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織田信長の11人の息子たちの末路 ~ 「本能寺の変」以後どうなったのか?

草の実堂

画像 : 織田信忠 public domain
画像 : 織田信長 publicdomain

織田信長には11人の息子がいたという。

彼らは信長が「本能寺の変」で死去した後、どのような運命を辿ったのだろうか。

今回は、信長の11人の息子たちの生涯を振り返り、その末路を探ってみる。

長男・織田信忠は「正当なる織田家の後継者」

画像 : 織田信忠 public domain

長男・織田信忠は1557年生まれ、幼名は奇妙。

1572年に浅井攻めで16歳で初陣。信長の初陣が14歳なので、少し遅い初陣である。
その後、多くの戦を経験し、1575年に織田家の家督を継承したとされる。

信忠は織田家の総大将として各地を転戦し、その才能を存分に発揮した。特に武田家攻めでは、その見事な働きぶりから信長に「天下を譲る」とまで言われていたそうである。

ここまで見ると信忠は非常に優れた嫡男であり、信長も大いに満足していたことだろう。

しかし、突如起こった「本能寺の変」で明智軍に攻め入られ、その場で自刃した。享年26であった。
信忠の死により、織田家は徐々に衰退の道を歩むことになる。

次男・織田信雄の「苦悩の人生」

画像:織田信雄 public domain

次男は織田信雄(のぶかつ・のぶお)で、1557年生まれである。
信忠とは同母弟であり、幼名は茶筅。

信雄は、弟の信孝(のぶたか)と対立し、秀吉と手を組んで信孝を自害に追い込んだ。
しかし、今度は秀吉の台頭に不満を募らせ、徳川家康と結んで「小牧・長久手の戦い」を引き起こすことになる。
この戦いは信雄・家康vs秀吉の構図になったわけだが、信雄は家康の了承を得ることなく、勝手に秀吉と和解してしまう。

その後、信雄は織田家の当主として豊臣政権に従うこととなったが、「小田原征伐」の後に突如として秀吉から追放を命じられた。

信雄はしばらく秋田に身を寄せていたが、1591年に家康の尽力で赦免される。屋敷を持たない彼は、伊予にて出家し、常真と名乗るようになった。
彼は秀吉の御咄衆に加えられたが、政治的な権力はほとんど持たなかった。

秀吉の死後、「関ヶ原の戦い」では西軍に与し、家康と対立するも、敗北して浪人となる。しかし、「大坂の陣」では再び家康と接触し、情報を流すなどの働きを見せた。この件で家康から褒美を与えられ、悠々自適な生活をした後、73歳で死去した。

ある意味、一番世の中の流れに振り回されたのがこの次男・信雄だったのだろう。

一見すると失敗や挫折の多い生涯を送ったように見えるが、時代の変化に柔軟に対応し、生き延びたことが彼の真の強さであったのかもしれない。

三男・織田(神戸)信孝の「兄弟の争いが招いた悲劇」

画像:織田(神戸)信孝 public domain

三男・織田信孝(のぶたか)は1558年生まれ。幼名は不明。信長の生前に神戸家へ養子に出され、神戸信孝とも名乗った。

三男とあるが、本当は次男だったという。母親の身分が低かったために信長への報告が遅れ、それによって信雄と順序が入れ替わってしまったという説もある。

信長の死後、信孝は「中国大返し」で戻ってきた秀吉を迎え、共に「山崎の戦い」で明智光秀と戦って勝利した。
当時は「織田家の跡取りは信孝になる」という噂もあったようだ。

しかし清洲会議にて、跡取りは長男・信忠の息子、三法師と決まった。

これで諦めなかったのか、信孝は柴田勝家と手を組み、秀吉と敵対する。

しかし、勝家が「賤ヶ岳の戦い」で秀吉に敗れて自害した後、信孝は兄・信雄に攻められ、自刃して果てた。

四男・羽柴秀勝は「秀吉の養子」

四男・羽柴秀勝は1568年生まれ、幼名は於次(おつぎ)。

名字が「織田」ではなく「羽柴」となっていることに違和感を感じる方もいるかもしれないが、これは信長の息子でありながら、羽柴秀吉の養子となったためである。

画像 : 法螺を吹く秀吉。月岡芳年「月百姿 志津ヶ嶽月」 public domain

庶長子の羽柴秀勝(石松丸)を亡くした秀吉は、主君である信長に願い出て、於次丸を養子として迎え、羽柴家の跡継ぎとすることにした。

この養子縁組は、通説では信長が血族を優遇していたため、秀吉が自己の地位を擁護する目的もあったとされている。
また、この養子縁組を希望したのは、子宝に恵まれなかった秀吉の正室・寧々だったという説もある。

