フェアレディZ発売のころ:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#018
輸入車販売会社から雑誌記者に身を転じ、ヒストリックカー専門誌の編集長に就任、自動車史研究の第一人者であり続ける著者が、“引き出し“の奥に秘蔵してきた「クルマ好き人生」の有り様を、PF読者に明かしてくれる連載。
信号で私の横に最新のZが並んでいた。たいそうな人気にもかかわらず、生産量が限られているとかで、真偽のほどは定かではないが注文することさえ難しいとも聞いた。若い知人は、新車で買うには時間が掛かるからとネット検索して登録済み新古車を手に入れたともいう。
横に並んでいたZは、発進時の挙動からしてマニュアルギアボックスのようで、ドライバーの歳のころは私と同世代ではなかろうかと思えた。とすれば、1969年10月に東京モーターショーでの初代「フェアレディZ」(S30型)が発売された、あのショックを共有された世代だろう。
初代Zが発表された時のことを今でも鮮明に覚えている。SR系オープン・フェアレディが好きだった私は、後継のZがクーペであることに驚き、スポーツカーの使われ方が変わるような気がした。日本のモータリングに少しだけ変化が訪れたような気がする事例が身近にあったからだ。
Zデビューから2ヶ月して、弔事のために親戚が集まったときのことだった。叔父が、湿りがちな場を和らげようとしたのだろうか、Zの新聞広告を見ながら、「日本でもこんな立派なスポーツカーが造れるようになったのだなあ……」と口にした。
クルマ好きの高校生であった私にとっては、普段は“しかめっ面”をしている舞台俳優であった叔父にとってのクルマとは、“単なる移動手段”だと勝手に解釈していたので、笑顔でクルマのことを喋る表情に驚かされた。そして「案外、安いから、買おうと思うんだが……」と続けた。価格は93万円からで、確かに、「911」など、それまでの2ℓクラスのスポーツクーペは遙かに高価だった。
さらに「日本でもこんな立派なスポーツカー……」という言葉が妙に印象に残った。戦中に学生時代を送った苦しい経験をよく口にしていた叔父は、心から喜んでいるようにもみえた。
私より年長で草臥れた「ローレル」に乗っていた従兄弟も、叔父の意見に賛同し、「買ったら、乗せてください」といい、叔母たちは、「いい歳してスポーツカーなんて……」と混ぜっ返し、ひとしきり、普段にはないクルマの話で場が和らいだことを覚えている。追悼される立場の我が祖父はクルマ好きであったから、これもいい供養になったかもしれない。
今、思い返せば、叔父は中古で買った日産オースティン「A50」を愛用していたくらいだから、かなりのクルマ好きであったのだろうが、クルマの知識不足だった私には、叔父が古びたA50に手を入れながら乗っている理由がまったく理解できなかった。叔父は数ある中古車の中から、趣味性を兼ね備えた足を求めた結果が、A50だった。こうしたときに“Pride and Joy”と言葉を使うのだろう。
雑誌記者になって、職場でボスに叔父のA50について話したところ、自身が愛用していたA50への愛をつづったエッセイを見せながら、A50に手をいれてMG化した顛末を楽しそうに話してくれ、「叔父さんはクルマが好きだったのだろう」と続けた。
いうまでもなく、フェアレディZ以前にもトヨタ「2000GT」や「スポーツ800」、マツダ「コスモスポーツ」、ホンダ「Sシリーズ」、フェアレディSP/SRなどの2座スポーツカーは存在していたが、フェアレディZの登場は日本のスポーツカー市場にとってエポックメイキングなできごとだった。同時に主なマーケットであった北米では、Z以前と以後とではスポーツカーの存在感が激変したという。
スポーツカーが身近であった北米と違い、その頃の日本では一般の人々にとっては、非現実的で遠く特別な存在であったが、“屋根を持ったスポーツカー”であるZの登場で、「一歩、近づいてきた」そんな感覚であった。
Zの販売が始まったのは、戦後最長の高度成長期といわれる“いざなぎ景気”(1965年11月〜70年7月)と名付けられた好景気の時期であった。
1965年の名神高速道路全線開通に続き、69年には東名が全線開通して、本格的な高速道路時代の到来が、スポーツカーが存在感を増した理由のひとつなことは明らかだ。長距離高速走行の機会が増えたことで、日本車の走行性能は大きく向上することになった。速度が高くなったことで、事故に遭った場合の被害も大きくなり、事故の増大が大きな社会問題となっていたアメリカでは、すでに運輸省が1967年1月31日に連邦自動車安全基準(FMVSS)を発表し、安全性の強化を図っていた。日本でも自動車工業会(現:日本自動車工業会)が1968年1月に自主規制案を作成すると、1969年型車からその適用を開始した。これと当時に運輸省(当時)も1968年7月に「道路運送車両の保安基準」を改正して、安全性を高める要求を盛り込んでいる。
フェアレディZはこうした安全要件を盛り込んだ、新時代のスポーツカーであった。耐候性・居住性に優れることで、スパルタンな伝統的スポーツカーの対極にあった。
さらに付け加えれば、好調に滑り出したフェアレディZの前には、安全対策だけでなく排ガス規制の強化と石油ショックという試練が立ちはだかることになり、次々と改良が重ねられていった。そのぶん、初代型のS30の美点は削がれていき、次第に価格の高いグラントゥリスモに変身していくのだが、それも時代の求めに応じる必須要件だった。
発売から間もなくして私の周囲には何人かのZユーザーが誕生し、接する機会には困らなくなった。幸運なことに、中古車店で埃を被って並べられていたZ432R(本物!)を見つけて購入した友人もいた。また240Zでレースに出場して善戦した知人もいた。また、かつてのZユーザーのひとりが、終のクルマとして最新のZを選ぶかなと呟いたことも印象に残った。日本車のなかで、そうした長いヒストリーが織り込まれたクルマは希有ではなかろうか。
フリーランスになってから、Zを語るうえでキーマンとなる”Mr.K”こと、片山 豊氏に話を伺う機会が訪れた。何度かSCCJのクラブイベントでお会いしていたが、公式なインタビューは初めてのことで、かなり緊張して氏の事務所を訪れた。
片山さんはすでに100歳を超えておられたが、頭脳明晰ぶりに驚きながらのインタビューとなった、確かな記憶を裏付けにして、オールド・ダットサンのこと、240Zがアメリカにやってきた時のこと、米国日産のこと、そして根幹となる自動車哲学についてご教授をいただけた。インタビュー記事にしたのはごく一部に過ぎないが、今でもその時のメモノートは残っているので、なにかの際に披露したいと思う。
約束の時間を最後の1分まで使い終え、次の別れ際、私が1969年東京モーターショーで手に入れて保管していたリーフレットを差し出して、サインを懇願すると、笑いながら、“快走”とペンを走らせてくださった。