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【輝く!昭和平成カルチャー】徹底検証:スーパーカーブームはいつ始まりいつ終わったのか?

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1977年07月04日 東京12チャンネルのクイズ番組「対決!スーパーカークイズ」放送開始日

リレー連載【輝く!昭和平成カルチャー】vol.6:スーパーカーブーム

スーパーカーブームはいつ始まり、いつ終わったのか?


2024年にインターネットで “スーパーカーブーム いつ?” と検索しても、明確な答えを見つけるのは難しい。多くのWeb記事やブログがスーパーカーブームを振り返っているが、具体的な時期については曖昧である。“1970年代後半” や “昭和50年代" と大雑把に述べるサイトもある。しかし、雑誌が一斉に取り上げ始めた時期や、関連イベントが激減した時期などを調べれば、もっとハッキリとブームの始まりと終わりを特定できるはずだ。この記事では “スーパーカーブームはいつ始まり、いつ終わったのか?” を時系列で検証したい。

1975年「サーキットの狼」連載開始とカウンタックの日本上陸


昭和のスーパーカーブームの大きな特徴は、その中心に子どもたちがいたことである。特に男子児童がスーパーカーに夢中になっていた。そして、一般的にブームの火付け役となったのは『週刊少年ジャンプ』(以下:ジャンプ)にて連載された池沢さとしのコミック『サーキットの狼』だとされる。1975年1号(1974年12月10日発売)でスタートしたこの作品は、実在する名車を精密に描写し、詳しく解説したことが斬新だった。読者はそこに魅了されつつ、世界には高性能でスタイリッシュなクルマが多数存在することを知り、それらの固有名詞を記憶したのだ。

ただし、『サーキットの狼』の連載開始直後にスーパーカーブームが爆発したわけではない。なにしろ、当初は『サーキットの狼』の作品内で “スーパーカー" という言葉がほとんど使われていないのだ。最初に登場するのは1975年4月で、 “外車のスーパーカー” という言葉が出てくるのみである。次は6月にマセラティ・ボーラの紹介文で “イタリアンスーパーカー” と記載されている。以降も稀に登場する程度である。つまり、“スーパーカー” という言葉を流行らせようとはしていなかったということだろう。

『ジャンプ』の1975年36号(8月18日号)の表紙は、『サーキットの狼』のキャラクターと7台のクルマの写真がコラージュされたデザインである。この号の『サーキットの狼』には、ランボルギーニ・カウンタックに乗ったキャラクターが登場するが、表紙の7台の中にカウンタックの写真は含まれていない。作中の重要車種であるポルシェ・911カレラRSの姿もない。そして、見出しに “スーパーカー” の文字もない。マーケティング的な周到さがまったく感じられない。

『ジャンプ』以外に目を向けてみよう。まず、1975年の時点ですでに、横浜の輸入車ディーラー、シーサイドモーターがランボルギーニ・カウンタックLP400を日本に輸入していたことに留意したい。同社前にはカメラを持った子供たちが集まるようになったという。さらに、カウンタックは同年秋の東京モーターショーで展示されることで注目度が一気にアップ。以後、ブームの顔となっていく。

自動車専門誌『モーターファン』(三栄書房)はこの年の3月号でカウンタック、4月号でフェラーリ・365GT4BBをいずれもイラストで表紙にしている。また、『モーターマガジン』(モーターマガジン社)11月号はマセラティ・ボーラ、『カーグラフィック』(二玄社)10月号はデ・トマソ・パンテーラが表紙を飾った。ただ、どの表紙にも “スーパーカー" の文字は見当たらなかった。ブームの下地は徐々に形成されていたが “スーパーカー" という言葉は定着していなかった。それが1975年だ。

1976年 ブームの序章とF1日本初開催


1976年の上半期、『サーキットの狼』の連載では、筑波サーキットでのレースが目玉となった。ここではランボルギーニ・カウンタックLP400、フェラーリ・365GT4BB、ポルシェ・930ターボという、当時の3強といえる車種がデッドヒートを展開する。しかし、作中で “スーパーカーが激突!” といった煽りはない。

