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日本映画の歴史が変わった瞬間とは。ゴジラ、アカデミー賞:35人の精鋭が、ハリウッドの度肝を抜いた──試し読み【新プロジェクトX 挑戦者たち】

NHK出版デジタルマガジン

日本映画の歴史が変わった瞬間とは。ゴジラ、アカデミー賞:35人の精鋭が、ハリウッドの度肝を抜いた──試し読み【新プロジェクトX 挑戦者たち】

 情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。『新プロジェクトX 挑戦者たち 6』より、第一章「ゴジラ、アカデミー賞を喰う――VFXに人生をかけた精鋭たち」の冒頭を特別公開。

ゴジラ、アカデミー賞を喰う――VFXに人生をかけた精鋭たち

1 VFXに魅了された男

日本映画初の快挙

 それは、日本映画の歴史が変わった瞬間だった。
 「オスカーの行方は……、ゴジラ!」
 2024年3月10日、第96回アカデミー賞の授賞式で『ゴジラ-1.0』が邦画史上初となる「視覚効果賞」を受賞した。デジタル技術を駆使した視覚効果――“VFX”の分野において、日本は長らく「ハリウッドの20年遅れ」と言われてきた。その雪辱を、ゴジラが晴らしたのだ。
 「3回見た」
 そう述べたのは、現代映画界の巨匠スティーブン・スピルバーグ。ハリウッドの映画人たちは、祝福と称賛を惜しまなかった。ゴジラのドキュメンタリー製作に携わったこともある映画プロデューサーのスティーブ・ライフルが言う。
 「過去のゴジラ映画で使用された特殊効果は、デジタル時代に移行してから批評家たちの間で見向きもされませんでした。しかし、『ゴジラ-1.0』では本当に大きな進歩を遂げました。彼らの仕事はハリウッドと同等のレベルに達したと思います」
 ”彼ら“の仕事場は、東京都調布市にある。VFXを担当したチームのメンバーはわずか35人に過ぎない。ハリウッドの大作では、CGを制作するアーティストや、映像を加工・編集するコンポジターなど、1000人規模のVFXスタッフが投入されるのが当たり前。また、『ゴジラ-1.0』の製作費は邦画最大規模の予算だったが、ハリウッドの大作はその10~20倍もの巨費が注ぎ込まれる。その差は歴然としていた。
 ヒトも、カネも、海の向こうには及ばない。そんな条件下で、いかにしてハリウッド映画のVFXに太刀打ちできる作品を完成させるか――。
 指揮を執ったのは、少年時代に怪獣映画に心を躍らせた気鋭の映画監督。挑戦への道を拓いたのは、希代の豪腕プロデューサー。
 二人がタッグを組んだ2007年公開の作品には、フルCGのゴジラが登場する。だが、スクリーンに映ったのは、質感の薄い”つるつるのゴジラ”。描きたかった姿とは違った。ましてや、ハリウッドの高度な技術には遠く及ばない。
 これが限界か――敗北感を味わったそのとき、後ろを振り返ると、二人の仕事を見て育った若きクリエーターたちの姿があった。二人は、若き才能たちと一緒になって、再び闘うことを決めた。
 「新たな才能を発掘せよ」
 仕掛けたのは、SNSを使った前代未聞のスカウト大作戦。デジタルネイティブと呼ばれるZ世代の精鋭たちが、ゴジラ映画の制作に加わる。
 脚本は、タブーに切り込んだ。VFXは、途方もない難題に立ち向かった。35人では、ハリウッドと同じやり方はできない。しかし、圧倒的に不利な条件のなかにこそ”秘策”が潜んでいた。
 これは、あきらめることを知らない日本の技術者たちが成し遂げた、番狂わせの記録である。

