たれ、血まみれになって死んでゆく光景を目のあたりにします。夢の中で、幼いラスコーリニコフは、死んだ馬に駆けより、泣きながら口づけします。
寝汗で髪まで濡らしながら目覚めた彼は、「下劣きわまる」殺害計画をやめる決心をします。するとにわかに心が軽くなり、「わたしは、あの呪わしい……夢を断念します!」と神に祈るのでした。彼はついに「悪魔の誘い」から自由になったと感じ、深い安堵の念にひたります。
ところが……ラスコーリニコフは下宿に帰ろうとして、なぜか回り道をし、センナヤ広場まで来てしまいました。そこで偶然にも、店じまいしようとしている商人夫婦が、金貸し老女の妹リザヴェータと立ち話をしているのを耳にするのです。リザヴェータは翌日の夕方に、商人夫婦の家に招かれていました。つまり、「あの老女は、明日の午後七時きっかりには家にひとりきりになる」とラスコーリニコフは思い、慄然とします。
死刑を宣告された男のように、部屋に入った。何も考えてはいなかったし、何ひとつ考えられもしなかった。だが、全身で感じとっていたのだ。自分にはもう判断の自由も、意志もないということ、すべてが突如として、最終的に決定されてしまったということを。
(第1部第5章)
こんなふうに、いくつかの出来事が彼を翻弄し、その運命を大きく動かしていきます。そしてこの転化の瞬間から、小説は大きく二つの物語へと分岐していくのです。すなわち「意志の物語」と「運命の物語」です。
かつてこの小説に主人公の「意志の物語」だけしか読み取っていなかったわたしは、これが「運命の物語」でもあり、恩寵=神と、偶然=悪魔とによる恐るべき試練でもあるということに、気づくことはありませんでした。
ラスコーリニコフの犯罪を抑止するかもしれない第一の恩寵として、母の手紙があります。第二の恩寵は、「馬殺し」の夢です。しかしそこでいったん計画を断念したはずの彼を、不条理とも言うべき偶然が、再び犯行の道へと誘導していくのです。
「判断の自由も、意志も」奪い、ひたすら犯行へと彼を突き動かしていく力を「狂気」と呼ぶとすれば、それは神の支配のおよばない、悪魔の領分ということになるのかもしれません。「取り憑かれる」というのは、ドストエフスキーにとって大きな意味をもつテーマです(革命家グループの内ゲバ殺人事件を描いたのちの小説『悪霊』の原題は、ロシア語で「悪霊たち」=「取り憑かれた者たち」という意味です)。これは、内在的な何かがある瞬間にはじけ、極端な行動に走る、といったたぐいの狂気とはまた別の、何かしら人間を外側からふわりと包み込み、がんじがらめにしてしまう狂気です。言ってみれば、理性に対立する狂気というより、むしろ鋭い理性をもった人間に、見えない透明な網のようにかぶさってしまう何か……。
「黙過」という試練
ボリス・チホミーロフというロシアの研究者が書いた優れた『罪と罰』の注釈書があります。『罪と罰』との出合いを重ねてきた私にとって、座右の書とも言うべき書物ですが、そこにくわしく記されている解説をとおして、私は、神の「黙過(もっか)」というテーマに遭遇しました。それは、人間の苦難や不幸を、神が黙って見過ごし、救いの手を差し伸べない状態のことです。ひと言で言うなら、神の沈黙──。私自身は、この問題が、最晩年のドストエフスキーの作品をつらぬく基本的なテーマであると信じてきたのですが、『罪と罰』にすでにそれが存在していたことを知りました。つまり、ここでのラスコーリニコフもまた、神に「黙過」された悲惨な存在なのです。
ドストエフスキーは幼いころ、旧約聖書の中でも特に「ヨブ記」を読んで強い衝撃を受けたとされています。神に忠実なヨブの信心深さを試そうとして、神と悪魔が賭けをします。ヨブはそのせいでひどい目に遭い、家族も財産も奪われるのですが、それでも神への信仰を失うことはありません。しかし悪魔のするにまかせる神を、残酷で、放恣きわまりない存在だと感じることは、幼いドストエフスキーの純真な信仰心に、根源的な亀裂をもたらした可能性があると思うのです。ドストエフスキーは、信仰のゆらぎ、端的には不信の起源を、神による「黙過」に見ていたのではないか、とさえ思えるのです。
ヨブにおける運命の不条理というモチーフは、『カラマーゾフの兄弟』の登場人物、ゾシマ長老の物語でも語られますが、若き日に懊悩したゾシマ長老が辿り着いた結論は、ヨブと同じく変わらぬ神への恭順であり、「世界との和解」でした。
イエス・キリストもまた、神の「黙過」を経験します。十字架上でイエスは天に向かい、「なぜ、わたしを見捨てたもう」と叫びました。しかしその死は、イエスが経なければならない復活のための試練でした。
ドストエフスキーもかつて、先にも触れたペトラシェフスキー事件における死刑判決の際、これをゴルゴタと感じ、イエス・キリストと神の沈黙、いや神の「黙過」を痛切に連想していたのではないでしょうか。銃殺刑が執行されようとする直前、彼は傍らに立つメンバーの一人にフランス語でこう語ったと言われています。