1976年6月に掲載された『サーキットの狼』には、子供たちがランボルギーニ・ミウラに群がるシーンが描かれている。これは現実世界を反映したものであろう。この年、日東科学から『サーキットの狼』登場車種のプラモデルがリリースされた。子どもたちのスーパーカーブームは確実に始まりかけていた。ただし、このプラモデルも商品の箱にも “スーパーカー" の文字は表示されていなかった。

当時の専門誌はどうだったか?『モーターファン』8月号はランボルギーニ・イオタのレプリカ(ミウラSVJ)が日本に輸入されたことを伝えているが、その記事にも “スーパーカー" の文字はない。『モーターマガジン』はこの年からポルシェ、フェラーリ、ランボルギーニなどの車種が毎号のように表紙を飾るようになり、10月号で初めて、表紙の見出しに “スーパーカー” という言葉を登場させる。

“これがスーパーカーだ!!”… スーパーカーという言葉が、当時の新しい概念だったことがよく分かるコピーである。12月号の表紙には “スーパーカーに関する全知識” という見出しがある。これも同様の印象だろう。スーパーカーを特集したことが確認できるもっとも古い児童誌は、『小学六年生』(小学館)の1976年12月号だ。“これが世界のスーパーカーだ” というタイトルはブームの始まりを感じさせる。

ランボルギーニ、フェラーリ、ポルシェなどの高性能でデザイン性が高いスポーツカーが、言語化されることでブームとして動き出したのである。前述の『モーターマガジン』10月号は9月発売なので、編集時期は夏だと考えられる。つまり、ピンク・レディーがデビューした1976年夏には “スーパーカー" という言葉が広まり出していることになる。ただし、『サーキットの狼』は依然として “スーパーカー" という言葉の使用に消極的で、副題に初めて “スーパーカー" が入ったのは、『ジャンプ』1976年44号(11月1日号)のこと。「激闘スーパーカーの巻」というものだった。

なお、同年10月24日には富士スピードウェイで、日本初のF1公式戦『F1世界選手権イン・ジャパン』が開催されたことも付け加えておきたい。モータースポーツ全体の盛り上がりは、スーパーカーブームにも相乗効果をもたらしたのだった。

1977年前半 スーパーカーショーの盛況とテレビ業界の参入


1977年1月4日、筑波サーキットにて、実物のスーパーカーを集めて展示する有料イベント、いわゆる “スーパーカーショー” の先駆けである『スーパーカー・フェスティバル』が開催された。そこから春にかけてブームは急拡大していき、この『スーパーカー・フェスティバル』は、3月21日に後楽園球場で行われる。また、スーパーカー関連の玩具や文具をはじめ、さまざまなグッズが多数発売され、学校ではスーパーカー消しゴムが大流行。書籍の出版ラッシュもあった。

ゴールデンウィークには東映が、実写版『ドカベン』とパニック映画『恐竜・怪鳥の伝説』の併映で『池沢さとしと世界のスーパーカー』という短編映画を公開した。これは、多数のスーパーカーが日本の道路やサーキットを走るシーンを描いた急ごしらえのドキュメンタリー作品である。内容は薄味だが、当時のスーパーカーファンの子どもたちにとって、動くスーパーカーを見られること自体が大きな価値だった。

5月5日から8日には、東京国際見本市会場で『スーパーカー・世界の名車コレクション ‘77』というイベントが開催された。これはサンスターが冠スポンサーについた、大手広告代理店の関与が感じられる大規模プロジェクトだった。4日間で46万人が集まったとされる。その数字をそのまま受け取ると、今日のコミケ並みの人出であったことになる。スーパーカーブームは短期間で一種の社会現象となったのだ。この前後から、全国各地でスーパーカーショーが毎週のように開催されるようになっていった。

テレビ界もスーパーカーに着目するようになった。5月21日には『ジャッカー電撃隊』(テレビ朝日系)の「8スーパーカー!! 時速300キロ」という、スーパーカーが総登場するエピソードが放送された。6月4日に放送された刑事ドラマ『Gメン'75』(TBS系)のタイトルは「俺のスーパーカーの葬式」だった。

