秋の行楽シーズン!京都の穴場観光 『洛陽十二支妙見めぐり』に行ってみた
霊験あらたかな「妙見宮めぐり」
妙見菩薩(みょうけんぼさつ)は、夜空に輝く北極星・北斗七星を神格化した菩薩といわれ、宇宙万物の運気を司るといわれます。
尊星王(そんしょうおう)・妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)・北辰菩薩(ほくしんぼさつ)などの別名もあります。
「洛陽十二支妙見めぐり」は、京都御所の紫宸殿を中心として、十二支の方角に祀られている霊験あらたかな妙見宮をまわり、福寿・開運・厄除け・商売繁盛・安産などを祈願する御利益めぐりです。
江戸時代には、朝野を問わず大いに賑わったといいますが、明治維新の廃仏毀釈や様々な事情により衰退してしまいました。
しかし、1986年に「洛陽十二支妙見会」が発足し、200年の歴史と伝統を今に伝える参拝が復活したのです。
「洛陽十二支妙見めぐり」も他の巡礼と同様に、各妙見宮をめぐる順序に決まりはありません。例えば、自分の干支・その年の干支にあたる妙見宮など、めぐり方は参拝者の自由とされています。
それでは、ここからは「洛陽十二支妙見めぐり」の札所=妙見宮を干支順に紹介しましょう。
「子」西陣の妙見宮(善行院)
「善行院」は、文正元(1466)年に、恵眼院日富上人によって創立された妙顕寺の東側に位置する寺院で、「洛陽十二支妙見めぐり」の一番札所とされます。
同寺の妙見尊は、十二支妙見の中でも唯一の「天拝の妙見大菩薩」とされ、もとは御所内の清涼殿に安置されていました。
特に、江戸時代初期に在位した後西天皇の信仰が厚く、天皇は、日々清涼殿に赴き、妙見尊に国家の安泰を祈願しましたが「法華経にて祭祀せよ」との霊無を見て、妙顕寺山内に一堂を建立し、安置したと伝わります。
現在も「天拝の妙見様」として、大いに信仰を集める妙見様です。
公式サイト:https://www.zengyoin.com/
「丑」本満寺の妙見宮(本山本満寺)
「本山本満寺」は、室町時代の応永17(1410)年、関白近衛道嗣の嫡子で、本山本國寺の五世日伝上人の弟子・玉洞妙院日秀上人によって創建されました。
しかし、天文5(1536)年の天文法華の乱に遭い、一時堺に逃れたたものの、天文8(1539)年になり、現在の寺町今出川の地に関白近衛尚道の援助により再建されます。
江戸時代の宝暦年間(1751~1763年)には、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の病気平癒の祈祷に効があり、この時、徳川将軍家の祈願所となりました。
妙見堂は本山境内の西にあり、今も変わらず「出町の妙見様」として信仰されています。
ご神体は、第十三世日乾上人が自ら彫刻した能勢妙見と同体の妙見様として有名です。
公式サイト:https://temple.nichiren.or.jp/5011024-honmanji/
「寅」修学院の妙見さん(道入寺)
「道入寺」は、大験者尊眼院日長上人が苦行し止住した地に、日長上人を開山として正保3(1644)年に創立、法華山道入寺と号します。
日長上人は、修学院村の人々から雨乞いの祈願を依頼され、恵みの雨を降らせたといく伝説をもつ成人としても知られます。
安置される妙見様は僧形の姿をしていますが、これは大変珍しく、七面大明神とともに祀られている。昔から修学院近郊の人々より、霊験あらたから妙見様として崇敬されています。
「道入寺」は、修学院離宮や赤山禅院などがある修学院の住宅地の中に建つ小さな寺院で、庶民的な温かみが魅力的な寺院です。
