古代中国の皇帝はどうやって側室を選んだのか? ~多いときは一万人、身体検査や匂い検査まで
皇帝の側室選びが持つ重要な意味
古代中国において、皇帝の側室選びは単なる個人的な好みに留まらない、国家の運営と密接に結びついた重要な儀式であった。
皇帝は天命を受けた存在とされ、その行動すべてが国の安定や繁栄を象徴するものであった。
そのため、側室選びは皇帝個人の私的な問題というより、国家規模で行われる政治的・社会的なイベントだったのである。
皇帝の側室制度の根幹には、主に二つの目的があった。
第一は、後継者の確保である。
古代の医療技術の未熟さや高い乳幼児死亡率を考えると、多くの後継者を持つことが皇室の安定を保つ上で重要だった。
多数の側室を迎えることで血脈を絶やさないように努めたのである。
第二は、側室を通じた政治的な意図である。
皇帝が大臣や地方諸侯の娘を側室として迎えることで、彼らの忠誠心を確保し、国家統治の基盤を強固にするという側面があった。皇帝の権力を国内外に示す象徴的な行為でもあったのだ。
さらに、側室選びには文化的な意味合いも含まれていた。
側室の存在そのものが、皇帝の品格や治世の繁栄を映し出す鏡でもあったのである。
それでは側室たちがどのようにして選ばれていたのか、時代ごとに解説していく。
先秦時代の妃(側室)選び制度
先秦時代の帝王の妃(側室)の選び方は、時代や状況によって異なる手段を用いて行われた。
一つは、諸侯や大臣が自らの娘を帝王に献上する形での選定である。これは、当時における忠誠心の示し方でもあった。
また、帝王が直接女性を略奪する形で妃を迎えることもあった。特に戦争や征服の際に、敗戦国の王女や女性たちが捕虜として連れ去られ、帝王の後宮に入れられることがよくあった。
例えば、夏王朝の桀王(けつおう)は、歌舞の才能で知られる妹喜(まいき)を得るため、武力を用いて彼女を手に入れた。
殷の紂王(ちゅうおう)の時代にも、似たような事例があった。
紂王の下には、西伯昌、九侯、鄂侯の三公がいたが、九侯は自分の美しい娘を紂王に贈った。しかし、その娘は乱れた行為を嫌い、最終的に紂王に殺され、九侯は肉にされて罰を受けるという悲劇的な結末を迎えている。
このように先秦時代の妃(側室)の選び方は、時に無理強いがなされることもあり、その背景には権力や支配力が強く影響していた。
漢代の妃選び制度
漢代における妃選びは、先秦時代の慣習を引き継ぎつつ、より制度化された。
「良家の娘」を選抜する法的制度を確立し、毎年一定の年齢範囲(13歳から20歳)の端麗な女子を対象に、全国から候補を集める仕組みを作った。この選定作業は主に宦官や官僚によって行われ、選ばれた女子は後宮に送り込まれ、さらに厳しい選抜を経て妃として迎えられた。
後宮に迎えられる女子は、その容姿や血筋だけでなく、身体的な特徴や健康状態も重視された。
例えば、後漢の桓帝(劉志)が15歳の梁瑩を皇后に選んだ際、宮廷の女官たちによって、歩き方、耳や髪の状態、皮膚の滑らかさ、乳房の発育、肚臍の形状、腋や足裏の清潔さなど、詳細な身体検査が行われたという逸話がある。
当時の妃選びは、単なる美しさだけではなく、健康や品位も大いに重視されたことがうかがえる。
晋代の妃選び制度
晋代の妃選びは、武帝(司馬炎)の時代に制度化され、大規模に行われた。
司馬炎は「博選」と呼ばれる選妃制度を実施し、文武官僚以下の娘たちを後宮に入れるため、民間での婚姻を一時的に禁止した。
この「博選」により、多くの女性が後宮の候補者として集められた。
『晋書』には、司馬炎が宦官を使いとして派遣し、州郡を巡って候補者を集めたことが記されている。選ばれた女性たちは後宮に送り込まれ、さらに厳しい審査を経て地位が決定された。
司馬炎の后である楊皇后は選考の際、容姿端正な女性を除外し、清潔で上品な女性を優先的に選んだとされる。
この方針には、楊皇后の嫉妬心も影響していたと言われる。
さらに、司馬炎が呉を平定した後、呉の皇帝・孫皓の后宮から数千人の女性が迎え入れられた。
この結果、后宮の人数はなんと1万人に達したとされる。
司馬炎は羊車に乗り、行き先を羊に任せるという方法で妃嬪のもとを訪れたという。
この際、官人たちは竹の葉を戸口に挿したり、塩水を撒いて羊車を誘導しようとしたという記録もある。
唐代の妃選び制度
唐代の妃選び制度は、家柄、才能、美貌など多角的な要素を考慮して行われた。
特に家柄の良さが重視され、一流の名家や豪族の娘が後宮に入る主要な候補とされた。
一方で、家柄が優れていなくても、卓越した才能や教養、美貌を持つ女性は後宮に迎えられることもあった。そのため、後宮には多様な背景を持つ女性たちが集まり、それが唐代の文化的な繁栄を象徴する一面ともなっていた。
唐代の後宮制度は、皇后を頂点とし、四夫人(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃)、九嬪(昭儀、昭容、昭媛など)、二十七世婦(婕妤、美人、才人)、八十一御妻(宝林、御女、采女)といった階級に分けられ、それぞれの地位に応じた役割を担い、後宮の秩序を維持していた。
これらの称号や階級は、時代や皇帝の好みによって変動することもあった。
明代の妃選び制度
明代における妃選びは「選美」とも呼ばれ、宦官による管理のもとで実施された。
皇帝の妃のみならず、皇太子の妃選びも含まれており、初めての正式な選定は洪武27年(1394年)に行われた。
当時は全国の複数の省から民間の女性が選ばれた。しかし、明の後期になると、選定は京師(現在の北京)と北直隷地域に限定された。
民間で選ばれた女性たちは紫禁城に送られ、再選や最終選考を受けた。
選考対象となる女性の年齢は14歳から16歳が多く、容姿や身体的特徴に厳しい基準が設けられていた。
例えば、身長が高いこと、顔立ちが端正であること、歯並びが整っていること、髪に艶があること、体に傷跡がないことが条件とされた。また、声の美しさや肌の滑らかさ、乳房や陰部の状態、体臭に至るまで、細かな評価が行われたという。
清代の妃選び制度
清代における妃選びは「選秀女」という仕組みに基づいていた。
これは、満洲、蒙古、漢軍八旗に属する旗人の娘を対象に、3年に一度行われた制度であり、対象年齢は13歳から17歳とされていた。選考の際には、華美な服装や化粧が禁じられ、質素な装いで審査に臨むことが求められた。
「選秀女」には、后妃候補となる「ハイクラス」と、宮中の労働を担う「宮女候補」の2種類があり、それぞれ異なる選考過程が用意されていた。
后妃候補は外見、品位、健康状態に加え、血筋や家柄が重視され、厳格な基準で選ばれた。
「選秀女」として選ばれた者は紫禁城に入り、后妃候補としての訓練を受けた。その後、皇帝の寵愛を受けて地位を上げる者もいれば、25歳から30歳頃に「お役御免」として宮廷を去る者もいたという。
おわりに
古代中国における皇帝の側室選びは、国家統治や社会秩序の維持に直結する重要な制度であった。
それぞれの時代で選定方法や基準に違いはあれど、皇帝の権威と国家の安定を支える一助となっていたのである。
参考 :『後漢書』『晋書』『清史稿』他
文 / 草の実堂編集部