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サッカー女子W杯優勝:元祖なでしこたちがまいた「種」――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』

NHK出版デジタルマガジン

サッカー女子W杯優勝:元祖なでしこたちがまいた「種」――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』

 2025年8月5日、2025年度のサッカー殿堂入りを果たした鈴木保さん、半田悦子さん、木岡二葉さん、高倉麻子さん、野田朱美さん。「1981年に初めて編成された日本女子代表を強豪に押し上げ、なでしこジャパンの礎を築いた」とされる彼女たちが歩んだ道のりは、決して平坦ではありませんでした。半田さん、木岡さんも所属したチーム「清水第八」の立ち上げから、第1回W杯出場にいたるまで。女子サッカーが当たり前ではなかった時代に未来を切り拓いた、元祖なでしこたちの物語を、『新プロジェクトX 挑戦者たち 3』より公開します。

※2024年12月公開の記事を特別再公開

<strong>なでしこの花咲く日まで――サッカー女子 不屈のバトンリレー</strong>

1. 元祖なでしこの苦闘

女子サッカーが「当たり前」ではなかった時代
 2011(平成23)年、FIFA女子ワールドカップ・ドイツ大会の決勝戦で強豪アメリカ代表に勝利し、世界の頂点を摑んだサッカー女子日本代表「なでしこジャパン」。試合後、快挙を成し遂げた選手たちは、皆こんな言葉を口にした。
 
 「大先輩の方々が築き上げてくれた結果が、この優勝という場所に私たちを連れてきてくれました」(山郷のぞみ)
 
 「やっぱり、これまで頑張ってくれた先輩たちがいたから、自分たちは今この場所に立てているんです」(澤 穂希)
 
 今から遡ること40年前、女性がサッカーをすることは、当たり前ではなかった。サッカーは今でこそ老若男女、誰もが楽しめるスポーツとなっているが、かつての日本では女性がサッカーをやりたくても、楽しめる環境はほとんどなかったのだ。そんな逆風の中で、大好きなサッカーのために人生を懸けた女性たちがいた。彼女たち元祖なでしこが積み重ねてきたものの上に、2011年の栄光はあった。
 
 女性もサッカーを楽しめる社会の実現を。女子サッカーの地位の確立を──。
 
 これは、己の信じた道を歩み、可能性を切り拓こうと奮闘した女性たちの物語である。

「清水第八」の誕生
 1971(昭和46)年、国際サッカー連盟(FIFA)が公認した初めての女子によるサッカーの国際試合が開催され、新たな時代が到来した。それまでさまざまな国で、女子がサッカーをすることは実質的に禁じられてきた。ボールを追いかけ、土にまみれながらぶつかり合う競技であるサッカーは、女性の優雅さを損なう。ゆえに相応しくない──それが理由だった。しかし、女性解放運動の盛り上がりとともにサッカーの解禁を求める声も世界中で急速に広まっていった。
 
 ちょうど、その頃。男子サッカーの盛んな静岡県清水市(現・静岡市清水区)の小学校で、女子たちからこんな声が上がっていた。

 「私たちも、サッカーをやってみたい」
 
 当時、小学3年生だった本田美登里らの声がきっかけとなり、サッカー少年団の練習に女子が加わるようになった。清水市では、町を挙げてサッカーに力を入れていたため、少年団の男子に交じって女子がサッカーをやるのは珍しい光景ではなかった。
 
 「足が速かったから」という者から「そろばん教室に行くのがイヤだったから」という者まで、練習に参加したきっかけや動機はさまざま。しかし、毎日練習するほどにたちまちのめりこんでいった。彼女たちは、ただただサッカーが楽しくてならなかった。本田は、当時をこう振り返る。

 「学校の5分、10分の短い休み時間であっても、必ずグラウンドに出てボールを蹴っていましたね。大袈裟に言っているわけじゃなくて、休むのは大晦日くらい。一年のうち364日はサッカーでした。サッカーがイコール遊びであり、もっと言えば、生活そのものでした」
 
 やがて、中学でもサッカーを続けたいという彼女たちのために、女子選手だけのクラブチームが結成されることになった。彼女たちの通っていた中学校からその名を取り、「清水第八スポーツクラブ(清水第八)」と名付けられた。1978(昭和53)年のことだ。
 
