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男子バスケ 五輪への道:世代をまたいだ逆転劇の舞台裏――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』

NHK出版デジタルマガジン

男子バスケ 五輪への道:世代をまたいだ逆転劇の舞台裏――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』

 情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版の第三作『新プロジェクトX 挑戦者たち 3』より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。

<strong>男子バスケ 世代を越えた逆転劇――オリンピック48年の挑戦</strong>

1. マイナースポーツの厳しい現実

弱小国・日本 五輪出場への道
 2023(令和5)年9月、日本など3ヶ国で共同開催されたバスケットボールのワールドカップで、男子日本代表はアジア最上位の成績を収め、悲願の2024(令和6)年パリ五輪(オリンピック)出場を決めた。自力での五輪出場権獲得は、1976(昭和51)年モントリオール五輪以来、実に48年ぶりとなる快挙だった。その長い歳月の陰には、オリンピックの夢を追い続けた幾多の挑戦者たちがいた。
 
 バスケの競技人口は全世界でおよそ4億5000万。野球やサッカーを超える、世界のメジャースポーツだ。その中で、身長が低くパワーに劣る日本は、長年「弱小国」のレッテルを貼られ続けていた。
 
 だが、バスケットマンたちは、「負け犬」のままでは終わらなかった。その道のりを作ってきたのは、辛酸を舐めてきた先駆者たちだった。
 
 かつて日本の秘密兵器と期待されながら、ある理由から代表を辞退したサラリーマンは、持てる技の全てを息子に伝えた。

 1988(昭和63)年に全国制覇を成し遂げた高校バスケ部のチームメイト二人は、亡き友との約束を胸に、「日本を強くする」という夢に挑み続けてきた。一人は、日本一の選手として世界との戦いに情熱を燃やし、バスケ冬の時代にもコートに立ち続けて次世代にバトンを渡した。もう一人は、指導者を志して海を渡り、身長の低さを乗り越える改革へと繫げた。

 そして、世界で連戦連敗を喫してきた現役選手たちは、「負けたまま終わりたくない。世界で勝つ景色を見てみたい」と固く心に誓い、決戦に挑んだ。

 パリオリンピック出場を決めた試合の直後、日本代表の中心選手・渡邊雄太は言った。

 「今までしんどい時期の日本代表を支えてくれた先輩方も含めて、全員の勝利だと思う」

 これは、世代を越え、奇跡の逆転勝利を目指した者たちの、不屈の物語である。

ロス五輪の秘密兵器
 1979(昭和54)年、男子バスケ日本代表は、翌年のモスクワ五輪出場を目指して猛練習を行っていた。日本は、前回のモントリオール大会に出場していたものの、今回は出場権を争う強力なライバルがいた。アジアの巨人、身長2メートル28センチの穆鉄柱を擁する中国だ。体格で劣る日本は、穆の高すぎる壁を攻略できず、連戦連敗を喫していた。
 
 五輪予選を前に、日本代表の穆対策は苛烈を極めた。ゴール下で当たり負けしない強靭な体をつくるため、選手は接触プレー練習用のコンタクトバッグを激しく何度もぶつけられながら練習した。その厳しい練習に、必死で食らいつく若い選手がいた。馬場敏春、当時24歳。ダンクシュートを武器に大学4年で関東大学リーグを制覇してMVPを獲得。インカレ優勝、ユニバーシアード出場も経験し、大学卒業後は実業団チームでプレーしていた。
 
 馬場は、ある「メンタルトレーニング」も課せられたと話す。

 「特攻隊の映画を観させられたのは初めてでしたね。そのぐらいの覚悟を持って敵と戦わなきゃダメなんだ、いかに強い気持ちを持って取り組むかだ、ということだったと思います。普段の練習もそういう気持ちで挑んでいました」
 
