江戸屈指のクリエイター・平賀源内の、今も参拝者が絶えない墓へ。大河ドラマ『べらぼう』ゆかりの地を歩く【其の参】
大河ドラマ「べらぼう」を見ていると、毎回その言動が気になって仕方がない人物がいる。ある意味、もうひとりの主人公といっても過言ではない存在。それは江戸時代の天才クリエイター・平賀源内だ。主人公の蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう、以下蔦重)が何か壁にぶつかるたびに、フラリと現れては解決への糸口を探り当てる。平賀源内というのは実に多彩で、そのうえつかみどころのない人物である。もともとは讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の下級武士・白石家の三男として享保13年(1728)に生まれた。身分が低かったにもかかわらず、藩医の元で本草学を学び、宝暦2年(1749)頃には長崎へ1年間の遊学に出ている。長崎に行くことができたこと自体が謎なのだが、そのうえ何を学んでいたのか記録が定かではない。その後の活躍ぶりから、オランダ語や医学、油絵などを学んでいたのであろうと考えるのが自然だ。
【今回のコース】源内が眠る値を中心に三ノ輪駅から浅草を歩く
ドラマ内でも多才ぶりが描かれ、吉原をはじめとする市中の人たちだけでなく、時の権力者であった老中の田沼意次にまで頼られている。しかも市中のさまざまな場所に姿を現す神出鬼没ぶり。今回はそんな物語のキーパーソン、平賀源内が眠る地を中心に歩いてみることにしよう。
現在の吉原界隈にも、その足跡が多く残されているのではないか。そう考え、散歩のスタートは1回目の終着点、地下鉄日比谷線の三ノ輪駅とした。
地下鉄三ノ輪駅→(5分)→三ノ輪二交差点(10分)→あしたのジョー像→(5分)→吉原大門交差点→(15分)→大釜本店→(5分)→平賀源内の墓→(5分)→お化け地蔵→(3分)→妙亀塚→(5分)→本性寺→(8分)→今戸神社→(5分)→待乳山聖天→(10分)→旧猿楽町→(10分)→山東京伝机塚の碑→(10分)→大河ドラマ館→(10分)→地下鉄浅草駅
源内さんと会う前にジョーと遭遇
地下鉄三ノ輪駅3番出口から地上に出ると、たくさんの車が行き来する、明治通りの光景が飛び込んでくる。その通りに沿って南東に向かうと、200mばかりで「三ノ輪二」という変則的な交差点にぶつかる。明治通りはやや左に曲がっているが、直進に近い方向に向かう道が吉原へと続く土手通りである。この道を15分ほど歩くと、第1回目で紹介した見返り柳がある吉原大門の交差点前に出る。
その交差点を目指し三ノ輪駅から10分ほど歩くとジャケットを肩にかけ、颯爽と歩く姿の矢吹丈の立像と遭遇する。昭和を代表する名作漫画『あしたのジョー』の舞台となっていたのが、かつては“山谷のドヤ街”と呼ばれていたこの一帯であった。
“山谷のドヤ街”は土手通りから300mほど東にある旧日光街道の泪橋交差点と、像が立つあたりを結んだエリアを指している。
かつては日雇い労働者の街で、彼らが宿泊した宿が立ち並んでいたことから、ヤドを反対から読んでドヤ街と呼ばれるようになったとか。今ではそんな面影は感じられない。2012年に街や近隣商店街活性化のため、ジョーの像が立てられた。ただ一人で立つ姿は、少し寂しそうに思えた。
昔ながらの商店街で懐かしい味に舌鼓
ジョーの像からさらに浅草方面に向かうと、吉原大門の交差点の前に至る。そこを右に向かえば1回目に散歩した吉原だが、今回は左へ続く道にある「日の出会商店街」と、さらにその先の「アサヒ会通り」方面へと向かう。というのも、ふたつの通りを越した場所に「平賀源内の墓」があるからだ。