 真っ先にチームに入ったのは本田だ。当時、中学校の部活にも、町にも、女子が入れるサッカーチームなどほとんどなかった。サッカーに打ち込みたい彼女にとって、清水第八に入らないという選択肢はなかった。

 「めちゃくちゃ嬉しかったのを覚えています。当初、中学ではサッカーをやる場所がなかったので、小学校に戻って1つ年下の小学6年生の子たちと一緒にボールを蹴らせてもらっていたんです。それを見て、監督が不憫に思ったのかもしれません」
 
 当時、監督を務めていたのは杉山勝四郎。青年団や清水市大曲地区の役員をしていた人物で、地域の運動会で指導に当たったことなどもあり、地元の子どもたちから「いいお兄さん」として広く知られていた。最初は特段サッカーが好きだったわけではなく、子どもたちの希望を叶えたいという気持ちから、清水第八の前身となるチームで不在となっていた指導者の役を引き受けたのだ。誰でもウェルカムな精神を持つ杉山にとって、女子もチームに入れるのは当然のことだった。この判断が後年、清水第八の誕生に繫がった。

 清水第八は、監督もサッカー未経験の自由なチームだった。誰だってサッカーを楽しんでいい──そんな監督の信念のもと、彼女たちはサッカーに明け暮れる日々を送るようになっていく。

 しかし、万全の環境だったわけではない。グラウンドは、基本的に男子チームが優先だった。女子が使えたのは、小学校の体育館倉庫とトイレの間のスペースだった。幅20メートルもないほどの狭さで、鉄棒や段差もある。フットサルコートの半分程度の薄暗い場所。それでも、サッカーをできる喜びが先行していたため、彼女たちが腐ることはなかった。ならばと、この逆境を逆手に取り、狭い場所での身のこなしやドリブルの技を磨いた。

「世界」の女子サッカー
 それから2年後の1980(昭和55)年、わずか8チームながら、中学生以上の女子選手による全国大会「全日本女子サッカー選手権(現・皇后杯)」が始まった。毎日のハードな練習の成果か、清水第八は翌年には大会で優勝し、以降7連覇する快進撃を見せた。彼女たちは、確実に成長を続けていた。しかし一方で、泥まみれで体をぶつけ合う彼女たちへの周囲の視線は、年齢が上がるにつれ複雑なものに変わっていった。
 
 「女の子なのにサッカーやるんだね」

 そこには、「変わっている」「女の子らしくない」という響きが多分に含まれていた。女子がサッカーをやることが珍しくなかった清水市においてすらも、彼女たちの熱意は「子どものレジャー」の範疇に押し込まれていたのだった。女子サッカーは、いつか「卒業するもの」と思われていた。

 本田は、高校では男子サッカー部のマネージャーになった。一緒に練習するチャンスが欲しかったからだ。しかし彼女の姿を、当時の雑誌はこんな見出しを付けて取り上げた。

 「カレに見にきてほしいけど」

 彼女の「サッカーがしたい」という気持ちを紹介する誌面でも、女性のイメージが強調されていた。当時の社会では女性がサッカーをすることへの風当たりは強く、女子サッカーを揶揄するような風潮もまだまだ根強かった。市外に試合に行くと、「ええ、女の子がサッカーやってるの?」などと、物珍しい目で見られることもしょっちゅうだった。
 
 そんな中、香港で1981(昭和56)年に開かれる「第4回アジア女子選手権」に向けて、初めての日本代表チームが選抜されることとなった。主力は、本田をはじめ、清水第八のメンバーであった。

 大会には、日本の他に中国、チャイニーズ・タイペイ(台湾)、インド、タイ、インドネシア等、アジア圏のさまざまな国や地域から8つの女子サッカーチームが集まった。日本代表のメンバーたちは、その壮観な眺めを目の当たりにし、驚いた。アジアには、世界には、こんなにもたくさんのサッカーをする女性たちがいたのか、と。しかも、試合を見に来た観客の数は1万人近く。本田たちは、普段100人にも満たない観客の前で試合をするのが常だったため、圧倒された。なにせ試合中、チームの仲間の声が観客の歓声にかき消されて聞こえないのだ。こんな経験は初めてのことだった。

