【パリ五輪開催記念】永遠のアイドル フランス・ギャルが渋谷系に再評価されたのはなぜ?
リレー連載【パリ五輪開催記念】フランス関連音楽特集 vol.5
「夢見るシャンソン人形」で国際的なアイドルに
90年代の日本で、60年代にデビューしたフランスのアイドル、フランス・ギャルの再評価運動が静かに広まった歴史がある。この現象は決して爆発的ではなく、時間をかけて徐々に浸透していったものである。
フランス・ギャルは1947年にパリで生まれ、1963年にポップシンガーとしてデビューした。17歳だった1965年に、イタリアで開催された「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」で「夢見るシャンソン人形」(Poupée de cire Poupée de son)を歌って優勝を果たし、アイドル的人気を獲得。セルジュ・ゲンスブールの作詞・作曲による同曲はヨーロッパだけでなく、日本を含む世界各国でヒットを記録する。
セルジュ・ゲンスブールは全体を統括するプロデューサーではなかったが、初期フランス・ギャルのイメージ戦略において重要な役割を果たした人物だ。ロックンロールなどの影響も受けつつ、キャッチーなメロディの「夢見るシャンソン人形」のような曲は、フレンチポップスのなかでも “イエイエ” と呼ばれた。
海外ポップスのカバーが流行していた60年代の日本では、弘田三枝子や中尾ミエなどの人気歌手が次々と日本語詞で「夢見るシャンソン人形」を歌った。さらに、フランス・ギャル本人による日本語バージョンのレコードも発売され、ビートルズと同じ1966年6月には来日公演も実現した。当時、ビートルズがほぼ独占していた音楽誌『ミュージックライフ』(シンコー・ミュージック)の表紙に、同年12月号ではフランス・ギャルが登場している。
同時代のアイドル、シルヴィ・ヴァルタン
セルジュ・ゲンスブールとともに、フランス・ギャルを語るうえで触れないわけにいかない人物がいる。同じくフランスのポップシンガーで、日本でもアイドル的人気が非常に高かったシルヴィ・ヴァルタンである。フランス・ギャルより3歳年上の彼女は1965年に初来日し、その後も長期の全国ツアーなど日本での積極的な活動を長く続けた。そして、70年代以降は国際的で多様な音楽活動を展開することで、大物スターとしての地位を築いていく。
これに対し、フランス・ギャルは60年代末期に人気が低迷し、商業的な成功を収められなくなっていった。本国では70年代もレーベル移籍を繰り返しながら新譜もリリースしていたが、1968年頃から日本盤の発売は途絶えた。つまり、日本のレコード会社に “フランス・ギャルはもう売れない” と判断されたということだろう。そのため、長らく日本においてシルヴィ・ヴァルタンこそがフレンチポップス、イエイエのアイコンだった。
女性アイドルたちがカバーを繰り返した「夢見るシャンソン人形」
しかし、フランス・ギャルが忘れられた存在になってからも、「夢見るシャンソン人形」は独り歩きし、70年代には南沙織、小林麻美、浅田美代子、ミミ(ミミ萩原)、麻丘めぐみ、石野真子といった女性アイドルたちがカバーを繰り返した。これほどの曲はめったにない。もっとも、その流れも80年代になると途切れる。おニャン子クラブ出身の河合その子は1985年にフレンチポップスのテイストで売り出されたが、「夢見るシャンソン人形」には手を出さなかった。
ただし、80年代にフランス・ギャルの楽曲に再び光を当てようと考えた日本の音楽関係者が皆無だったわけではない。ロックバンドのジューシィ・フルーツは、1982年に「夢見るシャンソン人形」を「夢見るシェルター人形」というタイトルの反核ソングにアレンジし、シングルとしてリリースした。また、同じゲンスブール楽曲の「涙のシャンソン日記」(Attends ou va-t'en)が1985年にホンダのCMに使用され、1987年には鷲尾いさ子がアルバムの中で同曲を川村カオリ作詞による「夜を待って」というタイトルでカバーしている。
90年代に再評価されたフランス・ギャル
忘れられていたフランス・ギャルの再評価運動が高まるのは90年代のことである。ただし、そこには前段があった。80年代後期より、音楽、映画、デザイン、ファッションなどフランス的な文化を新旧織り交ぜて指向する価値観が、マジョリティとは距離を置きたいごく一部の若者のなかで醸成されていくのだ。
1984年に日本上陸したアニエス・ベーが人気を集める一方で、ジャン=ポール・ベルモンドやジーン・セバーグを教科書として取り上げるファッション誌があった。ミニシアターで観た最新レオス・カラックス作品に興奮した人が、シネマテークにヌーヴェルバーグ作品も観に行っていた。あえて言葉にすれば、“新旧リミックス・フレンチカルチャー至上主義” といったようなものの誕生である。
映画監督でもあるセルジュ・ゲンスブールが、娘のシャルロット・ゲンズブールの主演で撮った『シャルロット・フォー・エヴァー』の日本公開は1988年である。そして、音楽業界全体で過去の名盤やベスト盤のCD化が積極的に行われていた時代背景もあり、「夢見るシャンソン人形〜フランス・ギャル・ベスト」は1989年に日本で発売されている。ジャケ写でフランス・ギャルが赤いセーターを着ている、あのCDである。
渋谷系ムーブメントとフランス・ギャル
上記のような土壌ができあがった上に、90年代になってのちに “渋谷系” とカテゴライズされる音楽のムーブメントが本格化することで “フランス・ギャル大好き” な人が一気に増えていった。というのも、フリッパーズ・ギターのメンバーなど、キュレーター的な役割を果たしたミュージシャンの周辺でセルジュ・ゲンスブールやフランス・ギャルの名前が浮上し、認知され、それが広まっていったからだ。
HMV渋谷のオープンは1990年11月で、フリッパーズ・ギターに楽曲提供を受けた渡辺満里奈が『ブルータス』(マガジンハウス)の映画特集でジャック・タチ監督を語っていたのはその翌年だ。1992年にはレオス・カラックス監督の『ポンヌフの恋人』が日本公開され、フレンチ路線でプロデュースされたカヒミ・カリィがデビューした。そんな時代だった。
1993年に何が起こったのか?