住所:京都市左京区修学院茶屋ノ前町2
「卯」鹿ヶ谷の妙見さん(霊鑑寺)
「霊鑑寺」は、承応2(1652)年、後水尾天皇が皇女浄法見院宮宗澄尼を開基として創立した門跡寺院。
以降、明治維新まで皇女皇孫が入寺し、鹿ヶ谷比丘尼御所あるいは谷御所と呼ばれる名刹です。
現在も御所人形や貝合わせなど、皇室ゆかりの多くの寺宝を有することでも知られます。
普段は固く門を閉じていますが、庭には後水尾天皇遺愛の日光椿をはじめ多くの名椿があり、春の椿の時期、さらに秋の紅葉の時期に特別公開されています。
妙見堂は山門入口にあり、堂内には不動明王とともに妙見様が祀られます。
妙見様は、鹿ヶ谷の妙見宮として尊敬され、さらに卯歳の守護神としても有名。通常非公開の寺院のため、訪問前に電話で一報を入れた方が無難かもしれません。
関連サイト:https://ja.kyoto.travel/event/single.php?event_id=4545
「辰」岡崎の妙見さん(満願寺)
「満願寺」は、天慶3(940)年、平安時代の巫女・多治比文子が西ノ京に菅原道真の霊夢を感じて、創建したという伝説があります。
当初は真言宗の寺院で、勅願所にもなった名刹でしたが、元禄10(1697)年に日蓮宗に改宗し現在地に移りました。現在の伽藍は、その時に建立されたもので、江戸時代中期の日蓮宗伽藍の典型といわれています。
同寺が建つこの地は、平安時代に白河天皇が建立した法勝寺の跡地と伝わり、境内にある閼伽井はその法勝寺の井戸と伝わっています。
また、平家打倒の鹿ヶ谷の陰謀の首謀者で、法勝寺執行であった俊寛僧都の旧居跡との伝説も残り、境内には「俊寛僧都故居碑」と刻まれた石碑が立っています。
桁行三間、梁行一間の本堂に祀られる妙見様は、当初は本光寺に祀られていましたが、本光寺焼失の後に、満願寺に移されたもの。30cmほどの小さな像ですが、亀に乗り右手に剣、左手に蛇をもっている勇壮な姿をしています。
住所:京都市左京区岡崎法勝寺町130
「巳」清水の鎮宅妙見宮(日體寺)
「日體寺」は、清水寺へと向かう多くの観光客で賑わう、東大路通から清水寺に続く参道・清水道沿いにある小さな寺院です。
他の「洛陽十二支妙見めぐり」の寺院と比べると、境内には目立った建物がなく、山門脇に掲げられた「洛陽十二支妙見」の額がその目印となります。
もとは観音寺という浄土宗の寺院でしたが、江戸時代中期の享保6(1721)年に、当時の住職が常照院日體上人に帰依して日蓮宗に改め、日體上人を開山としたと伝わっています。
同寺の北辰妙見尊は、はじめ祇園下の妙見宮に祀られていましたが、地所取り払いになったため、元芸妓の女性が自宅で祀っていました。その女性が亡くなり、日體寺の墓地に葬られた縁により、妙見尊も祀られるようになったといいます。
水火の災を除き、怨敵の難を退け、家を修める御利益で「清水の鎮宅妙見」として信仰を集めています。
公式サイト:http://www.nittaiji.com/
「午」伏見大手筋の妙見さん(本教寺)
「本教寺」は、文禄3(1594)年、日新上人の法孫・教行院の日受上人の創建。その後、徳川家康の息女督姫の篤い帰依を受けて、督姫が姫路城主・池田輝政に嫁ぐにあたり、その屋敷と敷地(現在の地)を寄進して移しました。
督姫は、伏見城にいた豊臣秀吉に寵愛されており、庭内には姫が秀吉から賜ったという牡丹があり、今でも毎年4月中旬に花を咲かせることから、太閤遺愛・督姫手植えの牡丹のある「慶長牡丹の寺」として親しまれています。
