第4回 森繁久彌(後編)☆ 小津安二郎への反抗
今でもスタジオ入口に『七人の侍』と『ゴジラ』の壁画を掲げる東宝。〝明るく楽しいみんなの東宝〟を標榜し、都会的で洗練されたカラーを持つこの映画会社は、プロデューサー・システムによる映画作りを行っていた。スター・システムを採る他社は多くの人気俳優を抱えていたが、東宝にもそれに劣らぬ、個性豊かな役者たちが揃っていた。これにより東宝は、サラリーマン喜劇、文芸作品から時代劇、アクション、戦争もの、怪獣・特撮もの、青春映画に至る様々なジャンルに対応できたのだ。本連載では新たな視点から、東宝のスクリーンを彩ったスタアたちの魅力に迫る。
社長シリーズもすっかり軌道に乗り、東宝から言いくるめられて(森繁曰く「美味しい話に乗って」)久松静児監督と共に自主製作したのが『地の涯に生きるもの』(60)という映画である。
苦労して一千万円という金をこしらえたわりには「一銭も儲からなかった」作品だが、転んでもただでは起きないのが森繁の真骨頂。ロケでお世話になった羅臼の人たちに感謝を込めて披露した歌「さらばラウスよ」が、のちに「知床旅情」として大ヒットしたのはご存知のとおりだ。
これが59年の後、自宅近くの千歳船橋駅で電車接近メロディとして使われることなど、当の本人にも予測できない未来予想図であったろう。
これは、小津安二郎が宝塚映画で撮った『小早川家の秋』(61)に出演したときの話。
森繁久彌の俳優人生には何度か反抗的態度が見られるが、このとき小津とぶつかったエピソードも実に面白い。小刻みにカットを割り、俳優にアドリブ演技を許さない小津の演出手法に辟易した森繁は、撮影が済むや共演の山茶花究と連れ立ち、小津の宿に殴り込みをかける。
すると小津は「俺の映画に軽演劇の芝居は要らない」として、「同じ芝居を繰り返してみせられない」森繁らを強く非難。「脚本に書かれていること以外、何ひとつ許容しない」という強硬姿勢に出る。
この一件以来、のちのちまで小津に対する反発を隠さなかった森繁。しかし、残された脚本と本編とを見比べてみると、森繁の台詞回しには明らかに脚本と違う箇所がある。
恐らくこんなことができた俳優は、森繁ただ一人! あの小津も認めざるを得なかった軽演劇役者の意地、すなわち〈反抗〉の証拠が『小早川家の秋』には確かに残っているのだ。
▲さぞかし緊張感のある現場であったろう『小早川家の秋』。原節子や加東大介は、小津と森繁の確執をどう見ていたのだろうか(イラスト:Produce any Colour TaIZ/岡本和泉)
さて、戦後満州から引き揚げた森繁が住ったのは、東京都下の狛江。これは役者稼業などしていては大阪の実家には戻れないと悟った森繁が、妻の親戚を頼ってのものだった(※1)。やがて古巣の東宝(菊田一夫)から声がかかり、衣笠貞之助監督『女優』(47)の小さな役に抜擢。ムーラン・ルージュ(※2)での活動を経て、『腰抜け二刀流』(50)以降、主演作が増え、収入もそれなりにアップした森繁が自宅を建てたのは世田谷の船橋であった(※3)。
▲新築中の自宅前で家族や大工さんたちと。その衣裳から『海道一の暴れん坊』(54)撮影時のスナップと思われる
▲完成した自宅(左)と連合映画(のちの東京映画)のスタジオ(二枚とも森繁建氏提供)
森繁邸の、まさに隣に位置したのが東京映画のスタジオである。駅前シリーズの他、豊田四郎や川島雄三監督の文芸作がここで撮影され、森繁の痴呆老人ぶりが話題を呼んだ『恍惚の人』(73)では、撮影所近くの環状八号線で大がかりなロケが実施された。
息子の嫁・高峰秀子が、環八を徘徊する森繁を砧二丁目から八幡山までタクシーで追跡するシーンは、まるで刑事アクションのごとし。このとき59歳だった森繁は、しつこい豊田の演出に辟易しながらも、悠々と危険なシーンをこなしている。
