「天才?それともいい加減?」織田信長が子どもに付けた名前が面白すぎる
信長が子供たちの幼名に命名した名前とは
戦国武将の代表格の一人・織田信長。
そのドラマティックな生涯はもちろん、若年期の奇抜なファッションや行動など、強烈な個性の持ち主として広く知られている。
さまざまな歴史的な話題に事欠かない信長だが、今回は「子どもに付けた名前」に注目してみたい。
信長には22人の子どもがいたとされ、そのうち11人が男子である。
子どもに付けられる名は「幼名」と呼ばれ、成長して元服すると新たな名を名乗るのが通例だった。
さらに元服後も、政治的な状況などに応じて、名前を次々と変える例は少なくない。
ところが信長自身の場合、幼名は「吉法師(きっぽうし)」であり、元服後は「信長」を名乗り、生涯その名を使い続けた。
これはむしろ例外的と言ってもよい。
※形式上は平氏の流れを汲む「平朝臣」を冠し、官位や通称を含めると「平朝臣織田上総介三郎信長」とも表記されるが、実際の文書では「織田上総介信長」など簡略形が多い。
たとえば徳川家康の場合を見てみよう。
幼名は「(松平)竹千代」、その後は「元信」→「元康」→「家康」と改名を重ね、さらに姓も「徳川」へと改めている。
また上杉謙信も、幼名は「(長尾)虎千代」その後は「景虎」→「(上杉)政虎」→「輝虎」、そして、「不識庵謙信」に改めている。
このように、名や姓が目まぐるしく変わることが多かった。
嫡男・信忠と二男・信雄には自分の若年期を反映?
さて、信長は子どもたちにどのような名前を付けたのだろうか。
長男・信忠の幼名は「奇妙丸」である。
信忠は天正3年(1575年)、信長から家督を譲られ、織田軍団の総帥として諸将を率いる立場となり、実質的に織田家のナンバー2となった。
しかし本能寺の変では、父信長の救援に向かったものの果たせず、二条新御所に籠城の末、自害して果てている。
そんな信忠は江戸時代を通じて、「親の七光りで信長の後を継いだ暗愚な人物」というイメージを植え付けられた。
だが、人の能力を見抜く才に長けた信長が後継者として認めた人物であることから、今日では能力と資質を備えた武将であったという評価が主流となっている。
そして、次男・信雄の幼名は「茶筅丸」だ。
信雄は永禄12年(1569年)、伊勢の名門・北畠具教の嗣養子となり、伊勢・大河内城に入った。
その後、信長の命により北畠一族を粛清し、さらに伊賀平定戦の総大将としても功を挙げ、織田家中では兄・信忠に次ぐ地位を得るに至った。
本能寺の変で父と兄が没すると、ただちに兵を率いて京都に進もうとしたものの、領国・伊賀で一揆が勃発。
これを鎮圧するために専念した結果、豊臣秀吉が明智光秀を討った山崎の戦いには、参陣が遅れてしまった。
その後、賤ケ岳の戦いで柴田勝家が秀吉に敗れて自害すると、弟・信孝の籠る岐阜城を包囲し、最終的に自害に追い込んでいる。
こうして信雄は、織田家後継者・三法師(信忠の遺児・織田秀信)の後見役として重きをなした。
天正12年(1584年)、信雄は秀吉と対立し、小牧・長久手の戦いでは徳川家康と同盟を結んで戦った。
しかし、最終的には単独で和解を選んでいる。
豊臣政権下では織田家当主として秀吉に臣従し、正三位権大納言に叙任され、80万石近い所領を与えられるなど厚遇を受けた。
ところが天正18年(1590年)7月、小田原の役後の論功行賞の席で、秀吉から与えられた家康の旧領・駿遠三甲信5か国(約120万石)を固辞したため、突如として下野国那須烏山に捨扶持2万石で追放されてしまう。
それでも秀吉晩年にはお伽衆として召し出され、徳川家康が将軍となると大和松山(宇陀)や上野小幡に所領を与えられ、小大名として織田家の名跡を保った。
寛永7年(1630年)4月30日、京都北野邸にて73歳で死去した。
信忠・信雄は、信長にとって織田家を支えていく存在であったはずである。
その幼名「奇妙丸(信忠)」「茶筅丸(信勝)」は、三男以下に付けられた名前とは明らかに趣を異にしている。
おそらく信長は、自らが「大うつけ」と呼ばれていた頃の姿を重ね合わせて名付けたのではないだろうか。
「自由奔放に生きながらも、やがて天下布武を成し遂げた自分のように育ってほしい」そんな願いが込められていたのかもしれない。
ちなみに、信長の長女で家康の嫡男・信康に嫁いだ徳姫(岡崎殿)は、「ごとく」という名で呼ばれていた。
「ごとく」とは、調理器具を安定させるための「五徳(五斗)」を意味し、織田家をしっかりと支えてほしいという信長の願いが込められていたと伝えられる。
弘治3年(1557年)生まれの信忠、永禄元年(1558年)生まれの信雄に続き、永禄2年(1559年)に誕生した彼女もまた、信長にとって大切な存在であったに違いない。
三男・信孝以下には「ユーモアあふれる名前」を付ける?
では、ここからは三男以下の幼名を紹介しよう。
織田家の行く末を託す意味が込められていたと思われる「奇妙丸」「茶筅丸」「ごとく」と比べると、どこかやる気が感じられないというか、いい加減というか、そんな印象を受けるのが、三男・信孝の「三七」、四男・秀勝の「於次」、五男・勝長の「於坊」である。
このうち信孝は、永禄元年(1558年)4月4日生まれとされ、次男・信雄より20日早く生まれたという説もある。
しかし、生母が北伊勢の豪族・坂氏であったため、同じ側室でもほぼ正室並みの待遇を受けていた生駒氏(吉乃)を母とする信雄より、身分が低いと見なされ三男とされた。
幼名「三七」の「三」は三男の意味だろうが、「七」については定かではない。
そして、六男・信秀の幼名は「大洞(おおぼら)」、七男・信高は「小洞(こぼら)」である。
「おおぼら・こぼら」と並べると、まるで漫才コンビのようで、思わず笑ってしまうような命名だ。
さらに、八男・信吉の幼名は「酌(しゃく)」である。
『織田家雑録』には「ナベニハ酌子ガソフモノトナリテ酌ト名ツケ玉フ」とあり、生母である「お鍋の方」の「鍋」にちなみ、酌という名が付けられたという。
お鍋の方は、帰蝶(濃姫)、吉乃(生駒氏)に続いて信長の側室となり、その奥を取り仕切った女性である。
もとは近江八尾山城主・小倉実房に嫁いでいたが、夫の戦死後に信長の側室となったため、「小倉三河守女」とも記録される。
一説には、長女「ごとく」の例のように、信長が女性に食器の名を好んで付けたため「お鍋」と呼ばれたともいう。
いずれにせよ、「お鍋」の子だから「酌子(酌)」という名を与えるあたりにも、信長ならではのユーモアとセンスが感じられて興味深い。
生年は不詳ながら、信長の晩年に生まれたと考えられるのが、九男・信貞、十男・信好、十一男・長次である。
それぞれの幼名は、信貞が「人」、信好が「良好」、長次が「縁」と伝わる。
信長は幸若舞「敦盛」を好んだことで知られ、とりわけ「人生五十年」の一節を意識していたとされる。
そうした背景を思えば、これらの幼名にはどこか哲学的な響きが感じられて興味深い。
※参考 :
矢部健太郎監修 『偉人たちのやばい黒歴史 日本史100人の履歴書』宝島社刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部