 しかし、五輪予選を兼ねたアジア選手権の決勝戦で、日本は中国にわずか2点差で敗れ、モスクワ行きを逃した。これが、日本男子バスケの長い冬の時代の始まりとなった。
 
 身長2メートルのガードとして、次の1984(昭和59)年ロサンゼルス五輪の主力選手になると期待されていた馬場。スポーツ紙には「ロス五輪の秘密兵器」と馬場を評する見出しも躍った。ところがその頃、馬場のバスケ人生を揺るがす、思わぬ事実が判明した。勤めていた保険会社の給料が、同じ年次のモデル賃金を下回っていたのだ。給料が下げられた原因はバスケにある。馬場はそう感じた。

 「バスケットや日本代表で給料をもらっているわけじゃない。あくまでも仕事の評価の対価が給料だから。会社には、スポーツで頑張っていることを評価してくれる人もいれば、時間が来たらすぐ練習に行ってしまうことを良く思わない人もいる。バスケットに興味のない人だっている。評価を下げられて給料が下がってしまったら、後々昇進に響いてくるわけですよ、1年後、2年後に」
 
 日本代表で活躍し、所属先である会社の名前が新聞や雑誌に載っても、「マイナースポーツ」のバスケでは宣伝にもならない。そう、陰口をたたかれることもあった。それだけではない。幼いころ裕福とは言えない家庭で育った馬場は、自分の家庭を築くときは、仕事をして給料を持って帰り、家族が何不自由なく暮らせるようにすることが、自分の大切な役割だと考えていた。
 
 日の丸を背負っても冷遇される。稼ぐこともできない。馬場は次第にバスケに対する情熱を失い、代表を辞退することを決めた。そして、馬場が去った後の日本代表は、ロサンゼルス大会以降、五輪出場を逃し続けた。

北陸高校の名コンビ
 1990年代に入ると、NBAのスタープレーヤー、マイケル・ジョーダンのスニーカーブームや漫画『SLAM DUNK』の大ヒットにより、競技経験のない人にもバスケが広く知られるようになった。だが、その盛り上がりが国内実業団リーグの人気に結び付くことはなかった。客席には空席が目立ち、観客はチームを持っている企業の社員がほとんど、という試合も珍しくなかった。1993(平成5)年にJリーグが始まり、1998(平成10)年にはワールドカップ初出場を果たしてファンを増やしていったサッカーの人気ぶりとは、比べものにならなかった。

 そんな状況の中、実業団リーグで一人、気を吐く選手がいた。佐古賢一。稲妻のようなドリブルと正確無比なパスを駆使する熱血漢だった。
 
 高校時代から抜きん出た選手だった佐古は、バスケの名門である北陸高校(福井県)でキャプテンとしてチームを牽引し、1988(昭和63)年のインターハイで全国制覇を成し遂げた。神奈川県出身の佐古は、高校3年間を寮で過ごし、厳しい練習だけでなく、生活の全てを仲間とともにした。そのチームメイトの一人に、西 俊明がいた。熱血キャプテンだった佐古と、キャプテンを冷静に支える西。二人は北陸高校の名コンビだった。
 
 「僕は本当に西を尊敬していた」

 西はどんな存在だったか、と尋ねられると、佐古は真っ直ぐにそう答える。西は、バスケにも勉強にも100%の力で向き合っていたから、と。
 
 「西がキャプテンになると思ってたんですよ、僕は。頭もいいし、すごくリーダーシップがあった。勉強でもプライベートでも、悩みがあったらとりあえず西に聞いてみよう、西の言うことなら間違いないんじゃないか、ってみんなが思っていた。僕もいろいろ意見を求めたし、支えてくれた」
 
 高校卒業を前にしたある日の練習後、寮への帰り道を二人で歩いていると、ふいに西が「ケン、真面目な話、していい?」と切り出した。
 
 「いいよ、何? って返事をしたら、『俺、アメリカに行く』って言い出したんですよ。本気で言ってんの? って聞いたら、本気だって。なんでよ、インターハイも優勝したし、行きたい大学に行けるんじゃない? お前頭もいいしさ、どこでも行けるっしょ、って言ったんですけど」
 