VFXの洗礼

 話は1970年代に遡る。ハリウッド映画が日本中を熱狂させていた当時、長野県松本市に、小遣いを貯めて映画を見に行くことを楽しみにしていた中学生がいた。少年の名は、山崎貴。
 1978年、山崎は一本の映画に魂を揺さぶられた。スティーブン・スピルバーグ監督が生んだSF映画の金字塔、『未知との遭遇』である。
 「本物じゃないかっていうくらいの、とてつもなくリアルなUFOが出てきた。想像をはるかに超えた映像を目の当たりにして、これはやられたと。脳が焼かれた瞬間というか、それ以来、なんとしてもこういう仕事に就つ くしかないと意識するようになったんです」
 幼い頃から「特撮」は見慣れていた。自らを「怪獣世代」と称する山崎は、テレビでウルトラマンやウルトラセブンを見て育った。映画館でゴジラを見たのは、小学生のときだったという。
 「家の風呂が壊れて、家族で銭湯に行ったら『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)の再上映のポスターが貼ってあって、松本城が襲われると書いてあったんです。地元に怪獣が来る、ものすごく見たい、これさえ見せてくれたら映画には一生連れて行ってくれなくてもいいと父親に直談判して、初めてゴジラを映画館で見ました。松本城が壊されるシーンは一瞬でしたけれども、ゴジラは怪獣の一番原始的なフォルムだと感じて、もう本能的に惹かれましたね」
 その後、ハリウッドの特撮映画が日本でも次々と公開され、同級生は『ジョーズ』(75年)や『キングコング』(76年)に夢中になっていた。だが山崎は、父に大きな口をきいた手前、映画館に連れて行ってくれとは言えない。クラスの話題から取り残されまいと、本や雑誌で人気映画のあらすじを頭に叩き込んだ。
 「おそらく、その時期にシナリオの技術が少しだけ身についたのかもしれません」
 同時に、山崎少年は”夢”を得た。少年雑誌の巻頭で特撮映画のメイキングが特集されているのを読み、「怪獣ごっこ」を仕事にしている大人たちがいることを知ったのだ。
 中学生になると、自分のお年玉で映画に通えるようになる。なけなしのお金を使って見た『未知との遭遇』や、ジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ』(78年)が、少年の人生を変えた。VFXの洗礼を受けた山崎は、興奮を抑えきれなかった。
 「神と出会ったみたいな感じでしたね。一方で、『スター・ウォーズ』のメイキングを見たときに、宇宙船の造形にTAMIYAのプラモデルの部品が使われていると紹介されていたんです。お小遣いで買える日本のプラモデルで、あんなにすごい映画がつくられていると知った瞬間、『オレにもやれる』って思っちゃったんです」
 将来、どんな仕事に就きたいか――。中学校の卒業文集に、山崎は迷わず「特撮監督」と書いた。大いなる挑戦は、ここから始まった。

ハリウッドから20年遅れの技術

 18歳で上京した山崎は、阿佐ヶ谷にある美術専門学校に通った。同級生には、のちに山崎と結婚する映画監督の佐藤嗣麻子がいる。学生時代の山崎は、どんな人物だったのだろうか。
 「動物園をデザインするという課題で、毎日動物園でいっぱいクロッキーを描かなくちゃいけないのに、山崎君はそれをすっかり忘れていたんです。提出の当日、そこらへんにある写真集なんかを見て、その場で一筆書きみたいにバーッと描いて提出したから、『この卑怯者!』って思っていたら、彼のクロッキーを先生たちが『勢いが素晴らしい』と絶賛するんですよ。飄々としていながら要領がいいというか。その頃から、映画をつくりたいという話はしていましたね」
 当時の山崎は映像のゼミを受講していて、そこにアルバイトの口があった。仕事は博覧会の展示映像制作。募集していたのは「白組」。日本でいち早くVFXを手掛けた映像製作プロダクションだった。
 「白組ってどんな会社だろうと思って調べてみたら、CMもやっているし、映画もやっている。ここだったら自分のやりたいことがいろいろやれるぞと思って、アルバイトをするようになったんです」
 専門学校を卒業した山崎は、そのまま白組に入社した。直後に調布スタジオが完成すると、社長の島村達雄から「仕切りを君に任せたい」と告げられる。わずか21歳の山崎は面食らった。
 だが、山崎を待っていたのは悲しい現実だった。1980年代、デジタル映像革命の波が押し寄せたハリウッドではVFXも次第に進化し始めていたが、日本の映像制作の現場ではアナログの技法がまだまだ主流だった。山崎はVFXに強い関心を寄せていたが、取り組むことすらできなかった。
 「僕の仕事はミニチュアメーカーだったんですよ。当時のデジタル技術は数学的な能力がある専門家の仕事という感じで、僕はCGの機械に触ることもできなかった」
 日本のVFX技術は、ハリウッドの「20年遅れ」と言われていた。遠い背中を追いかけて、山崎の孤独な闘いが始まる。
 「ジョブチェンジですよね。倉庫の一部を勝手に占領して、スタジオ内にデジタル合成部を立ち上げたんです。若気の至りで、『ハリウッドではこうやるんです』と本で読んだことをペラペラ吹聴するわけです。ところが『山崎、それならやってみろ』と言われると、全然できない。本には失敗したときのことは書いていないからです。いろいろひどい目に遭いながら、VFXはたくさんの失敗の上に成り立っている作業で、大事なのは経験値だと痛感しました」
 失敗を積み重ねた先に、チャンスはめぐってきた。鬼才・伊丹十三監督の『マルサの女2』(1988年)で、崖が崩れるシーンのミニチュアを作成したことがきっかけとなり、伊丹組のVFXスーパーバイザーを任されたのだ。
 「まだペーペーだった僕の提案にも伊丹監督は乗ってくれて、どんどん会話が盛り上がった。日本映画界の中枢にいるような存在なのに、やる気のある若手の意見を大事にしてくれる監督でしたね」
 1993年公開の伊丹作品『大病人』では、調布スタジオの初期メンバーである早川胤男・渋谷紀世子とともに、「死後の世界」のシーンをつくり上げた。オン・ザ・ジョブ・トレーニングで研究と試行錯誤を繰り返した末にたどり着いた映像表現。これが、日本映画初の本格的なVFXとなった。
 だが、山崎は満足しない。理想にはほど遠かったからだ。
 「僕たちが頑張ってつくっても、ハリウッドではとんでもないVFXが次々に発表されていた。日本との差は開いていく一方だと感じていました」