「わたしたちはキリストと一緒になるのだ “Nous seron avec le Christ”」
周知のように、その数分後に皇帝の特赦文が読みあげられました。最初から仕組まれた芝居ではありましたが、いったんはゴルゴタに立たされたドストエフスキーに復活の歓びがもたらされたことは事実です。この極限ともいうべき瞬間の経験は、『罪と罰』のみならず、『白痴』にも『カラマーゾフの兄弟』にも生かされていきます。神の不在と存在のあいだで激しくゆれるドストエフスキーは、神(エホバ)ではなく、受難者であるイエス・キリストとともにあることを信仰の礎としていました。「この世界に真理があるとしても、わたしは真理ではなく、イエス・キリストとともにとどまる」という言葉は、信仰に対する、彼の複雑かつ屈折した内心を物語るものです。
殺人現場のリアリティ
ラスコーリニコフが犯行に至る道筋は、複雑です。
ひと月半ほど前、彼は、金貸し老女アリョーナのもとにはじめて指輪を質入れしに行った帰り、立ち寄った安食堂で学生と若い士官の会話を耳にします。大金持ちの老女は、欲張りで意地が悪く、腹ちがいの妹リザヴェータを酷使しながら、びた一文遺産を渡すつもりなどないこと。そしてリザヴェータは、不器量なのにもかかわらず、なぜかひっきりなしに妊娠していること……。
学生は、そこで根本的な問いを突きつけます──「しらみか、ごきぶりの命」にも等しい老女の命と金を奪い、その金で多くの人間の命を救えるのだとしたら、その殺人は、正義とみなすことができるのではないか……?
それは、ありがちな若者同士の会話にすぎませんでしたが、ラスコーリニコフの中に芽ばえかけていた考えと「そっくり同じ」だったため、彼は何かしら宿命的なものを感じます。思えば、この瞬間こそが、すべての始まりだったのかもしれません。
物語の三日目、彼は眠りからなかなか覚めることができません。目覚めても朦朧とし、砂漠のオアシスの幻覚を見たりします。夕方の六時を告げる鐘の音でわれに返ると、慌てて犯行の準備にかかります。斧を収めるための吊るし紐の仕掛けをコートの内側に縫い付け、板きれと鉄板を紙に包んで紐で縛り、シガレットケースに見せかけたにせの質草を作ってから、下宿の台所にいつも置いてある斧を手に入れようとしますが、そこではナスターシヤが洗濯物を干しており、しかも肝心の斧がありません。しかたなく外へ出た彼は、庭番小屋の椅子の下に偶然別の斧を見つけ、それを手に入れます。彼は、薄笑いを浮かべながらひとりごちます。「こいつは理性じゃない、悪魔のしわざだ!」……。
現場へ向かう途中、「あちこちの広場に大きな噴水を設置するというアイデア」が頭に浮かんだりしますが、目的地に着くとどこからか時計の音が聞こえ、「おや、変だな、もう七時半か? そんなばかな、きっと進んでるんだ!」と思います。時計を質に入れているため、時間を確かめようにもその術がありません。アパートの二階の空き部屋ではペンキ職人が仕事をしており、三階の部屋も引っ越して空き部屋になっていました。青ざめふるえるラスコーリニコフの訪問に、四階の老女は胡散臭げな視線を投げかけます。老女が室内でにせの質草の固い紐をほどこうとしたその瞬間、その脳天にラスコーリニコフの斧が振りおろされます。
コップを倒したみたいに血がほとばしり、体は仰向けに倒れた。(略)両目は、いまにも飛び出さんばかりに見開かれ、額と顔が一面のしわにおおわれ、痙攣でみにくくゆがんでいた。
(第1部第7章)
動揺するラスコーリニコフは大金の入った簞笥の鍵を開けられず、老女の財布と、寝室でようやく見つけたアクセサリーなどの金製品をポケットにねじ込むのがやっとです。そのとき隣室には、留守のはずのリザヴェータが荷物を抱えてすでに帰宅し、姉の死体を呆然と見下ろしていました。彼は、斧の一撃で哀れなリザヴェータまで殺してしまいます。
われを忘れたラスコーリニコフは、台所で手と斧の血を洗ってから逃げようとします。ところが今度は、老女に金を借りようと別の客が訪ねてきました。ラスコーリニコフは、そこでドアの掛け金を掛け、扉の内側で息をひそめますが、不審に思った客が庭番を呼びに行き、逃走のチャンスが生まれます。階段を降りる途中で客たちが昇ってきますが、間一髪、ペンキ職人がいなくなった二階の空き部屋に隠れて彼らをやりすごし、かろうじて現場から逃れることに成功します。
殺人現場の描写にみなぎる圧倒的なリアリティは、やはり一人称形式では書けなかったのではないでしょうか。それにしても、殺人者の心理やちぐはぐな行動を細かく描写するドストエフスキーの筆には、舌を巻くほかありません。どんな登場人物の内側にも一瞬のうちに入り込み、ともに体験できてしまう、驚くべき想像力──。