 西には夢があった。「バスケのコーチになって、日本を強くしたい」。アメリカの大学への留学は、その夢を叶えるためだった。

 「アメリカにバスケット留学する、なんて言ったら、馬鹿にされておしまいという時代に、本気でそう言うんですもんね。今だからこそ西のすごさが分かるけど、当時は全然理解できなかった」

 西を家族として見守っていた兄の明生さんは、弟は高校で日本一になったからこそアメリカ行きを決断したのだろうと感じていた。

 「インターハイで初めて山の頂上に立って、そこで彼は次の山、もっと違う世界を見つけて、じゃあそこを目指そうという気になったんじゃないか。そのためには指導者が大事だと思ったんじゃないですかね」

 佐古やほかのチームメイトが国内の大学に進学する中、西はマイケル・ジョーダンの母校であるノースカロライナ大学への留学を果たし、夢への第一歩を踏み出した。

 ところが、渡米からわずか1年後、西は帰国を余儀なくされた。手術が難しい鼻の奥にがんが見つかったのだ。故郷の広島に戻り、治療を始めた。病と闘いながらも夢を諦めることなく、病室でもバスケのビデオをずっと見ていたという。

 2年半に及ぶ懸命の闘病の末、西はこの世を去った。21 歳の若さだった。
 
 「俺は日本一のコーチになる。お前は日本一の選手になれ。そして一緒にオリンピックに行こう」。生前、佐古は西にそう告げられた。

 「西は『高校に入った時は、自分が日本で一番の選手になりたかった。だけど、俺は努力し続けても多分お前に勝てない。3年間一緒にやってきたから、わかる』って言ったんです。『だから、ケンには日本代表になって、日本一の選手になってほしい。俺は日本代表のコーチとして、ケンと一緒にやれる日を夢見て頑張るよ』って」

 西と交わした約束を胸に、大学を卒業した佐古は実業団リーグのいすゞ自動車に入社した。トッププレーヤーに上り詰め、チームをリーグ4連覇に導くなど、「ミスター・バスケットボール」と呼ばれる日本一の選手になった。

届かなかった五輪出場
 佐古は、実業団リーグでプレーしながら、日本代表としてオリンピックに出場することに誰よりも情熱を傾けていた。そこには、西との約束を果たそうという思いだけでなく、オリンピックに出て注目されることが低迷する日本のバスケ界を変える、という期待があった。
 
 「選手は、注目されないとうまくならないんですよ。注目してくれる人がいなかったら、結果が出なくても言い訳ができる。注目されると、結果が出れば評価されますが、出なければ批判される。うまくなるには評価と批判の両方が必要です。オリンピックに出て注目されることが、日本のバスケットを変える原動力になっていくんじゃないかと思っていました」

 オリンピックへの道に一筋の光が差したのは、1997(平成9)年に出場したアジア選手権でのことだった。佐古を中心とする日本代表が2位になり、31年ぶりに世界選手権の切符を勝ち取ったのだ。当時、佐古や折茂武彦ら1970(昭和45)年生まれを軸とする世代は黄金世代と呼ばれ、有望な選手がそろっていた。「この勢いで五輪出場も」と期待が高まっていた。
 
 だが、オリンピックの壁は高かった。1999(平成11)年のシドニー五輪予選で、日本は5位に沈み、またしてもオリンピック出場には届かなかった。
 
 注目されることが日本のバスケを変える。そう信じて、オリンピックを目指して戦い続けてきた佐古。世界選手権の切符を手にして帰国した時、空港でたくさんの人が出迎えてくれているのを見て「やっと注目され始めた」と手応えを感じていた。だからこそ、千載一遇のチャンスを逃したショックは大きかった。

 「惨敗だった。すごく絶望感に悩まされました。自分たちが築き上げてきたものが、一気になくなってしまうんじゃないかという不安に駆られたし、もしかしたら、自分たちがバスケットの未来を止めたんじゃないかとも思いました」

 そんな佐古を、さらなる試練が襲った。長引く景気低迷のあおりを受けて、さまざまな企業スポーツが窮地に追い込まれる中、バスケでも実業団リーグに参加していたチームの休部が相次いで発表された。