日の出会商店街は東浅草2丁目から日本堤1丁目に位置し、吉原大門交差点から約350m続いていて、飲食店だけでなく天然温泉など、個性的な店が点在。どこか懐かしさを感じさせる街並みも魅力的。そんな日の出会商店街を抜けると、今度はアサヒ会という名の商店街が出てくるという絶妙な取り合わせ。こちらは年代ものの総菜屋や稲荷寿司の店などが並ぶ、昭和感満点の通りだ。この通りの店をすべて巡る、という目的でも十分面白そう。
自然と足取りが軽くなる風景につられ、おなかまで軽くなってきた。するとおあつらえ向きに「らーめん やきそば」と書かれたのれんを下げた『大釜(だいかま)本店』が目に入る。店頭に置かれた年代もののショーケースには、いなり寿司や赤飯が並ぶ。建物自体は新しいが、ショーケースの効果もあってか、どこか懐かしい雰囲気が漂う店構えだ。
店内はカウンターとテーブル席が並び、カウンター前の壁にメニュー札が貼られている昔ながらのスタイル。ラーメンと焼きそばの種類が豊富で迷ってしまったが、意外と食べる機会が少ない焼きそば、それも目玉焼きを載せた目玉焼きそば650円を注文。ラーメンも食べたい気持ちを捨てられず、ラーメンスープ100円も追加。焼きそばはシンプルな味だがソースと相性の良いモチモチ麺は、やみつきになること必至。このスープのラーメンも、次は絶対に食べたいと思った。
ほかに炒めた卵が入った玉子入り焼きそば600円や豚バラ焼きそば650円、ラーメン550円、タンメン850円、みそラーメン700円など、おなかに余力さえあれば食べたくなるメニューが並ぶ。「あべ川餅」や「あんみつ」などの甘味まで食べることができる、今では絶滅危惧種となった昔ながらの“よろず食堂”といえよう。
源内の墓だけでなく興味深い史跡が目白押し
おなかが満足したところで、今回最大の目的地である「平賀源内の墓」へ向かう。江戸時代屈指のマルチクリエーターであった平賀源内は、エレキテル(摩擦起電機)の復元製作や火浣布(かかんぷ、石綿の耐火布)の発明など、科学技術分野での功績のみにとどまらず、風来山人(ふうらいさんじん)や福内鬼外(ふくちきがい)などの号で滑稽本や浄瑠璃などを遺している。
安永8年(1779)11月、誤って殺傷事件を起こしてしまい小伝馬町に入獄。12月18日に牢内で亡くなってしまう。遺体は当時「江戸三箇寺」のひとつに数えられていた橋場の総泉寺に葬られた。昭和3年(1928)、総泉寺は板橋区小豆沢に移転したが、源内の墓はそのまま橋場に残された。
昭和6年(1931)になると源内の生まれ故郷である旧高松藩の当主・松平頼壽(よりなが)により、築地塀が整備された。さらに昭和18年(1943)には国指定の史跡となった。入り口には鉄の扉が設けられているが、鍵はかけられていないので、自由に参拝できる。訪問者が自由に書き込めるノートを見ると、毎日参拝者が訪れているのがわかる。墓前の花も新しいものなので、今も多くの人に愛されている人物だと実感できるだろう。
平賀源内の墓を含め、この付近一帯は総泉寺の境内地であったが、門前周辺は浅茅ヶ原と呼ばれたうら寂しい場所だった。明治40年(1907)に刊行された『東京名所図会』には「浅茅ヶ原の松並木の道の傍らに大いなる石地蔵ありしを維新の際並木の松を伐りとり、石地蔵は総泉寺入口に移したり」とある。
触れられている石地蔵は総泉寺が移転した後も、この地に残されていて「お化け地蔵」と呼ばれている。高さが3mもあり、享保6年(1721)に建立された。その名の由来は、かつては大きな笠をかぶっていたがその笠が人知れず向きを変えることがあった、3mという規格外の大きさだから、などいくつか伝えられている。近くにある常夜灯は寛政2年(1790)に立てられたものだ。