 初の海外遠征で、本田たちを驚かせたのは、それだけではない。海外の女性選手たちの堂々とした姿に心を奪われた。けがを恐れず、汚れもものともせず、好きなサッカーを思い切り楽しむ彼女たちの姿は、恵まれた環境とは言えない中でサッカーをする日本の彼女たちに大きな驚きを与えた。当時感じた衝撃を、本田はこう語る。

 「サッカーをしている女子がこんなにもたくさんいるんだ、ということに、まず驚きました。そして勇気をもらったと同時に、なんて自分たちは残念なんだろう、と思わざるを得ませんでした。他所の国とは違って、日本は観客も少なければサポートも非常に乏しい。とにかく、ないない尽くしです。日本の女子サッカーは、このままじゃダメだと思いました」

女子サッカー苦難の時代
 彼女たちがサッカーを続けることは、大人になるに従い、さらに難しくなっていった。その苦しさを共有していたのは、全国から集まる日本代表の仲間たち。皆、人生の選択を迫られていた。
 
 高校卒業後、地元・静岡の会社で働きながら清水第八でサッカーを続けていた金田美保は、試合中のけがが絶えなかった。自分で働き稼いだ金で毎日テーピングをし、練習するという生活。加えて、医療機関での出費もかさんだ。給料はサッカーで負うけがの治療代で全部飛んでいった。

 「読売サッカークラブ女子ベレーザ(読売ベレーザ)」に所属していた東京生まれの野田朱美は、結婚を前提に付き合っていたパートナーから、サッカーか結婚かと問われた。

 「当たり前のように『どちらか選んで』と言われました。就職する時もなかなかサッカーを認めてもらえず、仕事をするかサッカーを辞めるかの選択を迫られるようなこともありました。ただサッカーをしたいだけの私に、社会はこんなにも厳しいのか、と思わざるを得ませんでした。自分はサッカーを好きなだけなのに、そして、こんなにも真剣にやっているのに、どうして認めてくれないんだろう? そう思うと、ただただ悲しかったですね」
  
 「神戸FCレディース」に所属し、教員を目指していた加治真弓は、年に一度の教員採用試験が代表のイタリア遠征に重なったが、一も二もなく試験よりサッカーを選んだ。これまでの遠征は主にアジア圏が中心で、ヨーロッパに行ける機会など滅多にない。せっかくの機会を逃すわけにはいかないと思ったのだ。しかし、この判断は、当時の感覚としては「あり得ない」ものだったという。

 「とにかく代表を続けたかったし、教員採用試験なんて来年もあるし、と私は思っていたんですよね。でも、兄には『ちょっとアホちゃう? お前』と言われました。『どっちが大事やねん』って。でも、私からしたら『なんでそんなこと言うん?』って感じで、聞く耳なんて持ちませんでした。大好きなサッカーのためなんだから、そりゃ試験なんて後回しにもするわ、と思っていました」

 大学時代に清水第八の杉山監督の紹介で読売ベレーザへと移籍した本田は、いつでもサッカーができるよう、卒業後は就職せず、ベレーザの関連会社である日本テレビでアルバイトをして生きる道を選んだ。文字放送の部署で、ファクスで通信社から流れてくる大量の情報を「これは社会、これは政治、これはスポーツ」と手でびりびりと切って部署ごとに振り分けた。勤務時間は、朝9時〜夕方4時半まで。サッカーのために30分だけ短くしてもらっていた。退勤後は、職場のある麴町からよみうりランドまで1時間ほどかけて行き、練習して家に帰ってきて寝て、また朝の通勤ラッシュに揉まれながら8時半までに麴町へ──。そんな生活を1年間続けた。

選手たちを突き動かすもの
 金田や本田に限らず、皆アルバイトの立場だったので、選手生活は楽なものではなかった。1989(平成元)年に全国リーグ「日本女子サッカーリーグ」が発足したものの、参加者は全員アマチュアだ。日本代表として試合に行くと、仕事をしている時間がなくなるためバイト代も入ってこない。加えて毎回、遠征に行くたびに3万円を自己負担しなければならなかった。当時は、日本サッカー協会(JFA)からも日当が出ていなかったため、代表戦に行けば行くほど貧乏になってしまうのだ。電気代を節約するため、ろうそくを明かりにして生活する選手もいたという。