1977年後半 スーパーカー番組ラッシュと実写版「サーキットの狼」


1977年の夏、ブームは絶頂に達した。まず7月から水曜19時枠で『ザ・スーパーカー』(テレビ朝日系)という情報番組、そして月曜19時半枠で『対決!スーパーカークイズ』(東京12チャンネル)というクイズ番組が始まった。ゴールデンタイムにスーパーカー番組が2つも放送されるのは、ブームのピークを象徴する現象だろう。他にもTBSではスーパーカーの単発特番があり、7月16日には『ジャッカー電撃隊』の “スーパーカー推し回” 第2弾「オールスーパーカー!! 猛烈!! 大激走!!」が放送された。

コカ・コーラは夏のキャンペーンとして、王冠の裏に各種スーパーカーのイラストを入れた瓶入り商品を販売した。開栓しないとどの車種のイラストか分からず、ごく稀に現金がもらえる “あたり” もあった。そのキャンペーンキャラクターは人気絶頂のピンク・レディーであり、広告ビジュアルでは、ランボルギーニ・カウンタック&ピンク・レディーという超人気者のコラボが実現した。

この夏は、スーパーカーショーのピークでもあった。7月16日から24日には、東京国際見本市会場で『ラ・カロッツェリア・イタリアーナ '77』が開催された。これはイタリアのカーデザインをテーマとした展示会で、ランボルギーニ・ブラボーなど未来的なデザインのコンセプトカーが多数展示された。8月7日から9日には、後楽園球場で『ザ・スーパーカー ジャンボフェスティバル』という大規模イベントがあった。

当時、コミックの実写化に積極的だった東映は、8月6日に実写映画『サーキットの狼』を公開した。主役の風吹裕矢役には “風吹真矢" というマンガのキャラに似せた芸名の新人が抜擢された。予告篇では “'77最大のホープ” と紹介されていた。主役に限らず他の主要キャストも今ひとつ弱かったが、実質の主役はロータス・ヨーロッパ、ランボルギーニ・カウンタックLP400、ランボルギーニ・ミウラ、ランチア・ストラトス、デ・トマソ・パンテーラ、ポルシェ911など、錚々たるスーパーカーたちだった。映画館の大スクリーンで、これらが爆音とともにサーキットを走るシーンを見られることが、映画の最大の魅力だった。

スーパーカーブームの勢いは、テレビ業界の10月改編にも色濃く反映された。なにしろ『アローエンブレム グランプリの鷹』(フジテレビ系)、『激走!ルーベンカイザー』(テレビ朝日系)、『超スーパーカー ガッタイガー』(東京12チャンネル)、『とびだせ!マシーン飛竜』(同)と、モータースポーツをテーマにしたアニメ番組が4本もスタートしているのだ。ただし、権利問題からか『アローエンブレム グランプリの鷹』を除き、実在のスーパーカーを出すことはできず、ニーズとのズレがあったことは否めなかった。

一方、ピンク・レディー主演の新ドラマ『気になる季節』(テレビ朝日系)は自動車修理工場が舞台であり、スーパーカーを整備するシーンを売り物のひとつとした。さらに、同じ秋に始まった『明日の刑事』(TBS系)には「スーパーカー殺人事件」、『刑事犬カール』(同)には「スーパーカー少年の冒険」というエピソードがあった。

しかし、実はこの頃からスーパーカーブームの終わりが始まっていた。子どもたちの眼の前に、スーパーカーに代わる魅力的なコンテンツが提示されたのである。それはSFとアニメであり、両者は相性がよかった。まず、1977年の夏に映画『宇宙戦艦ヤマト』がヒットした。さらにジョージ・ルーカス監督による、アメリカでメガヒットを記録した超大作映画『スター・ウォーズ』(いわゆるエピソード4)の噂が、映画ファンやSFファンの間でもちきりとなり、それが情報感度の高い小学生にも広まった。そして、『スター・ウォーズ』が日本で公開される1978年夏までに、日本の映画界やテレビ界は、“スター・ウォーズの代用品” を急いで作り始めた。また、“ヤマトに続くアニメ” の制作も急務とした。そして、まず東宝が『惑星大戦争』という映画作品を年内に間に合わせている。