秀勝は、秀吉が長浜城の城主であった頃に養子となり、その後「山崎の戦い」「賤ヶ岳の戦い」「小牧・長久手の戦い」にも参加した。

しかし、若くして病没したと伝えられている。(享年18)

五男・織田勝長は「武田家の人質」

五男・織田勝長は、生年や生母が不明であり、五男ではなく実は四男であったという説もあり、非常に謎の多い人物である。

幼少期には武田家の人質として送られ、元服も武田家で行われた。しかし、その後、武田勝頼が信長との和睦を探り、勝長は尾張に戻されたという。

帰国後、勝長は総大将の兄・信忠に従って甲州征伐に参陣し、武功を挙げた。

しかし、彼の人生もまた悲劇的な結末を迎えることとなる。

「本能寺の変」が勃発した際、勝長は兄・信忠と共に明智光秀の軍勢と戦い、激しい戦闘の末に命を落とした。

六男・織田信秀は「キリシタン」

画像:九州征伐の拠点となった筥崎八幡宮 ※筆者撮影

六男・織田信秀も、生没年・生母ともに不明な謎の多い人物である。

「本能寺の変」後に元服したとされ、その後は秀吉に付き従った。

信秀はキリシタンだったようである。「九州征伐」には首からロザリオを下げて従軍したという。

「文禄の役」にも従軍し、この頃は一万石ほどの大名だったと推測されている。

その後、京都で病没したようだが没年などの詳細も不明である。

七男・織田信高は「徳川幕府の高家」

画像 : 関ヶ原合戦屏風 public domain

七男・織田信高は、1576年生まれで幼名は小洞(ごぼう)。

六男の信秀が「本能寺の変」後に元服したことから考えて、信高以下の弟たちは皆「本能寺の変」時点では幼少だったと思われる。

兄・信秀の仲介で秀吉に仕え、秀吉の死後は「関ヶ原の戦い」に参戦した。

この時「西軍についた説」「東軍についた説」どちらもあり、はっきりしない。

その後は家康に従い、1603年に享年28で死去した。

子孫は、徳川幕府に仕える家柄の高い武士として存続したという。

八男・織田信吉は「関ヶ原の戦いで改易」

八男・織田信吉は1573年生まれ。幼名は酌。

秀吉の存命中はその指揮下に従っていたようである。
秀吉死後の「関ヶ原の戦い」では西軍に属し、弟の長次と共に大谷吉継の軍に加わった。

しかし、この戦いで西軍は敗れ、信吉は改易となった。

その後、豊臣家を頼って生活することになったが、1615年に京都で死去した。(享年43)

九男・織田信貞は「秀吉の馬廻衆」

画像:織田信貞 public domain

九男・織田信貞は1574年に生まれ、幼名は「人」。

信貞は秀吉の馬廻衆(側近として騎馬で仕える者)となった。

「関ヶ原の戦い」では西軍に味方し、戦後に所領を没収された。

その後、家康に召し抱えられ「大坂の陣」では東軍として従軍したが、1624年に死去した。(享年51)

十男・織田信好は「謎多き茶人」

画像:織田信好 public domain

十男・織田信好は生年不明。幼名は良好。

「本能寺の変」後、秀吉の元で育てられる。茶人であったと伝わる。

1609年死去。彼の経歴はほとんどわかっていない。

十一男・織田長次は「兄と共に戦場へ」

画像:関ヶ原合戦図屏風 public domain

十一男・織田長次は生年・生母不明。幼名は縁(えん)。

「本能寺の変」後、長次は豊臣秀吉の馬廻衆として仕えた。

前述の通り「関ヶ原の戦い」においては西軍の大谷吉継の指揮下に入り、兄・信吉と共に参戦したが、戦いの末に討ち死にした。

おわりに

ここで紹介したのは信長の息子たちのうち、史実的に存在が確認されている男児のみである。
他にも娘たちが存在し、またその子供の数についても諸説がある。

信長の子供たちはそれぞれに波乱万丈な人生を歩んだが、織田家として天下を維持することは叶わなかった。

歴史の大きな転換点となった「本能寺の変」を境に、織田家は衰退の道を辿り、最終的に天下は豊臣秀吉、そして徳川家康へと移り変わっていったのである。

参考文献:歴史堂 他

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