そして、1993年になると、フランス・ギャルの再評価運動が加速する。当時はビーイング全盛期、trf(現:TRF)はデビューしたばかり。Mr.Childrenのブレイクもこの年だ。そんな頃に、密かにフランス・ギャル需要が高まっていたのである。何が起きたのか検証してみよう。
▶︎ 1月:「夢見るシャンソン人形」が関西ローカルのテレビドラマ「べにすずめたちの週末」(関西テレビ)の主題歌となり、フランス・ギャルが歌う他の楽曲も劇中で使われた。
▶︎ 3月:女性4人組のバンドSuzy Susieが、「SUZY SUSIE COLLECTION〜'93春〜」というアルバムのなかで、「夢見るシャンソン人形」「涙のシャンソン日記」をハードロック風にカバーした。
▶︎ 4月:Suzy Susieの「夢見るシャンソン人形」がシングルとしてリリースされ、バラエティ番組「浅草橋ヤング洋品店」(テレビ東京系)のエンディングテーマに起用された。
▶︎ 11月:カジヒデキも在籍したネオアコ系6人組バンドBRIDGEが「夢見るシャンソン人形」のカバーを「Poupée de cire Poupée de son 夢見るシャンソン人形」のタイトルでシングルとしてリリースした。
▶︎ 11月頃:BRIDGEの「Poupée de cire Poupée de son 夢見るシャンソン人形」が石田ひかりが出演する三菱自動車「ミニカ」のCM曲として起用された。
▶︎ 11月:男性2人組ユニットnice musicが、「夢見るシャンソン人形」を「LITTLE CHANSON DOLL」という英語詞でカバーし、シングルとしてリリースした。
▶︎ 12月:「夢みるシャンソン人形〜フランス・ギャル・ベスト」が再発された。
「夢見るシャンソン人形」推しのミュージシャンやコンテンツ制作者が同時多発的に現れたのだ。30年近く前の同じ外国曲を1年のうちに3組がカバーするというのは異常事態ともいえた。ただ、1993年の「夢見るシャンソン人形」たちは特にヒットしたわけではない。あくまで静かなブームだった。当時、若者だった人のなかには、思い出の中にフランス・ギャルがまったく登場しない人も多いだろう。
静かなブームだったからこそ、オリジナルの「夢見るシャンソン人形」の8cmシングルが発売されることもなく、フランスでは低迷期を脱して本格シンガーとして地位を確立していたフランス・ギャルの来日公演も実現しなかった。しかし、再発された「夢見るシャンソン人形〜フランス・ギャル・ベスト」はその後もジワジワと売れた。また、しばらくは他の輸入盤CDも外資系レコード店に平積みされていた。
フランス・ギャルの魅力とその影響
ところで、一連の流れのなかで、なぜシルヴィ・ヴァルタンはほぼスルーされ、フランス・ギャルの注目度だけが上がったのだろうか? 明確な理由はわからない。ただ、90年代の若者にとって、フランス・ギャルは極めてわかりやすかったことが理由のひとつだろう。彼女はアイドル性が高く、アイコン感が突出していた。そして、名前もアイコン的だった。
ちなみに、“ギャル” は本名のイザベル・ジュヌヴィエーヴ・マリ・アンヌ・ギャル(Isabelle Geneviève Marie Anne Gall)からで、フランス語で “若い女性” を意味する “gal” ではない。だとしても、覚えやすかった。おそらく “フランスの若い娘” という芸名だと今でも勘違いしている人もいるかもしれない。
そしてウィスパーボイスとスキャットを織り交ぜた歌声の魅力も大きなフックとなった。また、ゲンスブール提供曲はひたすらキャッチーで、その一方で他の作家による「ジャズ・ア・ゴー・ゴー」(Jazz À Gogo)や「ジャズる心」(Le Cœur Qui Jazze)などジャズのテイストを盛り込んだ曲は、リスナー層のおしゃれ指向を満足させるものだった。とにかく90年代の気分に合っていたのはフランス・ギャルの方だったということだろう。
再評価運動の静かな盛り上がりは30年以上前のことだが、その後もフランス・ギャルは、時代ごとの新しい音楽ファンにとって新鮮な発見の対象になっている。そして、「夢見るシャンソン人形」は多くのミュージシャンにカバーされ続け、CMでも起用され続けている。フランス・ギャル、それは、フレンチポップスの入門書でありつつ、バイブルなのである。