 「実業団チームは会社の福利厚生の一環ですから、経営が厳しくなれば、お金をかけるのが難しくなる。あの時、一番初めに切られたのがスポーツでした。本当に悔しかった」

 2002(平成14)年、佐古が所属するいすゞ自動車のバスケットボール部も、活動を休止した。日本の頂点に何度も立った強豪チームでさえ、会社の判断でなくなってしまう。それが、世界に通用しない「マイナースポーツ」の厳しい現実だった。

2. 日本バスケ逆転劇への萌芽

親子でダンクシュートを特訓
 日本代表を辞退した後、馬場敏春は、保険会社での仕事に専念していたが、50歳を前に会社を離れることになった。リストラだった。家族を連れて富山県に移った馬場は、バスケの強豪校・富山第一高校で職員として働きながら、コーチを務めることになった。
 
 馬場家が富山で生活を始めて数年が経ったある日、ミニバスケットボールチームに入っていた小学生の息子が、「全日本#4」という夢を紙に書いた。背番号4は、当時のバスケ日本代表のキャプテンナンバーだ。息子の名は、雄大。幼い頃から父を超えるバスケセンスを秘めていた。

 雄大が中学生になり、敏春は息子とマンツーマンで猛特訓を始めた。中3の秋になると、雄大は父がかつて武器としていたダンクシュートに挑み始める。きっかけは、練習を見ていた敏春のある気付きだった。
 
 「こいつ面白い跳ね方するな、ダンクできるんじゃないかな、というひらめきですよね。できるようになるのなら早い方がいいかもしれないし、努力してみるか、と」

 ダンクの特訓は、ジャンプしてゴールリングに指を引っかけることから始まった。指がかかるようになったら、次はボールを握ってリングめがけてジャンプを繰り返した。初めはまだ雄大が片手でバスケットボールを持つことができず、握りやすいソフトボールやハンドボールを使っていたという。
 
 「練習の最後にダンクの練習をするんですけど、もう何百本もシュートを打った後だから、脚も手もすごく疲れていて。でも、何本ちゃんとダンクできるまで帰らないって決めて、週に3、4日やってました。なかなか大変でしたね」(馬場雄大)
 
 手に血豆ができるほど何度もリングにボールを叩きつけ、ダンクをマスターした雄大は、やがて「アメリカへ行ってプロになる」という目標を掲げるようになった。だが、それを聞いた敏春は、息子に何度も釘を刺した。「バスケでは稼げないぞ」。
 
 「バスケでは稼げない、バスケで生きていけるはずないだろう、とは、本当にずっと言われてきたんですよ。第二の人生のこともちゃんと考えろ、って。高校を卒業してアメリカに行くことも考えたんですが、その時も『日本の大学で教員免許だけは取ってほしい』と言われましたね」(馬場雄大)
 
 息子の夢を応援したいが、自分と同じ苦労はさせたくない。「バスケでは稼げない」は、複雑な親心から出た言葉だった。

ミスター・バスケットボールの新たな戦い
 所属チームが活動休止になった佐古。32歳になっていたが、バスケを続けていくことに迷いはなかった。日本のバスケ界を牽引してきた選手としての自覚が、辞めることを許さなかった。
 
 「ミスター・バスケットボールとか、アジア・ナンバーワン・プレーヤーと言われるようになって、年々いろんなものが背中に乗っかってきていたし、バスケがいつプロ化するのか、という時期だったんですよね。そこで自分がバスケの世界から身を引くという選択肢はなかった」
 
 佐古は、アイシン精機に移籍し、バスケ冬の時代にあっても、懸命にプレーを続けた。2006(平成18)年には左脚アキレス腱断裂の大けがを負ったが、カムバックを果たし、子どもたちにとって憧れの存在であり続けた。

 2011(平成23)年、佐古は40歳で現役を引退した。引退会見で今後について問われると、こう答えた。
 
 「日本がオリンピックに行くことを夢として持っていたい」
 
 20年以上情熱を燃やし続けてきたオリンピック出場は、ついに叶わなかった。それでも、世界の扉をこじ開ける者たちが必ず現れる。それまでは決して諦めない。そう心に誓った。
 