境内には大きな妙見宮があり、池田家伝来の北辰妙見尊が祀られています。
妙見宮は、元禄年間(1688~1703年)の建築で「伏見の開運ところ」とも呼ばれ、中央に北辰妙見大菩薩、左に七面天女と大黒天、右に鬼子母神を祀っています。
御利益は、開運除厄・旅行安全・家内安全など。
「本教寺」は、京都市内有数のアーケード・伏見大手筋商店街から少し入った場所にあり、周囲はいつも賑やか。
飲食店もたくさんあるので、昼食や夕食前の参拝もおすすめです。
住所:京都市伏見区東大手778
「未」未の方の妙見さん(法華寺)
「法華寺」は、弘化14(823)年に、東寺が創建された際に塔頭の法華堂として創立されたという古い歴史を持ちます。
その後、宝治年間(1247~1248年)、日蓮聖人が密教を勉学するためにここに止住し、別当真広法院より東密の秘要を学んだとされます。
境内の妙見堂は「未の方の妙見様」として、江戸時代より大阪・神戸の商人達から開運・商売繁盛の祈願所として大いに信仰されました。
しかし、昭和38(1963)年の新幹線施設のため現在地に移り、「未」方位と「申」方位が逆になっているのはこのためです。
法華寺は、住宅地の中に佇む小さな寺院ですが、境内には「日蓮聖人お手掘・硯水の井戸」なども残り、歴史的な見どころもあります。
公式サイト:https://temple.nichiren.or.jp/5011089-hokkeji/
「申」島原の妙見さん(慈雲寺)
「慈雲寺」は、寛正5(1464)年に大本山・本國寺第十世成就院日圓上人が台密両宗の中堂寺を改宗し、法喜山・吉祥寺としたのがはじまりといい、天文法難(天文法華の乱)の後に、五世吉祥院日喜上人が堂宇を再建し「慈雲寺」と称しました。
同寺の妙見大菩薩は、門跡寺院の村雲・瑞竜寺の祈願所として知られ、また「島原の妙見さん」として、開運・厄除・病気平癒など所願成就祈願の人々に崇敬されます。
特に病気が「さる」、不運が「さる」ということから、悪縁切りの御利益でよく知られる寺院です。
住所:京都市下京区下松屋町通五条下ル藪之内町627
「酉」小倉山の妙見宮(常寂光寺)
「常寂光寺」は、慶長元(1596)年に、日蓮宗大本山本國寺の第16世究竟院日禎上人が隠棲した庵を、角倉栄可・了以親子が小倉山の山麓の敷地を寄進。さらに小早川秀秋ら諸大名が、堂塔伽藍を寄進し創建されました。
角倉栄可・了以は、戦国末期から江戸時代初めにかけて活躍した豪商で、朱印船貿易で利益を得て、京都の大堰川・高瀬川を私財を投じて開削。「水運の父」と呼ばれます。
また、平安時代の貴族で歌人として著名な藤原定家が、同寺の付近に山荘「時雨亭」を営み、「忍ばれんものとはなしに小倉山軒端の松に馴れて久しき」と詠んだことから、別名軒端寺とも称されます。
小倉山の中腹に、本堂・妙見堂・多宝塔などの堂宇が並びます。
釈迦如来像を安置する本堂は、慶長年間(1596~1615年)に伏見桃山城の客殿を移築したもので、和様の中に禅宗様の形式が組み込まれた桃山様式を今に伝える貴重なもの。
高さ12mの多宝塔は元和6(1620)年の建立で、重要文化財に指定されています。
この多宝塔あたりからの眺望が素晴らしく、嵯峨野一帯を見晴らすことができます。また、秋の季節は全山が紅葉に彩られ、諸堂とモミジの紅や黄のコントラストの美しさに訪れる人が多いです。
妙見堂に祀られる妙見尊は、慶長年間の保津川洪水の際に漂着した妙見大菩薩御神像を角倉町の一舟夫が発見。久しく同町の集会所で祀っていましたが、享和(1801~1803年)の頃に、常寂光寺に遷座し鎮護の社としました。