1978年「童夢-零」の登場と山田隆夫の孤軍奮闘


ⓒ株式会社マクランサ

1978年になると、SFとアニメに押されるように、スーパーカーブームの停滞ぶりは顕著となった。2月、梶原一騎が製作した、ポルシェ911のカースタントを描いた映画『マッハ'78』が公開されたが、これなど “周回遅れ” の印象は拭えなかった。何しろ同じ日に『スター・ウォーズ』に匹敵するSF大作であるスティーブン・スピルバーグ監督の『未知との遭遇』が公開されたのである。

“時代はSF" というムードが完全に醸成されるなかで、東映は4月に “スター・ウォーズの代用品” 映画の大傑作『宇宙からのメッセージ』(監督:深作欣二)を公開。同時期にテレビでは、円谷プロ制作のスペースオペラ『スターウルフ』(日本テレビ系)、そしてアニメ『宇宙海賊キャプテンハーロック』(テレビ朝日系)や『SF西遊記スタージンガー』(フジテレビ系)が始まった。

ブームは去りつつあった。だからといって、子どもたちが突然スーパーカーに無関心になったわけではない。その証拠に『テレビマガジン』(講談社)、『テレビランド』(徳間書店)、『てれびくん』(小学館)など児童向けテレビ雑誌は、1978年の上半期までは表紙にスーパーカーの写真を掲載していた。だが、この年の3月に初公開された日本製の試作車『童夢-零』を除けば、小学生を引きつけるようなスーパーカーの新展開はなく、情報を発信する側に手詰まり感が生じていたのは確かだった。前年にあれだけ開催されたスーパーカーショーもほとんど行われなくなっていた。

そんな状況の中、孤軍奮闘してスーパーカーを盛り上げていたのが、『対決!スーパーカークイズ』だ。4月に司会の山田隆夫が「スーパーカーなーんちゃって」という、小林旭の「自動車ショー歌」のスーパーカー版のような曲をリリースしている。だが、時すでに遅しだった。歌詞に “真っ赤なポルシェ” が登場する山口百恵のシングル「プレイバックPart2」はスーパーカーブーム絶頂期を象徴する曲として語られることがあるが、その発売は1978年5月。山田隆夫の曲と異なり、こちらはヒットしたが、実際はブームと大きくズレていた。

1978年夏、『スター・ウォーズ』が日本公開され空前の大ヒットを記録。この夏のコカ・コーラ商品の王冠の裏にはスーパーカーのイラストではなく、『スター・ウォーズ』のキャラクターやメカのビジュアルがプリントされた。8月には映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』が公開され、こちらも大ヒット。翌月には『銀河鉄道999』のテレビ放送が控えていた。1978年頃は、SFブームと連動するように『ウルトラマン』のリバイバルブームも発生し、それとは別の文脈でブルートレインの人気が急激に高まっていた。子どもたちに、スーパーカーを追いかける時間はどんどんなくなっていくのだ。

最後までスーパーカーブームの灯を守っていた『対決!スーパーカークイズ』は10月に番組リニューアルを実施し、『対決!チャレンジクイズ』というスーパーカーに限定しないクイズ番組となった。その頃も『サーキットの狼』の連載は続いていたが、内容はフォーミュラカーの本格レースを描いたものとなり、スーパーカーの世界からは乖離していた。松田優作がランボルギーニ・カウンタック LP500S ウルフ・スペシャルを運転するシーンがある映画『蘇る金狼』が公開されたのは1979年8月で、完全にブームが去った後だった。同じ夏に『サーキットの狼』の連載が終了している。

ブーム全盛期は2年に満たずも規模はデカかった


こうして検証すると、スーパーカーブームは1976年後半から盛り上がり、絶頂期は1977年春から秋にかけてであったことがわかる。ピンク・レディーが「ペッパー警部」でデビューし、「ウォンテッド(指名手配)」を大ヒットさせた時期までである。2年にも満たなかったのだ。しかし、スーパーカーブームに強い思い入れを持つ人、忘れられない出来事として懐かしむ人たちは今も多い。それは、社会全体を巻き込み、当時子どもだった人たちの心に強く刻まれた巨大ブームだったからであり、スーパーカーには特別な魅力があったからだろう。

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