 本田も生活がままならず、親からのサポートに頼らなければならない時があった。彼女のチームメイトで同じく代表選手だった野田も、よみうりランドのゴルフ場でキャディーのアルバイトをしながらサッカーを続けていたが、生活は困窮を極め、本人曰く、「売れない芸人」さながらの貧乏生活だったという。こうした慢性的な生活苦から、次第に代表を辞退する選手も現れ始めた。

 当時の日本においては、女子がサッカーをするには、大人になってもサッカーを続けていくためには、少なからず何かを犠牲にせざるを得なかったのだ。

 本田は言う。

 「私たち自身は、心からサッカーを楽しんでやっていたので『犠牲』などとはまったく思っていませんでしたが、高校・大学を卒業して、就職をして、幸せな結婚をして子どもを産んで──といった人生が、その当時の『幸せ』のモデルケースであったことは間違いありません。私たちの生き方は、そこからは逸脱して見えたことでしょう。でも、正直なところ、そんな逆境すらも私たちにとってサッカーの妨げにはなっていなかったと思います。ただただ、大好きなものに誠実に向かい合っていただけ。サッカーへの思いだけが、私たちを突き動かしていたように思います」

未来への希望の光
 そんな折に、海外からある噂が伝わってきた。それはノルウェーの女子サッカー選手、エレン・ヴィレの訴えがきっかけになり、女子のワールドカップが開かれるかもしれない、というものだった。いまだ日本の男子代表チームさえも出たことのない、ワールドカップ。それは日本の女子サッカー選手らが初めて抱いた夢だった。本田は、当時の興奮を、胸に描いた未来への希望を、こう振り返る。

 「第1回のワールドカップが女子サッカーにとっての『はじめの一歩』になるだろう、という確信がありました。その大事なチャンスは絶対に逃しちゃいけない、って。日本の女子サッカー、つまり、これまで自分たちが必死になってやってきたことを認めてもらいたい──女子サッカーを、普通の競技として、バレーボールやバスケットボールやテニスのように、女子がやっていても珍しくない『当たり前のもの』として認められる社会を作りたい。ワールドカップという未来が見えてきたことで、そんなふうに意識が変わっていったのを覚えています」
 
 これは、自分たちを、自分たちの生き方を、認めてもらうチャンスだ。女子サッカー選手たちを取り巻く逆境を乗り越えるためにも、そして女子サッカーの未来のためにも、このチャンスに懸けるしかない──。

 皆の反骨心に、火が付いた。ワールドカップに出場すれば、日本の風景が変わるかもしれない。本田たち「元祖なでしこ」の、人生を懸けた挑戦が始まろうとしていた。

2. 初のワールドカップへの道

ワールドカップという「夢」
 待望の女子ワールドカップがようやく実現したのは、本田たちが噂を耳にしてから3年後の1991(平成3)年のことだった。
 
 日本代表を支えてきたメンバーたちは、既に20代半ばになっていた。目の前に30歳の節目が迫り、いつ引退する時が来ても不思議ではない。そんな気持ちが、常に心の片隅にあった。せめてワールドカップに出場するまではサッカーを続けたい──その思いが、彼女たちを支えていた。しかし皆、満身創痍だった。

 27歳になった本田は膝のけがで、持ち前のスピードを失っていた。

 本田の清水第八以来の仲間・山口小百合も、前十字靱帯断裂のけがに苦しみ、一時はもうサッカーができなくなるかもしれないという不安に苛まれていた。1990(平成2)年、彼女はワールドカップに向けてトレーニングに専念しようと、勤めていた工場を辞めた。24歳の時だった。山口は、当時の心境をこう振り返る。
 
 「サッカーは自分の中では外せないものだったので、できるんだったらやりたい。たとえ体がボロボロになっても……くらいの気持ちで向き合っていたと思います。だから、ワールドカップに出られる可能性があるのなら、仕事を辞めることは当然だった。そのくらい、サッカーの魅力に取り憑かれていたのでしょう」
 
