撮影における方法論は、一切の私的感情を排して、即物的な記録に徹すること。
焼け焦げた弁当箱、溶けたガラス瓶、もう二度と袖を通されることのないベビードレス――『Hiroshima Collection』は原爆被害の苛烈さや暴力的に遮断された日常の断片を伝える被爆資料写真と、文字で記録された被爆直後の過酷な状況や遺された家族の悲しみを、見開きに配置した写真集です。
核兵器の脅威が迫りつつあるいま、原爆がもたらす「リアル」を伝え、世界の在り方を問い直す1冊。大半の所蔵資料が被爆関係者の寄贈からなる広島平和記念資料館の図録的な意味合いも持ちます。
原爆投下から80年、著者の写真家・土田ヒロミ氏による「あとがきにかえて」を特別公開します。
『Hiroshima Collection』あとがきにかえて
人類と熱エネルギーとの関係は、約200~170万年前にホモ・エレクトゥスが起こした火が、そのはじまりとされています。以来、蒸気エネルギーや電力の活用などを経て、20世紀、原子の核分裂による未曽有のエネルギーを発見します。人類にとって、それは新たな局面の始まりでした。その威力を最初に応用したのが、大量殺戮を目的とした原子爆弾だったのです。そこで明らかになったのは、人間と自然との関係が逆転しかねない大状況が生まれたことです。
2025年現在、地球上に蓄積された核爆弾の総量は今やこの地球を何度も繰り返し壊滅させることができる破壊力を有しています。それらの核兵器は、アメリカ、ロシア、フランス、イギリス、中国、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮など各国に保有され、今後更なる蓄積・拡散が予測されています。
1945年8月、第二次世界大戦の末期、アメリカが開発した原子爆弾は、戦略目的から広島と長崎に投下され、広島では市民の頭上600mで炸裂します。人的被害は当時の広島の人口約35万人中の約14万人、人口の約40%がその年の年末までに爆死し、都市は壊滅しました。この死者数は、これまでの戦傷死とは決定的な意味の違いがあります。原子爆弾による破壊は、人類が営々と築いてきた生命の連鎖や叡智、文明や文化を壊滅させ、地球上のあらゆる生物をやがて死滅へと追いやる可能性を実証するものであったのです。叡智としての科学と人間の存在の関係が逆転してしまった状況が示されたのです。
被爆した広島市では、終戦間も無く1949年頃から、被爆資料としての都市の破壊痕の収集が開始されました。時をおかず、被爆衣類や日用品などが収集されはじめ、それに急かされるように1955年、広島平和記念資料館(原爆資料館)が設立されます。そして現在までに、2万余点の資料が収蔵され続けています。
広島平和記念資料館は、市民自らの主体的な寄贈・寄託行為によって成り立っている世界でも稀な博物館です。
私は、1982年を初回として、継続的にこれまで4期(1982年、1995年、2018年そして2023~2024年)にわたり被爆資料を記録してきました。その理由は、永く、個人が私蔵していた遺品類の寄贈・寄託が止むことなく続いていたからです1)。2000年以降、遺族の世代交代の時代に入り、一世代が守り続けてきた「形見」としての遺品の寄贈が増えてきましたが、そのような遺品を記録するには、長期間撮影を継続する必要があったからです。それらの被爆資料を通して、原爆による惨状が市民生活の日常の広範囲かつ深部に及んでいることを記録しなければならないと考えたのです2)。
また、もうひとつの動機として、原爆による悲劇を「他者の痛み」にとどめてはいけない、という思いがありました。私たちは、核戦争が常に身近で起こり得る世界に生きていること、さらに、そこにはもはや勝者も敗者もないのだと認識する必要があるのです。
撮影における方法論は、一切の私的感情を排して、即物的な記録に徹すること。対象について私的な解釈をしないことを第一義としてきました。写真家の個人的な解釈や感性によって、事実と乖離したイメージの美化や資料の持つ悲劇性のみが誇張されることを避けるためでした。また、様々な資料の「日常のかたち」の記号性を重視することは、1945年8月6日のヒロシマが、紛れもなく現在の私たちの日常につながることを示唆しています。この方法論は、40年前の最初の撮影から現在まで一貫しています。
テクニカルな記録方法については、初期の撮影では銀塩フィルムを使用。今世紀に入り、デジタル技術の進化によって圧倒的な高画質での記録と自在な表現が可能になり、3回目からの撮影はデジタルカラーでの記録となりました。
私の「ヒロシマ・コレクション」の表現の特異性は、写真表現の中に「文字」を構成的に用いたことです。資料自身の「物語」を写真と同格に文字として配置し、両者を同時に知覚できるように構成しています。時間を遡ることが困難な写真に、過去を自在に表現できる文字を同平面に一体化させることで、被爆の事実が過去の出来事に留まることなく、現在という時間にも通底する表現になると確信し、継続してきました。このコンセプトが、被爆の実相をリアリティを持って伝えていくことを願っています。
過度な情報社会にある現在、私たちは、明日を探そうとすることにとらわれて、過去を読み取る能力を失いつつあります。しかし、他者への愛に支えられた想像力を失ってはなりません。過去への深い解読と理解は、未来への深い洞察力をもたらすものです。歴史におけるヒロシマ・ナガサキを、人類の未来への警鐘として今、改めて冷静に捉える必要があると考えます。私たち人類にとっての「形見」の記録ともいえる『Hiroshima Collection』が、その一助になることを希望してやみません。
最後に、長年の撮影と今回の出版にあたり、多くの方々のご協力をいただきました。広島平和記念資料館歴代館長と被爆資料提供者の皆様、資料館には1980年代初めから撮影に際しご協力いただいていますが、直近では200点を超える資料の撮影となりました。学芸係長の落葉裕信氏、玉川萌氏・高橋佳代氏はじめ学芸員の皆様には業務が多忙を極める中で最大限のお力添えをいただきました、その道筋を引いていただいた豆谷利宏副館長には、本書へのご寄稿もいただきました。改めて感謝申し上げます。
1) その過程で被爆50周年にあたる1995年に出版した『ヒロシマ・コレクション』(NHK出版刊)には、被爆資料約150点を収録している。
2) 前著刊行から30年、被爆80周年に刊行する本書は、前著の改訂増補版という位置づけでもあり、前著に掲載した資料を含む約300点の資料を収載。厳選し代表的・象徴的な資料のみならず、写真や展示にはあまり出ない資料も含め、資料館所蔵の全体像を表現するような資料を選んで編集した。
著者
土田ヒロミ
1939年福井県南条郡堺村(現・南越前町)生まれ。1963年、福井大学工学部卒業後、ポーラ化粧品本舗に入社。1964年、東京勤務を機に東京綜合写真専門学校研究科で学ぶ。1966年、同校卒業。1971年、独立し写真家の道を選ぶ。同年、「自閉空間」で第8回太陽賞受賞。1976年ごろから開始した「ヒロシマ三部作」は『ヒロシマ1945–1979』(朝日ソノラマ、1979年)、『ヒロシマ・モニュメント』(冬青社、1995年)、『ヒロシマ・コレクション』(NHK出版、1995年)として刊行され、現在に至るまで広島の撮影を続けている。
ヘッダー画像:腕時計 寄贈者:石井美智子(石井イツさんの娘)