 引退の翌年、佐古は日本代表の強化委員長に就任した。それは、次の世代にバトンを渡す新たな戦いの幕開けだった。日本のバスケがオリンピックに近付くために、佐古が強く提案したことが、2つある。若手選手の代表への起用と、ポジションのコンバート(配置転換)だ。

 それまでの代表選考は、将来性より現在のプレーを見て行われることが多く、代表チームには同じような年齢の選手が集中する傾向にあった。「それだと、僕たちみたいに、世界選手権に自力で出場できたとしても単発で終わる」。そう考えた佐古は、中長期的な視点に立ち、若い選手を積極的に代表に抜擢した。さらに、世界で戦うためには代表チーム全体の体格の大型化が不可欠だと考え、所属チームとは違うポジションへのコンバートも行った。

 佐古のこうした方針に基づいて選出された若い選手の中に、まだ高校2年生だった渡邊雄太と、大学で活躍していた比江島 慎がいた。彼らを見て佐古は「今までの日本のバスケを変える人間だ」と感じたという。
 
 「比江島、渡邊、それに八村(塁)もそうですけど、彼らをパッと見た時に、もう世界レベルの人間がここにいるじゃん、と思いました。実力だけでなく人間力も備わっていて、求心力があって、何かムーブメントを起こせる人間が。我々は、そういう選手をちゃんとコートに立たせていろんなことを経験させるべきだし、それを怖がっちゃいけないと思ったんですよね」

新世代の選手たち
 日本代表に呼ばれ始めた時期の自分を、渡邊は「代表でやれる力はまだなかった」と振り返る。

 「ただ、レベルの高い相手と日々練習ができるのは、僕にとってプラスしかなかった。当時、高校生の一番下っ端だったので、日本代表が世界で勝つにはどうしたらいいのか、みたいなことまで考えてやっていたわけではなく、単純に自分よりレベルの高い相手と日々プレーして、いろんなことを学べる成長の場だと考えていました」

 そして、代表入りした若手の中でも、「日本の宝になる」と佐古が強く推した選手が、当時22歳の比江島だった。

 「当時の日本ではすごく珍しい、ボール運びからセンターまでできるオールラウンダーとしての資質がありました。どのポジションでも高いスキルを持っていて、本人にも『これからいろんなことを学んでいったら、間違いなく代表に必要な選手になるよ』という話をしたんです」
 
 実は比江島には、現役時代の佐古との思い出がある。小学生の時、地元・福岡のミニバスケットボール大会にゲストとして招かれていた佐古に、サインをもらったのだ。
 
 「めちゃくちゃ嬉しかったです。サインをもらったTシャツ、今でも持っています。代表に入って、憧れの佐古さんが僕に期待してくださっていると聞いた時も、うれしかったですね。自分でも独特のリズムのステップを持っていると思ってはいたんですけど、佐古さんに『真似できない』と言っていただいて、自信に繫がりました。あの時は、もしかしたら僕より能力が高い選手がいたかもしれませんが、それでも先を見据えて若いうちから代表に呼んでくれたことに、すごく感謝しています」

 比江島は、大事な場面で見せる爆発的な得点力を持っていた。シュートが決まり続け、誰にも止められなくなる「比江島タイム」は、学生バスケ界でもよく知られていた。だが、そこには課題もあった。プレーにムラがあり、比江島タイムに入るスイッチが、なかなか入らない。
 
 「自分でスイッチを押せない、頑張りどころを自分で決められない、切羽詰まらないと力が発揮できない。これは、悪い面だったと思います。ただ、本人は頑張ってるんだけど、頑張ってる感がない比江島のナチュラルさに、僕は惚れ込んだ。フワフワしているようで、たまにビカーン! と思いっきり光ったりする。その光を自分でコントロールできるようになったらすごいんだけどな、と思っていました」(佐古)

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