彼岸花が咲き乱れる歌舞伎座『八月納涼歌舞伎』第三部 京極夏彦×幸四郎×勘九郎×七之助『狐花』観劇レポート
京極夏彦が歌舞伎のために書き下ろし脚本を手がけた『狐花(きつねばな) 葉不見冥府路行(はもみずにあのよのみちゆき)』が、歌舞伎座『八月納涼歌舞伎』の第三部で上演されている。演出・補綴は今井豊茂。憑き物落としの中禪寺洲齋に松本幸四郎、上月監物に中村勘九郎、萩之介と上月家奥女中のお葉の二役で中村七之助。日程は8月25日(日)まで。第三部をレポートする。
赤子の泣き声、物語の始まり
柝の音とともに客席のあかりが落とされ、闇の中を定式幕を開ける音がザーッっとよぎる。そこに赤ん坊の泣き声が重なり、物語が始まった。ここは信田家の座敷。信田家は神職を家業としているらしい。舞台上手の床の間には五芒星の掛け軸。屋敷は騒がしく、ただならぬ空気。赤ん坊の母・美冬(市川笑三郎)は我が子を下男(松本錦吾)に託して逃がすと、まもなく覆面の男たちが押し入ってくるのだった。
この出来事から25年の時が経ち、ある幽霊騒動がおこる。“ゆうれいはいない” と考える中禪寺のもとに、その解決の依頼がくるのだった……。
狐花とは、曼殊沙華、彼岸花のこと。死人花、墓花、蛇花、火事花などいくつもの別名を持つ。どれも不穏な印象を受ける。それに加えて、登場人物たちがある理由から彼岸花に心底恐怖を示すので、舞台に一輪彼岸花があるだけで、つられてビクっと反応してしまう。
歌舞伎ならではの京極作品
『狐花』は歌舞伎公演に先駆けて、7月に、同名の小説として刊行された。その表紙は黒地に赤い題字、そして赤い花。ある場面では、この装丁のイメージがそのまま舞台美術として立ち上がっていた。闇の中、一面に広がる無数の彼岸花は息をのむ美しさ。これを背景にふたりの男が出会う。ひとりは漆黒を纏った男(幸四郎)。半襟の緋色に、内に秘めた熱を想像する。狐面の男(七之助)は、立ち姿からすでに冷たい色気が漂う。小袖の裾には彼岸花が描かれている。生きていても死んでいても不思議ではない、そこはどうでもよくなる美しさだった。
ふたりの台詞の掛け合いは、小説のページを開いた時に目に入ってくる景色、いわゆる字面の印象、そのリズムまで体現するよう。言葉は俳優の声と歌舞伎らしいメロディアスな台詞回しに乗って、馴染みのない言葉さえ分かる分からないのフィルターをすり抜けてくる。頭の中が台詞で満たされ、そこにイメージが再構築される。アニメ、ドラマ、映画、ミュージカルなど数々の展開をみせている京極作品。その中でも、歌舞伎俳優が演じるからこその魅力をここに感じた。
各役者が、各場面を異なる色合いに染める
起承転結に関わる筋は、市川猿弥の近江屋源兵衛、片岡亀蔵の辰巳屋棠蔵、市川染五郎の的場佐平次が明瞭に伝え、市川門之助の雲水が俗世を眺め憂うように場面を繋ぐ。中村梅花の老女中・松の居ずまいや、辰巳屋番頭儀助(中村橋之助)と仁平(大谷廣太郎)のやりとりは、いかにも歌舞伎らしかった。
劇中では、不穏な響きのBGMが繰り返し使われる。そこに異なる音色で場面ごとの彩りを生むのが、女方が演じる女性たち。美冬の凛とした姿は悲劇のはじまりに説得力を与え、監物娘雪乃(中村米吉)は、お墓参りであろうと座敷牢にいようと生命力に輝き、心の動きを表情に滲ませて人間味をみせた。近江屋娘登紀(坂東新悟)は芯のある美しい姿と声が、辰巳屋娘実祢(中村虎之介)は明るいキャラクターが、その後の展開に落差を生む。
そして本作は、七之助のお葉と萩之介なしには成り立たない。狐の面を外した時は、魂を抜かれるようなため息が漏れた。今回は1日三部制のうちの一部としての上演だった。再演の機会にはぜひ萩之介と登場人物たちとの過去、さらに中禪寺がここに至るエピソードも含め、昼夜かけた通し狂言で見せてほしい。
大詰、監物と中禪寺との掛け合いは、平静を装いながらもリアルタイムに、芝居で、相手から本音を引きずり出そうとするパワーゲーム。「この世には不思議なことなど何もない」というスタンスの中禪寺。しかし不思議かどうかはさておき、人は生きていく中で本人すら手に負えない感情、妄執に捕らわれることがあるもの。監物が最後にみせる表情には、その恐ろしさが映し出されていた。「葉不見冥府路行」に秘められた意味が余韻を残した。謎解きに留まらないドラマがあった。
歌舞伎の古典には、ミステリー仕立てであってさえ役名でネタバレしている演目が多々ある。本作も上演を重ね、そのように紹介できる日がくるに違いない。『八月納涼歌舞伎』は、歌舞伎座にて8月4日(日)から25日(日)まで。
※「中禪寺洲齋」の「齋」の上部中央は、正しくは「了」です。
取材・文=塚田史香