Yahoo! JAPAN

稀代の音楽プロデューサー・小室哲哉の出世作でもあり、多くの人に元気をもたらす渡辺美里の「My Revolution」

コモレバWEB

稀代の音楽プロデューサー・小室哲哉の出世作でもあり、多くの人に元気をもたらす渡辺美里の「My Revolution」

 
 新しい年が始まったというのに気持ちが晴れない。なんとなくパソコンの検索窓に「元気が出る曲 80年代」と入れてみた。そこに列挙されたのは、「ファイト!」(中島みゆき)、「SOMEDAY」(佐野元春)、「夢をあきらめないで」(岡村孝子)、「僕がぼくであるために」(尾崎豊)、「元気を出して」(竹内まりや)……とともに、ピックアップされていたのが、渡辺美里の「My Revolution」だった。渡辺美里は、西武球場のコンサートなどで、汗まみれになってパワフルに歌う健康美のシンガーというイメージが強かった。たしかに彼女の歌う姿に励まされる人もいるだろうが、当時個人的には敬遠しがちだった。もともとテレビの歌番組に出演するタイプではなく、コンサート活動の多いミュージシャンだ。今はどんな活動をしているのかと、ふと頭を過ったのである。

 渡辺美里は1985年、シングル「I ‘m free」でEPIC・ソニーからメジャーデビューした。85年といえば昨年帰らぬ人となった中山美穂をはじめ南野陽子、本田美奈子、斉藤由貴、浅香唯、石野陽子、芳本美代子、松本典子、それにおニャン子クラブといった、アイドルを多数輩出した年だ。渡辺美里は、そんなアイドル歌手とは一線を画していた。もともと歌うことが大好きで、高校時代からアマチュアバンドを結成し、学園祭のステージに立っていた渡辺は、17歳の時、84年の「ミス・セブンティーンコンテスト」に出場した。このコンテストは週刊「セブンティーン」とCBSソニー(当時)の共催によるもので、渡辺が出場した年は18万人を上回る応募者数で最高記録を樹立した。出場者には、おニャン子クラブのメンバーになった国生さゆり、工藤静香、その他には木村亜希(のちの清原亜希)もいた。因みにグランプリは、松本典子と網浜直子だった。

 歌唱賞を受賞した渡辺は「セブンティーン」の表紙モデルなどで活躍後、デビューの翌年86年1月22日、川村真澄作詞、作曲小室哲哉、編曲大村雅朗による4枚目のシングル「My Revolution」のヒットで一躍人気シンガーに躍り出たのである。
 カーラジオから「My Revolution」が流れてきて初めて耳にしたとき、イントロが印象的で、真っすぐでどこまでも澄んでいる歌声とノリの良い軽快なメロディーは新しい時代がやってきたと感じた。1月にリリース後、2月のザ・ベストテンでは5位にランキングされ初出場を果たし、週間オリコンチャートでも初の1位にランキングされる。時代もバブル景気に入る前の好景気で、取り巻く社会も明るかった。渡辺のイケイケの格好いいキャラクターは時代とも合っていたのかもしれない。ライブツアーで全国18カ所を回り、夏には大阪スタヂアムを皮切りに、ナゴヤ球場、西武ライオンズ球場と大きなステージで堂々としたライブを行う。これは女性ソロシンガーとしては初めてで、強く逞しい新しい時代の女性シンガー降臨という感じがした。

 
 「My Revolution」は、渡辺美里の代名詞ともいう曲であるが、この曲を作曲した小室哲哉にとっても、「My Revolution」は、世に出るきっかけとなった楽曲だと言われている。一時は希代の天才音楽プロデューサー、平成のミリオンセラー仕掛け人ともてはやされた。小室は、3歳からバイオリンを習い、小学生の時、大阪の万博博覧会の日本館で、〝シンセイサイザー〟の存在を知ったことが、その後の小室に大きな影響を与えた。25歳の時に、宇都宮隆、木根尚登とともに「TM NETWORK」を結成。アルバム『Rainbow Rainbow』でデビューしたが並行して中山美穂、松田聖子、小泉今日子、荻野目洋子、中森明菜などにも曲を提供し、プロデュース活動もしていたが知名度は低かった。ところが当時同じ事務所の渡辺に提供した「My Revolution」のビックヒットにより、作曲家としての地位を確立したのである。