「なぜ殺したのか?」という問い
ドストエフスキーは一八六五年九月、一人称告白体による執筆の段階で、ある手紙に「殺人犯は、知能の発達した、むしろ性癖のよい若い男なのです」と書いています。ヴィスバーデンで書き記された第一の創作ノートでは、ラスコーリニコフによる殺害の動機は、たんに略奪した金で多くの貧しい人々に奉仕するという、「簡単な算術」にすぎませんでした。ヴィスバーデンからコペンハーゲン、ペテルブルグへと場所を変えて書き継がれた第二のノートでも、主人公は同様に「ヒューマニスト」としての相貌を強く備えていますが、その後の第三のノートでは、あとで見る主人公の「ナポレオン主義」と呼ばれるものが姿を現してきます(「彼の人物像のなかにはかりしれぬ傲慢さ、高慢さ、この社会への軽蔑という思想が体現されている」)。こうして物語の構想が熟していくにつれ、主人公は徐々にその性格を二つに分裂させていきました。正義感に満ちた弱者への憐れみと、悪魔的な傲慢さという二つの性格です。
金貸し老女殺害には、お金の問題が深くからんでいますが、それだけが動機ではありません。問題はむしろ、殺人へと行き着く人間の傲慢さにあります。しかしこの小説を、たんに主人公の「意志の物語」と見なし、彼のねじれたエリート意識、傲慢で人を寄せつけない気質などに殺害の動機を見るだけでは、『罪と罰』の本質に迫ったことにはなりません。ドストエフスキーは、この小説のプロットに、象徴層とでも言うべき視点からの別の物語を用意していたからです(象徴層など四つの層については第3講で詳述します)。それこそが、「運命の物語」としての『罪と罰』です。
「なぜ殺したのか?」「動機は何なのか?」という、主人公の主体的意志をめぐる問いをいったん封印し、徹底して外部からこの小説を見つめ直すことが大切になります。主人公ラスコーリニコフが抱く思想はきわめて重要な問題をはらんでいます。しかし、それはあくまでも観念です。観念のみで人を殺すことはできません。ただし、ラスコーリニコフが置かれている状態を、ある種の「戦争」にたとえることは可能です。終末の予感、勝つか負けるかの戦い、そうした切迫した感覚が、彼の殺人を可能にしたと言えるのかもしれないからです。戦争や革命やテロルなら、何らかの大義のもとで人を殺すことが可能でしょう。しかし、ふと冷静さを取りもどしてペテルブルグの町に目を向ければ、たしかに、終末を思わせる陰惨な光景は随所に存在するものの、今すぐ終末が訪れる気配はなく、世界はむしろ、うんざりするほど退廃的な日常性に支配されています。とすると、ラスコーリニコフの抱く観念、それは、やはりたんなる「狂気」という徒花(あだばな)と見るほかないのか、それとも……。
本書『別冊 NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー』では、・第1講 『罪と罰』──なぜ、人を殺あやめてはいけないのか?
・第2講 『白痴』『悪霊』『未成年』──ロシアの闇、復活の祈り
・第3講 『カラマーゾフの兄弟』──父殺し、または人間という解きがたい謎
という全3回の講義を通して、重層的な作品の意図を明瞭かつ大胆に解読していきます。
■『別冊NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー』(亀山郁夫 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
※本書におけるドストエフスキー作品の引用は、著者訳の光文社古典新訳文庫版に拠りますが、一部著者が訳し直している箇所があります。
著者
亀山郁夫(かめやま・いくお)
ロシア文学者、名古屋外国語大学学長
1949年栃木県生まれ。東京外国語大学外国語学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。天理大学、同志社大学を経て1990年より東京外国語大学外国語学部助教授、教授、同大学学長を歴任。2013年より現職。専門はロシア文学、ロシア文化論。著書に、『ドストエフスキー父殺しの文学』(NHKブックス)、『新カラマーゾフの兄弟』(河出書房新社)『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』、『ドストエフスキー黒い言葉』(集英社新書)などが、訳書にドストエフスキー『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』(刊行中)、『カラマーゾフの兄弟』(いずれも光文社古典新訳文庫)などがある。2021年より世田谷文学館館長。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。