 本田と同学年で、中学校教師となっていた加治は、休日の遠征で学校行事を休むたびに、同僚たちからの厳しい視線に晒されていた。

 「遠征があったりすると、どうしても授業やイベントに穴をあけてしまうことになるので、クラスの担任という立場としては、やはり肩身の狭いところがありました。ある遠征試合の後、職員朝礼の時に『ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした』とお詫びをして、ちょっとだけ試合の話をしたんです。そしたら後で『試合がどうとかなんて、要らんねん』と言われてしまって。社会人だし、迷惑をかけているし……返す言葉もありませんでした。もしこの後、ワールドカップに出場するとなると、さらに迷惑がかかってしまうのは分かっていたので、ある時『担任を外してもらいたい』とお願いしたりもしました。でも、人事担当の方曰く『あなたは代表に選ばれるんですか?』って。正直に『いや、それはまだわかりません』と答えたら、『わからんのにそんな人事できるか』と言われてしまいました」

 皆、サッカーと生活の両立に、苦慮していた。でも、大好きなサッカーのためだから、耐えられた。

 すでに彼女たちは、当時の代表チームの選手としては最高齢の年代に入っていた。ワールドカップへの挑戦は、これが最初で最後だ。皆、そう覚悟していた。

周囲を牽引する本田の魂のプレー
 当時、本田や野田と同じ読売ベレーザにいたのは13歳の澤穗希だ。のちに2011(平成23)年のワールドカップで日本代表を世界一へと導くことになる彼女は、本田たちの姿を間近で見ていた。澤が特に強く記憶しているのは、ワールドカップに臨む本田の気迫だった。
 
 「すごいファイターでしたね。けがも恐れず、相手に向かっていく。技術や戦術についても学ぶべきところはたくさんありましたが、それよりももっと大事なのはハートだってことを教えてくれたのが本田さんでした。どれだけ勝ちへの気持ちを出すことができるのか、それをまさに一番体で示してくれていた選手でした。そこに追いつきたい、という気持ちでいつも練習していましたし、まさに目標と言っていい存在でしたね。一緒にプレーしたのは1年間だけでしたけど、その時間は、私にとって非常に大きな財産となりました」

 野田も、「本田=ファイター」説に強く同意する。
 
 「本田さんは、もとはライバルチームの選手でしたが、私にとっては女子サッカーの面白さを身をもって教えてくれた先輩の一人です。果敢にスライディングするなど、やはり闘っている姿が印象的で、言うなれば『魂の選手』というイメージ。また、本当に何もない女子サッカー黎明期からコツコツと実績を積み重ねていった第一人者であり、私も後進の一人として、その思いを繫いでいかなくちゃという意識がありました」

勝利と敗北
 1991(平成3)年5月、ついに運命の日が訪れた。第1回FIFA女子ワールドカップ(当時の名称は女子世界選手権)中国大会のアジア予選が始まったのだ。

 アジア9チームのうち、本戦に出られるのは上位3チームのみ。日本が初戦で戦うことになったのは、強豪・北朝鮮。特に、走りのスピードには定評があるチームだ。いきなりの強敵を前に、皆一抹の不安を胸に抱いていた。だが、ここで勝たなかったら話にならない。

 豪雨でピッチはぬかるみだらけ。足を取られ、思うように動けない。ボールもまともに転がらない。しかし、やりづらいのはお互い様だ。雨と泥でぐちゃぐちゃになりながらも、皆必死に走り、ボールを追った。

 悪環境からトラブルも発生。試合中、北朝鮮の選手と接触した本田が倒れた。スパイクで踏まれ、立てないほどの激痛が走った。地面に寝転ぶ本田の目に、交代を告げようとする監督の姿が見えた。
 
 「こんなところで終われるか」
 
 勝利への強い思いと、アドレナリンが彼女を試合へと突き動かした。倒れている場合じゃない。まだ戦える。
 
 試合結果は、1対0で日本の勝利。守備に戻った本田を中心に、1点のリードを懸命に守り切った結果だった。この試合を皮切りに日本は勝利を重ね、グループリーグを首位で通過した。
 
 続く決勝トーナメントで日本は、チャイニーズ・タイペイとの試合を迎えた。悲願のワールドカップまで、あと1勝──。

続きは『新プロジェクトX 挑戦者たち 3』でお楽しみください。

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