 小室だけでなく、大江千里、後藤次利、小林武史、岡村靖幸、高校の先輩でもある清水信之、佐橋佳幸なども渡辺へ楽曲を提供、渡辺は自らも作詞作曲を手がけるようになる。今回一連の曲を聴いてみたが、心地よい曲がたくさんあった。例えば、「悲しいね」(87年、作詞渡辺美里、作編曲小室哲哉)は、最初のイントロから曲に引き込まれ、ハスキーながらパンチがあり曲全体にメリハリがある。特に歌詞の「一番の勇気はいつの日も 自分らしく素直に生きること」は渡辺の人生観とも言うべきメッセージが素直な歌詞で綴られ、こちらも名曲だ。

「卒業」(91年、渡辺美里作詞、小室哲哉作曲)は、「卒業できない恋もある」の歌詞にグッと来た。一語一語丁寧に発音して聴きやすく、桜の花びらが舞う風景が浮かんでくる。「My Revolution」とはまた違った渡辺の幅の広さが伝わってくる名曲だ。

「悲しいボーイフレンド」(85年、作詞作曲大江千里)、「10years」(88年、作詞渡辺美里、作曲大江千里)、「夏が来た!」(89年、作詞渡辺美里、作曲大江千里)なども渡辺の強さだけではない優しさが伝わってきた。魅力的な曲を歌いこなす歌唱力を兼ね備えた渡辺だからこそ野外ライブでも観客を沸かせたのだろう。

 所沢の西武ライオンズ球場でのスタジアムライブは、86年から2005年まで20年連続公演という前人未到の記録を達成した。全盛期には4万枚のチケットが完売するほどだった。高校時代渡辺がラグビー部のマネージャーをしていたことから、ライブのタイトルも「KICK OFF」にはじまり、「NO SIDE」で終わった。06年からは、「美里祭り」のタイトルで毎年様々な都市でライブを続けていた。しかし、コロナ禍でライブができない状態になり、家で過ごす時間が多くなると、ベランダ菜園やお気に入りのワンピースをリメイクして小物づくりに勤しんでいたことをトーク番組で語っていたが、渡辺美里の知られざる一面を知り、抱いていたイメージが変わった。

 そして今年は歌手生活40周年の記念の年で「渡辺美里 40周年BITTER☆SWEET ULTRA POP TOUR」が全国で開催される。パワーアップした渡辺の姿がみられるに違いない。

「My Revolution」は、作詞川村真澄、作曲小室哲哉によって作られた曲だが、このコンビでは、沢口靖子「Follow me」(88)、宮沢りえ「ドリーム ラッシュ」(89)などの楽曲も生み出している。今や女優としての確たる地位を築いている二人だが、ドーナツ盤を出していたとは露ほども知らなかった。同じように80年代後半につくられた曲であっても、一方は不朽の名作になり、一方は埋もれてしまうこともあるのだ。そして同時期に華々しくデビューしたアイドルのそれぞれの40年も千差万別である。 
 渡辺美里は、浮ついたスキャンダルもなく清々しい生き方をしている女性だと改めて好感を持ったのである。

文=黒澤百々子 イラスト=山﨑杉夫

【関連記事】

おすすめの記事

新着記事

  1. 取り扱いに注意!「感動」を語彙で伝える方法とは?【プロの小説家が教える クリエイターのための語彙力図鑑】

    ラブすぽ
  2. カスハラ防止、4割の企業が対策強化 一方で被害を受けた社員のケアなど課題山積 経団連調査

    月刊総務オンライン
  3. 名張市が詐欺被害防止の「ひやわん」ステッカー作製 公用車で発信

    伊賀タウン情報YOU
  4. 5/31(土)ビーチフェスTHE BEACH 2025開催決定!ケミカル・ブラザーズがDJ SETで出演

    FLOOR
  5. 矢場とんの「ご飯のおかわり無料」が終了へ 大盛り無料は継続

    おたくま経済新聞
  6. 朝まで『大型犬と一緒に寝てみた』結果…幸せオーラ全開な『添い寝をする光景』が13万再生「甘え方が可愛すぎる」「まるで恋人のよう」と悶絶

    わんちゃんホンポ
  7. <ひねくれ手遅れ>「ママとパパに何か買ってあげたい」と言う子に「誰のお金で?」と返した旦那

    ママスタセレクト
  8. 飼い主『肉球可愛いいい』→プニプニしていたら…嫌がる様子がなかった猫の『突然の仕草』が怖すぎると13万いいね「警告してるw」「静かにw」

    ねこちゃんホンポ
  9. 必要なアイテムは7つだけ!ベランダで気軽に本格的な家庭菜園をスタートしよう

    田舎暮らしの本 Web
  10. 尾上菊之助改め八代目尾上菊五郎、尾上丑之助改め六代目尾上菊之助 襲名披露興行のティザービジュアル・ムービーが公開

    SPICE