こうなったら監督になるしかない

 転機は思わぬところから訪れた。専門学校の同級生だった佐藤嗣麻子が留学先のロンドンから帰国し、監督として『エコエコアザラク』(1995年)を制作することになった。山崎はVFXの担当を買って出る。
 「この仕事が僕にとっては大惨事でした。彼女の才能は学生時代から認めていたんですけれども、監督としてはめちゃめちゃ厳しいんです。こっちは優しさのつもりでVFXを超低予算で引き受けたのに、要求があまりに多くて、とにかくたいへんだった」
 そんな制作現場で、監督の佐藤は山崎の心の内を垣間見た。
 「彼が監督の領域まで踏み込むような発言をしたときに、『あなたは監督じゃないんだから』って言ったことがあったんです。それを『まだ監督になれていないんだから』という意味に受け取ったのか、急に機嫌が悪くなって、黙っちゃったことがありましたね」
 実は山崎自身、VFXスーパーバイザーという立場にジレンマを抱えていた。自分がやりたいことができているのか? このままだと、本当につくりたいVFX作品をつくれないまま一生を終えるのではないか? 日本映画におけるVFXの最先端を走りながらも、山崎の心は晴れなかった。
 「いまにして思えば、『あなたは監督じゃないんだから』というのは、背中を押された言葉でしたよね。自分が一番やりたかったスペクタクルなSF映画をつくるためには、自ら企画を出せなければならない。それには監督になるしかないと思ったんです」
 折しも、白組も変化を求めていた。受注仕事だけでなく、オリジナル作品を創造できる会社を目指し、社員に対して企画の募集を呼びかけた。まさに渡りに船。山崎は迷わず飛び乗った。
 「ものすごく燃えて、緻密な世界観をつくり上げて、『スター・ウォーズ』みたいな壮大なスケールの長編映画の脚本を書いたんですよ」
 『鵺/ NUE』と題された、山崎渾身の企画。だが、社長の島村は首を縦に振らない。
 「ウチでは無理だ」
 映像化は資金面で実現不可能だった。とはいえ、シナリオは抜群に面白い。原作者としての山崎の才能を認めた島村は、企画書を携えて、ある人物を訪ねる。
 それが山崎の運命を変えた男――裸一貫からのし上がった豪腕プロデューサー、阿部秀司である。

■『新プロジェクトX 挑戦者たち 6』目次
I ゴジラ、アカデミー賞を喰う――VFXに人生をかけた精鋭たち
II 白鷺城はよみがえった――世界遺産・姫路城 平成の大修理
III 車いすラグビー 執念の金メダル――仲間を信じて ひとつに
IV 人生は何度でもやり直せる――ひきこもりゼロを実現した町
V カーリング 極寒の町に熱狂を――じっちゃんが夢をくれた

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