このお化け地蔵からすぐの場所に、真ん中に塚が祀られている不思議な公園がある。この塚は「妙亀塚(みょうきづか)」と呼ばれるもので、謡曲『隅田川』の元になった「梅若伝説」にちなんだものだ。梅若伝説というのは平安時代、吉田少将惟房の子・梅若が、信夫藤太という人買にさらわれ、奥州につれて行かれる途中で、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去ってしまう。我が子を探し求めて、この地まできた母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵をむすんだ、というちょっと悲しい物語なのである。
池波小説でおなじみの神社仏閣が点在
妙亀塚から今戸神社へと向かう途中に、本性寺という法華宗の寺院がある。その前の歩道には、「池波正太郎作品の舞台」という案内板がある。この寺は池波の代表作のひとつ『剣客商売』の主人公・秋山小兵衛の前妻で、息子の大治郎の母であるお貞の墓がある寺なのだ。もちろん作品内での設定なので、実際に秋山貞という人物の墓はない。
門をくぐった左手に「秋山自雲」という方の墓がある。この方がモデルになったのかと思われがちだが、この方は「しゅうざんじうん」と読む痔の神様。痔病に苦しんで亡くなった実在の人だが、同じように苦しむ人の救いになりたいと誓願したことで、痔の神様として祀られるようになったのだ。
そして招き猫や縁結びの社として人気を集めている今戸神社は、平日だというのに多くの人が参拝に訪れていた。ここには縁と円をかけた珍しい丸い絵馬がある。境内にいる人たちは、ほとんどがカップルだったので、早々に次の目的地へと足を運ぶことに。
今戸神社からすぐのところに、1回目で吉原に向かう際の起点とした今戸橋跡がある。その隣にある待乳山聖天は、江戸名所図会や錦絵にもたびたび登場する、江戸を代表する風光明媚な地。その西側麓には「池波正太郎生誕地碑」が立っている。生家は関東大震災で焼失してしまったが、池波はエッセイの中で「生家は跡形もないが、大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものだ」と記している。
待乳山聖天から言問通りを経由して浅草寺へと向かうと、かつて猿若町と呼ばれていたエリアを抜ける。天保13年(1842)、この場所に新しく芝居町が建設された。江戸歌舞伎の始祖である猿若勘三郎(後の中村勘三郎)の名を取り、猿若町という町名となった。以来、芝居小屋だけでなく芝居茶屋、役者や芝居小屋関係者の住まいなどが集まり、江戸の一大歓楽街へと発展していったのである。
今後ドラマを盛り上げる人物ゆかりの碑
言問通り側から浅草寺の境内へと入ると、すぐに本堂の裏側広場に出られる。ここの浅草寺病院側にある植え込み内には、いくつもの石碑が立てられている。
そこには「べらぼう」の重要な登場人物ゆかりの碑もある。それが「山東京伝机塚の碑」だ。
山東京伝(さんとうきょうでん)は多数の洒落本や黄表紙を著した江戸時代を代表する戯作者であり、蔦重の良きパートナーであった。さらに北尾政演(まさのぶ)の画号を持つ浮世絵師の顔も持っていた。ドラマに登場するのが、今から待ち遠しい人物だ。
机塚は京伝がボロボロになるまで愛用していた机を、弟の京山がこの地に埋め、石碑を建立したもの。裏面には京伝の友人で、これまた当時を代表する文化人で、蔦重との交流も深かった大田南畝(なんぽ=蜀山人<しょくさんじん>)の撰による京伝の略伝が銘記されている。京伝を知る貴重な史料でもある。
最後は台東区民会館に設置された『べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館』の前を通り、浅草駅へと向かった。見学は……またの機会にとっておくことにしよう。
次回は水面下での権力争いが激しかった、幕府中枢の人物たちゆかりの地を訪ねたい。
取材・文・撮影=野田伊豆守
野田伊豆守(のだいずのかみ)
フリーライター・編集者
1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など。最新刊として『蒸気機関車大図鑑』が2025年2月19日に小学館から刊行。