「小倉の妙見様、酉の妙見宮」として、水に縁があるために特に水商売の人達に信仰が篤い妙見様です。
公式サイト:https://jojakko-ji.or.jp/
「戌」鳴滝の妙見宮(三寶寺)
「三寶寺」は、寛永5(1628)年、右大臣菊亭経季と中納言今城為尚が後水尾天皇の御内旨を受けて、中正院日護上人を開山として迎え建立した寺院です。「金映山妙護国院三寶寺」の号は後水尾天皇より賜ったと伝えられます。
境内には、京都御所菊亭家邸内より根分け移植された名桜「御所返しの桜」があります。余りの美しさに帝が車を返したといわれる名花で、毎年春に美しい花を咲かせます。
坂の上にある境内から、さらに石段を登りつめた高台に奥の院があります。
その奥の院に中正院日護上人御作の北辰妙見尊を祀り、願が叶う処から「満願妙見宮」とも呼ばれ、開運・厄除け・招福にご利益があるとされています。
また、戌のお産が軽いことから、安産祈願に多くの人が訪れます。
土用丑の日に行われる「頭痛封じのほうろく灸祈祷」が有名で、多くの参拝者で賑わいをみせます。
公式サイト:https://www.sanbouji-kyoto.or.jp/
「亥」鷹峰の岩戸妙見宮(円成寺)
「円成寺」の建つ地は、平安時代初期の承和6(839)年に、僧円行が岩戸妙見を勧請して創立した霊厳寺(廃寺)があった跡地です。
平安京には王城鎮護の四方妙見があり、天皇は正月元旦の四方拝で、妙見尊星に一年の安穏を祈願したのが習わしでした。霊厳寺はその総鎮守社として、妙見尊星には3月3日・9月9日に宮中から献灯の儀式が行われていたといいます。
寛永7(1630)年に公卿の一条家の懇願により、この地に旧霊厳寺の妙見大菩薩を本満寺第21世日任上人によって復興し、妙見道場としました。
岩戸妙見菩薩は、大きな亀の背に足を置き、右手に剣、左手に蛇を握り、頭上に北斗七星を輝かした六尺余の石像。石窟の中に祀られていることから「岩戸妙見」と称され、古くから商売繁盛・開運勝利を祈願する人々の崇敬を集めています。
円成寺が建つ鷹峰の地は、京都七口の一つで今ものどかな雰囲気に包まれ、すぐ近くには源光庵や光悦寺があります。
関連サイト:https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=606
現在、インバウンドも含め、人気観光地は異常なまでの混雑に見舞われている京都。
特に、これから本格化する秋の行楽シーズンは、とんでもない混雑ぶりが予想され、本来京都に求めるべく風情や情緒などは期待することができないのは目に見えています。
これからの京都旅行は、大げさな言い方をすれば、「テーマを決めて、観光客がなるべく行かないところを訪ねる」のが賢い方法となるでしょう。
「洛陽十二支妙見めぐり」は、各妙見宮が人気エリアにあったとしても、比較的穴場といえる場所にあり、大混雑を避けられること。さらに、御利益をいただけることで、満足感のある京都旅行が実践できます。
妙見めぐりは、御朱印を集めている人にもおすすめです。自分の御朱印帳に押印していただくのもよいですが、最初に訪れた妙見宮で十二支巡拝の朱印軸や専用御朱印帳をもとめ、各妙見宮で押印していただくのもおすすめ。
「洛陽十二支妙見めぐり」が成就した際には、大切に飾り自分や家族のお守りとしてお祀りしましょう。
※参考文献
京都歴史文化研究会著 『京都札所めぐり 御朱印を求めて歩く』 メイツユニバーサルコンテンツ刊 2020.9
文/写真 高野晃彰
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