そして森繁は、『暖簾』(58)や『青べか物語』(62)などで組んだ川島を「この人が一番立派」と最大限に評価する。『喜劇 とんかつ一代』(63)の主題歌も忘れがたい味をもつが、怪作『グラマ島の誘惑』(59)で森繁が演じた皇族役など、いったい他の誰にこなすことができようか。川島が撮った駅前シリーズを見たかったのは、決して筆者のみではないはずだ。
相性が良かった松林宗恵、「大好きな映画ばかり」と振り返る久松静児の他、数多の名匠・巨匠と組んだ森繁。「どの監督のことを評価していたか」と子息の建氏に問うと、真っ先に出たのがマキノ雅弘のお名前。自著でも「この師匠から(映画のコツを)盗むだけ盗んだ」と語っており、『次郎長三国志』の森の石松は、やはり森繁にとっては特別なものだったのだろう。マキノも、‶石松〟は森繁が「是非に」と願い出てきて実現した役だったと証言しており、乗りにノッて演じた役だったことが窺える。道理で森繁は、『七人の侍』の人足役など見向きもしなかったわけだ(※4)。
黒澤作品には縁がなくとも、まさに〝東宝の顔〟と言うべき存在に登りつめた森繁。あの大俳優・丹波哲郎でさえも、「私が今でも尊敬するのは森繁さん。あんな器用な人はいない。あの人の器用の中にはハートがある」と最大限に評価する。「東宝スタジオの入口に鎮座すべきは、ゴジラじゃなくて森繁久彌でしょう!」と建氏が力説するのも、誠にごもっともなことである。
怖いものなどなかったであろう森繁に、説教した俳優がいる。『サラリーマン忠臣蔵』(60~61)撮影時、いつものように一人、遅れてステージ入りする森繁をスタッフの前で叱ったのは、誰あろう世界のミフネ! 普段から「親爺」と呼び、趣味の鴨撃ちを共にする(それも真面目人間の)三船敏郎だからこその進言であったろう。
権威を振りかざす監督たちには徹底して反発した森繁。巨匠・溝口健二については、そのワガママぶりを「子供と同じ」と批判、撮影現場で揉めた加藤泰に対しては、ローアングル・スタイルを「小津の真似」と揶揄したりもしている。
建氏は父を「私生活では決して苦労人とは言えず、がつがつしたところのない人」だったと振り返るが、森繁は〝反骨の士〟だったからこそ、東宝からも一目置かれ、あれだけの評価や尊敬を受ける名優になり得たのではないか。筆者には、そう思えてならない。
ちなみに森繁は、斎藤寅次郎と成瀬巳喜男の作品には、一本も出ていない。‶喜劇の神様〟のナンセンス・コメディや、松竹で「小津は二人要らない」と言われた成瀬映画に、果たして森繁はどんな態度で臨んだのだろうか。
※1 家の傍には泉龍寺という寺があり、寺の地所にはのちに黒澤明が住む。
※2 劇団での稼ぎは酒代で消え、家計を支えたのは妻の内職収入。「頼りにしてまっせ」を地でいく森繁は、終電の経堂から線路を歩いて帰るのが常だったという(建氏談)。
※3 収入が増え自宅を建てたのは良かったが、税金のことを失念していた森繁。翌年には家具という家具に「差し押さえ物品」の紙が貼られてしまう(同前)。
※4 森繁の代わりを演じた俳優等については、拙著『七人の侍 ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)を参照されたい。
高田 雅彦(たかだ まさひこ)
1955年1月、山形市生まれ。生家が東宝映画封切館の株主だったことから、幼少時より東宝作品に親しむ。黒澤映画、クレージー映画、特撮作品には特に熱中。三船敏郎と植木等、ゴジラが三大アイドルとなる。東宝撮影所が近いという理由で選んだ成城大卒業後は、成城学園に勤務。ライフワークとして、東宝を中心とした日本映画研究を続ける。現在は、成城近辺の「ロケ地巡りツアー」講師や映画講座、映画文筆を中心に活動、クレージー・ソングの再現に注力するバンドマンでもある。著書に『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『七人の侍 ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)、近著として『今だから! 植木等』(同2022年1月刊)がある。