【美人すぎて敵将も虜に】イタリアの女傑カテリーナ 「子はここからいくらでも産めるわ」
文化が花開き、多くの都市国家や小君主国が乱立していたルネサンス期のイタリアにおいて、その美貌と冷酷さから女傑として知られた女領主がいました。
その名は、カテリーナ・スフォルツァ。
彼女の残酷さに人々は恐怖し、その美しさは敵将を夢中させたと言います。
そんなカテリーナとは、一体どんな人物だったのでしょうか。
残忍すぎた父と、美人すぎた母
1463年、ルネサンスが盛期を迎えるイタリアで、カテリーナはこの世に生を受けました。
父親は残忍さで知られるミラノ公ガレアッツオ、母親は優雅な美貌で評判のルクレツィアでした。
カテリーナの誕生のいきさつは、その後の彼女の人生を暗示するかのように波乱を含んだものでした。
母ルクレツィアはミラノ出身で、カテリーナを産む前にガレアッツオの友人ランドリアーニ伯爵と結婚し、二人の子供をもうけていました。しかし、ガレアッツオはルクレツィアに一目惚れし、邪な下心を抱いたのです。
1460年のある日、彼は自らの居城にルクレツィアをおびき寄せ、そこで彼女に性的暴行を加えました。
さらに、ガレアッツオはランドリアーニ伯爵に「ルクレツィアを自分の妾にしたい」と要求します。ランドリアーニはミラノの勇将だったガレアッツオの脅しに逆らえず、妻を差し出すしかありませんでした。
その後、ルクレツィアはガレアッツオとの間に四人の子供を産み、そのうちの二番目がカテリーナでした。
幸せな結婚生活から一転
父親から勇猛さと冷酷さを、母親からは当代随一の美貌を受け継いだカテリーナは、11歳で結婚します。
相手はローマ教皇シクストゥス4世の甥で、小都市イーモラとフォルリの領主であるジローラモ伯爵でした。
ジローラモは教会軍の司令官としてローマの軍事と政治を統括しており、カテリーナも夫と共にローマで暮らし、数年後には長女ビアンカと長男オッタヴィアーノをもうけました。
順調に思えた結婚生活でしたが、1484年に後ろ盾であったシクストゥス4世が急逝すると状況が一変します。
ジローラモがローマで反乱を企てるも失敗し、カテリーナは子供たちを連れて領地フォルリへ戻らざるを得なくなったのです。
さらに、バックボーンを失ったジローラモはフォルリ領内の不平分子によって反乱を起こされ、殺害されてしまいます。
そして、カテリーナも子供と一緒に捕えられてしまったのです。
初戦でいきなり戦上手だったカテリーナ
絶体絶命の状況にもかかわらず、カテリーナは驚くほど巧みで大胆な駆け引きを展開しました。
彼女は敵に捕まることを察知すると、すぐに実家のミラノに援軍を求める急使を送っていたのです。同時に、領地フォルリの城を預かっていた城代には「城を死守しなさい」と命令していました。そして自らを捕らえた反乱分子には素知らぬ顔で、「城を明け渡すよう、私が城代を説得してみましょう」と申し出たのです。
この申し出にまんまと騙された反乱側はカテリーナを解放してしまいます。カテリーナは堂々と城に入り、涙さながらの城代に迎えられます。そして当のカテリーナはというと、さっさと部屋に入って寝てしまったのです。
一方、じりじりとした面持ちで開城を待ち構えていた反乱者らは、ここでようやくカテリーナにはめられたと気づきます。まんまと騙された彼らは当然のごとく怒り狂いました。
反乱者たちは、カテリーナの子供たちを人質として城の前に連れ出し、泣き叫ぶ子供たちの喉元に剣を突きつけて降伏を迫りました。
語り継がれる逸話によると、なんとカテリーナはこの時、城塞の上からスカートを捲り上げ、自らの身体を見せて「子供なんて、ここからいくらでも産めるわ!」と啖呵を切ったといいます。
そして、あっけに取られた敵を尻目に、時間稼ぎに成功したカテリーナの元へミラノからの援軍が到着し、あっという間に形勢を逆転させてしまったのです。
こうしてカテリーナは反乱の鎮圧に成功し、援軍の総大将を引き連れてミラノに凱旋、二人の子供たちも無事に救出されました。
恋する女の恐るべき復讐劇
その後、カテリーナは二人の子供をそれぞれイーモラとフォルリの城主に任命し、自らは後見人として実権を握りました。
そして、夫亡きあとの彼女は新しい男性に夢中になります。
相手は8歳年下の小姓、ジャコモ・フェロでした。
二人は1490年に秘密裡に結婚しますが、ジャコモはこの結婚を機に、カテリーナの子供たちに対して付け上がった態度を取るようになります。
ある時には、息子オッタヴィアーノの頬を家臣全員の前で張り飛ばすこともありました。
こうしたジャコモの態度は周囲からも嫌われ、その憎悪からついに殺害計画が企てられます。
1495年、計画の首謀者となったゲッティという男が中心となり、狩りから帰ってきたジャコモを襲撃し、その場にいたカテリーナの目の前でジャコモを蜂の巣のように刺し、遺体を井戸に投げ捨ててしまったのです。
あまりの惨劇にカテリーナは嗚咽を隠せませんでしたが、その涙はすぐに凄まじい憤怒と復讐の炎に変わりました。
まず、首謀者のゲッティは捕らえられ、大聖堂のバルコニーから裸で吊るし首にされました。ゲッティの仲間7人は拷問の後、馬に縛られ市中引き回しとなります。5人はそのまま息を引き取り、残り2人は大聖堂でゲッティの亡骸の横に吊るされました。
しかし、カテリーナの復讐はそれに留まらず、謀反人の家族にまで及びました。
ゲッティの家族は生きたまま空井戸に投げ込まれ、親類縁者たちは10日間で40名が死刑、50名が投獄されたのです。
彼女の冷酷さに、領民たちはみな戦慄するばかりでした。
「敵将すら夢中になった」カテリーナの魅力と晩節
一方で、カテリーナは冷酷さだけでなく、女領主として防衛と外交に優れた才能を発揮し、「女傑」としてその名を広く知られることとなります。
しかし、そんなカテリーナもイタリア統一の野望を抱く、チェーザレ・ボルジアの進撃には抗えませんでした。
チェーザレとの一か月に及ぶ戦いの末に、敗北を認めざるを得ない状況となります。
カテリーナが城を開けた1499年、彼女は30代も半ばを過ぎようとしていました。
12歳年下のチェーザレはカテリーナの魅力に夢中になり、三日三晩彼女を手放さず、「これほどの女は生涯二度と現れぬ」と言わせたほどでした。
こうしてカテリーナは「イタリアの女傑」から「イタリアの男殺し」として、各国の宮廷にまで知られるようになったのです。
その後、カテリーナは一年の幽閉を経てローマの修道院に移されます。
以後はうって変わって敬虔な生活を過ごし、46歳で肺炎のためこの世を去りました。
権力、恋、闘争と激しくも華やかなカテリーナの生涯は、ルネサンス期の貴婦人の中でも特に異彩を放っていたと言えるでしょう。
参考文献:
『世界悪女大全』 文藝春秋 桐生操 (著)
『世界史を彩った美女悪女51人の真実』マイウェイ出版 副田 護 (著)
文 / 草の実堂編集部
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